経験談

生きづらさを感じる人が語る 経験談

経験談はそれぞれの投稿者の個人的な価値観や感じ方をそのまま掲載しています。一部、リアリティのある描写や強い価値観が含まれるため、読む人にとっては負担等を感じる場合もあります。各自の判断で閲覧してもらえるようにお願いします。

私は幸せ

私は幸せ。特別家庭環境が悪かったわけでも、いじめとか辛い経験をしたこともない。裕福ではないにしろ、経済的にも困ったことはない。きっと幸せなはずなのに、中学生あたりから気づいたら毎日死にたい、消えたいと思うようになっていました。

中学生のころからリストカットを始め、大学生になってからは過食嘔吐になりました。腕の傷は「腕の毛剃るときに失敗しちゃった」と誤魔化し、過食嘔吐のことも誰にも言えずにただ太ったことにして誰にも本当のことは言えませんでした。そんな嘘を信じる親や周りの人を見て、誰も私のことなんてわかってくれないんだろうなと思うようになりました。

だけど、誰にも本音で言えない、上辺だけの関係性の人しかいない私にも唯一の友達がいました。高校のときからの友達で、唯一私が過食嘔吐やリスカについて話すことができた人です。それを知ってて変わらず接してくれたり、話を聞いてくれたりして本当に大好きな友達でした。私がここまで生きてこれたのはその友達のおかげと言っても過言ではないくらい。でも、先週初めて友達と喧嘩しました。原因は私です。大学生になってからずっと好きだった人がいて、去年の夏からずっと所謂都合のいい女をやっていました。最近は吹っ切れていたのですが、また彼から連絡が来て、友達が止めてくれたにも関わらず私は彼の家に行ってしまいました。その件に対して友達から「浅ましい」「恥ずかしいと思わないの?」など傷つく言葉をたくさん言われました。一番信頼してたからこそそんな言葉言わせてしまったことが申し訳なかったし、前から思っていなきゃそんな言葉出てこないよなと思って毎日自分を責めました。自分を責めて責めて、彼女の言葉に一週間返信することができませんでした。やっと心の整理がつき、返信することができましたが、いくら待っても既読がつかず、案の定LINEをブロックされていました。他のSNSも確認したところ全てブロックされました。拒絶するほど私のこと嫌いだったんだなとか、今までかけてくれた優しい言葉も全てが嘘だったのかなとか全てがショックで本当に辛い。今までの関係がたった1回の喧嘩で崩壊してしまって、謝罪する機会も与えてもらえなかったことが悲しくて悔しい。唯一の友達(友達だと思ってたのは私だけなのかもしれないけど)を失ってしまい、もう私誰からも必要とされてないなと思うようになりました。

大学も医療系学部なこともあり、課題やテストに追われ体の限界も来ています。大学から「留年」の言葉をチラつかせられる度に、課題やテストへの不安で眠れなくなります。他の人は難なくこなしているのになんで私はできないんだろう。大学にも通わせてもらって、何不自由ない生活を送らせてもらってるのに、なんで死にたい消えたいと思ってしまうのだろう。なんで私は普通に生きられないのだろう。

最初にも言いましたが私は幸せです。それなのに死にたいと思ってしまうことが申し訳ない。唯一の友達からも拒絶され、私には生きる価値なんてないように思えます。友達の言う通り、私って本当に浅ましい人間だなと思います。

感想1

経験談への投稿、ありがとうございます。
自分以外の誰かに相談しづらい悩みを打ち明けることのできる友人の存在は、精神的にとても大きな支えなのだろうなと感じ、その存在が離れてしまうことは、投稿者さんにとって何よりもしんどいと感じる出来事だったのではないかと、読んでいる私も似た経験を思い出し、共感に似た感情が内から湧いてくる思いです。
リスカや過食嘔吐の背景が私には読み取れなかったのですが(申し訳ありません…)、それらを継続的に行わせるに至るほどの過去と、唯一相談することができ、それでも変わらず接してくれる友人との対立とが重なり、精神的な負荷は私にはきっと想像することができないほどなのだろうと感じました。
大好きだった人からの久しぶりの連絡は、所謂「都合のいい女」を演じていたと自覚していても心躍る瞬間だったのだろうと感じます。大好きという感情が健在なのだから当然のようにも思えます。ただ、友人は投稿者さんの為を想って止めていたのだろうと読み取れましたし、投稿者さんが大好きな人の家に行った後友人と連絡が取れなくなったのは、その「都合のいい女」のその後を、友人の方は想像してしまったのかもしれないな、とか、無数にある結末の中で投稿者さんにとってつらいであろう結末になってしまう可能性をわずかながらにも感じ、止められなかった事に対し悲しみに暮れる思い、申し訳ない思いがあったから距離を取る選択をしたのかなとか、もしかしたらそうかもしれないな、という考えが私の頭の中に浮かびました。そうはいったものの、私の友人にも所謂「都合のいい女」を自覚したうえで演じている人がいたからか、友人が投稿者さんから離れてしまったことはなんとなく、本当になんとなくですがわかるような気もします。ただ、もしそうだとしても、一方的にシャットアウトされて伝えたいことも伝えられない状況は、とても煮え切らないものがあると感じます。
タイトルや冒頭、最後の方にも残してくださっている「私は幸せ」という言葉の裏側には、もしかしたら「そう思わないといけない」と感じている投稿者さんの姿があるのではないかという風に感じ取れました。つらい時はつらいって言っていいと思うし、そういった想いが吐き出せる場所が見つからないときは、またここに書きに来てもらえたらいいのかなって思いました。
改めて、投稿ありがとうございました。

感想2

投稿読みました。あなたが「私は幸せ」と言いながら、その言葉の背後にどれほどの苦しみや葛藤が折り重なっているのかが伝わってきて、「幸せ」という言葉がどこか置き去りにされてしまっているように感じました。同時に「幸せ」の定義って何なのだろうな…とも頭を巡らせていました。
この社会には、例えば“つらいと感じるには十分な理由がなければいけない”、“恵まれているなら不幸を感じるべきではない”という、無言のルールのようなものがあるなと私は感じます。でも人の心は、そんな簡単に理屈で割り切れるものではないはずで、家庭環境が良くても、物質的に満たされていても、それでも内側から湧き上がってくる苦しみがあると思います。リストカットや過食嘔吐は、罪悪感や孤独、言葉にしきれない痛みを抱える中で、それでも生き続けるために選ばれてきた手段だったのではないかなと。本当は、誰かにわかってもらいたくて、本当の自分を見てほしくて、それでも「こんな私を見せたら嫌われてしまうのではないか」という不安やその緊張感の中で、ずっと一人で戦ってきたのではないでしょうか。(違っていたらすみません)
そうした中で出会えた友達は、きっとあなたにとって「唯一、安心して自分をさらけ出せる存在」だったのかなと想像しています。その大切な人との関係が、たった一度の喧嘩で壊れてしまったときのつらさと喪失感は、想像以上なのではないかと思いました。信じていたからこそ、頼ってしまったからこそ、そしてその結果傷つけてしまったからこそ、もう謝ることもできないことの痛みが、深く残り続けているのではないかなとも思いました。
「浅ましい」と言われた言葉が何度も心の中で反芻されている様子から、あなたがどれほど自分を責めているのかが伝わってきました。でも、本当のところ、誰だって完璧じゃないし、間違いをすることも、感情に突き動かされてしまうこともあると私は思っています。その選択が良かったかどうかではなく、なぜその選択をしてしまったのか、そこに至るまでの過程こそにもっと目を向けるべきはずなのに、たびたび“結果”だけで人を判断してしまいがちで、そうした傾向は特にSNSが当たり前になった今の社会で、いっそう強まっているようにも思います。医療系の学部というハードな環境に加えて、日々のプレッシャーや他者との比較に苦しみながら、“頑張ること”がすでに限界にきていて、それでも歯を食いしばって続けている中で、“死にたい消えたい”と思うのは無理もないのではないでしょうかね…。
「私は幸せです」と改めて書かれた言葉は、自分自身に言い聞かせているようにも読めました。もしかしたら、そう思うことで何とか自分を保とうとしているところはあるのかなと思いつつ、その「幸せ」を現実の苦しさが容赦なく崩していくことで更にあなたを追い詰めてしまっているようにも感じました。けれど実際、“幸せに見える生活”と“心が感じる幸せ”は必ずしも一致するとは限らないですし、自分が何に傷ついてきたのか、なぜ苦しいのか、そういったことを自分自身が無視をしないことも時に必要なのかもしれないなとも思ったりしました。あなたは自分の痛みと向き合おうとしているのだと感じますし、浅ましい人間だとは私は思わなかったということをお伝えして感想とさせていただきます。またしんどくなった時はいつでも死にトリを活用してほしいです。投稿ありがとうございました。

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