経験談はそれぞれの投稿者の個人的な価値観や感じ方をそのまま掲載しています。一部、リアリティのある描写や強い価値観が含まれるため、読む人にとっては負担等を感じる場合もあります。各自の判断で閲覧してもらえるようにお願いします。
私はある日突然、気が付いたら入院していました。急に脳の病気になり、救急車で運ばれていたようです。
それで高次脳機能障害になったようです。
私には子供が3人います。
入院した時点では0歳児もいました。
幸い信頼できる義父母が近くに住んでいたので、子供の事はお願いして、退院して子供達と元の生活に戻れる日を夢見て、闘病したのですが。
でも、そんな簡単な事ではありませんでした。
退院はしたものの、痙攣持ちなので、同居する事になりました。
いつも具合が悪くならないように誰かと一緒にいます。
心配みたいで、1人でどこかに行かせてもらえません。
もっと色々できるのに、頭が悪いと決めつけられてます。
病気する前の私は、もっと自由で、持ち家も自分の好みのインテリアにして、友達に好きな日に遊びにきてもらったりして、色々なことができました。
0歳児の息子も、ほぼ義母が育てたので、「おばあちゃんが良い」が口ぐせです。
子供が一度救急車で運ばれた時も、「付き添いはお母様ですか?」「母は高次脳機能障害なので祖母が付き添います」と義父に言われました。
1番下の子の同級生のママは義母と仲が良いです。
母親のポジションが義母に取られてしまいました。
おしゃべりするのが好きなのに、誰とも話せない。
親戚で集まった時に嬉しくて沢山話したら、その後に主人に「喋りすぎて調子悪くなるからな笑」と言われて。
高次脳機能障害が少しでも良くなるようにリハビリしてますが、治ることは無いと情報を得てやる気もなくなってます。
生きてて楽しい事ないです。
急な障害でまだ受け入れられてないんだろうなと思います。
どうしたら受け入れられるんでしょうか。
感想2
投稿ありがとうございます。
個人として、母として、自分で判断して暮らせていた生活が突然変わってしまったのですね。障害の症状として痙攣や、以前と同じようにすることが難しいこともあるのかもしれませんが、その塩梅を周囲の人に決めつけられ、「何もできない人のように扱われる」ことに苦痛を感じているのかなと想像しています。
(投稿者さんの症状の程度が分からないので、他者から見てどのくらい支障がありそうに見えるのかは掴みかねるのですが…)「これは出来そうか?やりたい気持ちはあるか?」という意思確認をされた認識がないまま、自分がしていたことが次々に誰かの役割に置き換わっていくことは、当人にしかわからない寂しさ、喪失感を伴うものだと思います。客観的に考えると配慮や心配との線引きは難しいところがありそうですが、「投稿者さんがどう感じているか」を表現してくださっているのがこの経験談だと感じました。
ご家族の対応は、投稿者さんの状態を拒否・非難するようなものではないのかもしれませんが、「”障害を発症した私(投稿者さん)”として家族の輪に受け入れられてはいない」と感じるようなものなのかな、という印象を受けました。「自分だけでコントロールできない状況と共存していく(受け入れていく)」ためには、投稿者さん自身が自分の状態を知っていくのと同じくらい、周囲の人がその状態をどう捉えるかという要素も大切なことだと感じました。
症状や周囲の反応含め、思うようにならないこと、あなたの声を聞いてもらえない場面も度々あるのかもしれません。「私はこう感じているんだ」という言葉を紡げる場所として、死にトリもまた使ってもらえるといいなと思います。
感想1
経験談の投稿ありがとうございます。文章を読んで、ある日突然、望んだわけでもなく日常が根こそぎ変わってしまい、これまでの自分がどこか遠くへ置いていかれたような感覚の中で、懸命に現実と折り合いをつけながら生きていることが切実に、そして痛いほど伝わってきました。高次脳機能障がいという言葉では簡単には言い表せない、その一つひとつの困難が、生活のあらゆる場面に広がっているのだろうと感じました。“自分の好みにインテリアにすること”、“好きな時に友だちに遊びに来てもらうこと”、それは何気ない日常ではあったかもしれませんが、あなたにとっては、“自分を表現できていた“瞬間だったのではないでしょうか。それが今、制限の中で失われてしまい、まるで自分という存在そのものが、誰かに乗っ取られてしまったかのようなそんなイメージを私は抱き、なんだかうまく言葉にはできないのですが勝手ながら悔しい気持ちになってしまっています。
そして、母親としての立場までが、少しずつ義母さんに置き換えられていくような現実もあって、そのことがただ育児のサポートをしてもらっているということ以上に、“自分が母親であることを奪われている”ということが何より深い痛みや無力感に繋がっているのだと思いました。
周囲からの「善意」が、結果的にあなたの自由や尊厳を奪ってしまっているということも、個人的な問題ではなく社会的課題だと私は思います。障がいのある人や病気のある人への支援や配慮が、本人の意思や可能性を尊重せずに「決めつけ」や「過保護」になってしまうことは、しばしば起こってしまうことですが、そのたびに、本人の“自分はここにいる”という感覚が薄れてしまうということも含めて意識する必要があるのだと、私自身も気をつけなければ…と改めて強く感じました。また、話せることの喜びを感じていた時の「喋りすぎて調子悪くなるからな笑」という、この言葉の裏にあるのは、回復の途中にある人を、“壊れやすいもの”のように扱う周囲の無意識の偏見もあるかもしれません。本来、リハビリや支援というのは、もっと本人の力や意志を引き出す(引き出しやすくする)ためのものであるはずだと私は思うので、おしゃべりすることもあなたを取り戻すためにも大切な行為で、何も悪いことではないと私は思いました。
「どうしたら受け入れられるんでしょうか」と最後に書かれていましたが、そもそも“受け入れる”というのは、“我慢する”とか“諦める”とは違うものだと思うのです。それは、今の自分が持っている感情や苦しさ、憤りなどを自分の内側でちゃんと許していくことだったり、まだうまく受け止められない自分を“そのままにしておける”ことなのではないかなと、あくまで私はですがそう思ったりします。焦って「受け入れなきゃ」と思いすぎなくても良いと伝えたい気持ちです。(そう思えるのも簡単なことではないことは承知の上で…)
あなたが感じている「まだ受け入れられていない」という感覚そのものが、今もきちんと“あなた自身の声”として生きている証なのではないかと私は思います。こうして抱く思いを言葉にすることで、多少でも心が軽くなるようでしたらいつでも死にトリに声を届けてほしいです。