経験談

生きづらさを感じる人が語る 経験談

経験談はそれぞれの投稿者の個人的な価値観や感じ方をそのまま掲載しています。一部、リアリティのある描写や強い価値観が含まれるため、読む人にとっては負担等を感じる場合もあります。各自の判断で閲覧してもらえるようにお願いします。

自死遺族

自死遺族となり10年以上たちます。今まで長い年月でした。
身内をなくして数年は何もできず寝起きするだけの生活が続きようやく5年たった頃
日常生活が取り戻せましたがそれ以上のことができない状態が何年も続いてます。
新しいことや人生を進めてくことが何もできないまま10年以上たち今に至ります。
その間に精神が疲弊し立ち直れません。蓄積した精神的疲労は体の疲れのようにとれずずっとのしかかったまま。気分の浮き沈みはなくならず泣きたくなることが多々。
身内をなくしてても自分も死にたいと思うことは何度もありその度踏みとどまってきたけどそれも疲れます。
なくなった人を思い出せば辛くなり後悔と自責の念ばかりが残ります。
遺族会で話すこともありますがそれで癒えることはないです、ただ、思いを吐露し同じ立場同士わかちあうのがこの場の役割で気楽になるとかきもちがおちつくということではないです。そして他の遺族と違うのが自死遺族同士か病院、相談窓口でしか話せないということです。
病気、事故、震災で遺族になった人たちと違い隣り近所や親戚、友人に話ができません。
それが自死遺族の大変なところで胸に抱えてる時間が長いです。なので身内がなくなったことをしらない身内をしる人に近況きかれても、元気ですというしかなくこれがとても辛いです。そのぐらい外では話せない状況を抱えいきてかないとならないのは疲れます。
家族も同様で親戚にはしらせられないから喪中はがきはださずに例年通り年賀状をだしました。そして正月はその年から行わなくなりました。死ぬまで喪に服すのが唯一遺族にできることですが線香しかあげれないのが悔やまれます。
もっとしてあげるべきことがあったはずなのにと。なんできづいてあげれなかったのかと。
この思いは一生続きます。そして忘れることなく思い出せば涙する日々です。
大事な存在をなくしたことのひきかえにこうなったのだと。残された者に幸せや平穏な日々は与えられず自責の念と後悔に苛まれていきてくのが当然と。でないと故人に申し訳なく謝ることもできないから最低限の償いだと思ってます。
遺族以上に辛かったのは故人自身なのだからその思いは遺族が持ち続けるべきだと思います。

感想1

投稿文を読ませてもらいました。
あなたにしかわからない思いを抱えながら生き進めてきた10年だったのだと思います。長かった10年だったと書かれていましたし、もしかしたら1日すら長く感じてきたのかもしれません。
自分自身が生きることに迷い、踏みとどまってきた様子も伺えました。
私は家族を25年ほど前に自死で亡くしました。それから10年以上経ってから自死遺族の活動を知りました。その時初めて「あっ自分も自死遺族ということになるのか…」と認識しました。しかし一度も自死遺族の活動に私は行ったことはありません。私の場合は亡くなった家族と私自身の間にある記憶や思いを誰か別な人と共有できたり分かち合えるイメージが全然わかなかったからです。それはもしかしたらあなたの感覚に少し近いのかもしれません。私はあれから家族含めて自死についてはほとんど話題にしたことはありません。親戚とも疎遠になっていきましたし、周囲からどう思われているんだろうと考える時期もありました。もちろんふとした時にいつでも当時の映像や考えたことを思い出しますが、故人の人生と私の人生を別なものとして生きています。あなたはなくなった身内の方と今も人生をともにしているように思いました。きっと人生を重ね合わせ続けるだけの理由があるのだと私は思います。そしてそこにはどんな背景があるのか知りたくなりました。あなたの日常は、傍から見ると何ごともないように生きているように見えるかもしれません。でもその内面は悔やみ、自身を責め続けているんですね。もちろんなくなった身内の方があなたに何かを背負わせているわけではなく、あなたがあなた自身に背負わせて一生縛ろうとしている何かがあるのだと、私はしばらく想像していました。どんなに考えてみても私にその何かが分かるわけもありませんが、あなたの苦しさみたいなものだけは投稿文から伝わってきます。でも苦しさが伴っても後悔や自責感を無理に手放そうとせずに抱えていることで本当の孤独感は訪れないのかもしれません。それも大切なことかもしれないですね。
私も亡くなった家族にいまできることは線香をあげて時々心の中で話をするだけです。あなたが書かれていた通り、想像以上に辛かったのは故人だと私も思います。だからこそきっとあのまま生きていたらずっと今も辛かったんだろうな…。そんな風に思うことが私は増えたような気がします。勝手に自分に重ね合わせながら想像で感想を書いてしまった部分もありますが、会ったことがないあなたと“抱える思い”について話ができたようです。
よかったらまた気持ちをここに置きに来てもらえたらと思います。
投稿ありがとうございました。

感想2

タイトルは「自死遺族」とありますが、唯一無二の存在である一人の物語だと思って読みました。同時に、自死遺族という立場特有のつらさやしんどさもあることが改めて伝わってきました。10年以上、苦しみを抱えながら過ごすことを想像すると、とても重く深い感情がそこにあるのだろうと感じています。それは、悲しみとか後悔とかそういった一般的に名前がつくような感情ではなく、いろいろな感情が複雑に絡み合って重い塊として根付いていて、動かすことも壊すこともできないもののように感じました。
まるで、あなたの心の部屋いっぱいに巨大な岩が置かれて、それがほかの感情が出てくることも、心に何かが入る余地も許してくれない状況のように勝手ながらイメージしました。それが、いろいろな大きさの石の集合体であれば、少しずつ拾って片付けていくこともできそうですし、地層のように割れるのなら、少しずつはがして解体していくこともできそうですが、あなたの経験談からはいろいろな感情ががっちりと絡み合い一体化したとても大きくて重いものが家族が自死したことによって現れて、10年以上、変わらずそこにあるままということなのかもしれないと私なりに理解しています。
最後に故人がそれ以上につらかっただろうと想像し、その思いを遺族として持つべきだと書いてありました。大きな岩の中には故人のつらさを理解したい気持ちを含めて、故人を思う大切な気持ちも含まれているように思えました。だからこそ、簡単に壊すことも外に出すこともできないのかもしれないと考えています(あくまでの私のイメージです。もしも、違っていたら申し訳ありません)。
10年以上もその思いを持ち続けているということは、きっとその必然性があるのだろうと私には思えました。そして、こうして書いて送ってくれたことにも意味があるように感じました。ほかの人には話せない、遺族会でしか言えない、遺族会でも吐露して分かち合うだけと書いてあったので、今回こうして気持ちを書いて送ってくれことを考えると、抱えてきたものを少しずつ出そうとするような何か変化が訪れたのかもしれないと思いました。
これからも、死にトリに限らず、気持ちを表現できそうな機会がありましたら、活用してもらえたらと思います。

お返事

スタッフの方もご遺族だったんですね。25年ほど前だと今ほど自死や孤独死が世間でしられてなかったので遺族会もない所が多かったようですね。
やはり遺族の立場にならないとわからないことは多いと思います。私も遺族の立場になるまでこれほど先々の人生に影響を及ぼすとは思いもしませんでした。それもほぼ生涯に渡り、忘れることなく続く後悔、悲しみ、辛さなので抱えてくしかないのかなと。
なくなった当人がなくなる時どんな思いだったかを考えると自分の辛さや悲しさは足元にも及ばないと思います。なのでせめて忘れることなく供養のきもちを持ち続けるのができる最大のことなのだろうなと。線香をあげる時いつも、こんなことしかできないなんてもっとしてあげられることがあったのにと思います。
遺族会に参加すると様々な方がいて話して分かち合いたい人、きくだけに留まる人がいますがせっかくの場なので思ったことを話すほうがいいのかなと。それに遺族同士でないときけないこともあるのできいてみると同じこと思ってたり同じ経験してたりするので自分だけじゃなかったんだとわかり疑問がとけることも。

年数がある程度たつとそれまでの感情が色々でてきますね。プラスの感情は少ないですがそれも併せてずっと持ち続けていくことなんだなと。それまでの故人との関係性によりますが不仲でない限り自死でそれまでの関係が突然断たれてしまうので残りの人生ずっとその身内のいない日々を生きてかないとならないのでそれは辛いですね。本当ならいたのになんでと。遺族の中には、なくなった事と遺族の人生は別だから人生はその人自身で歩んでいかないとという人も。たしかにそうですがそう簡単に切り離せない感情があるとそれはむりでそれに身近な人を突然なくすというダメージは本当に大きく日常生活が送れるまでに戻ってもそれ以上のことをするのが大変でそれまでの年月で気力がそがれ疲弊してしまってるので遺族になる前の状態に戻ることはないと。

感想にかかれてる本当の孤独感がどういうものをいわれてるかわかりませんが周りの人みても私のほうが孤独だと思うことが多いです。
周りは物理的に本当に独りになったことがない人ばかり。

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