経験談はそれぞれの投稿者の個人的な価値観や感じ方をそのまま掲載しています。一部、リアリティのある描写や強い価値観が含まれるため、読む人にとっては負担等を感じる場合もあります。各自の判断で閲覧してもらえるようにお願いします。
拙い文章で恐縮ですが、読んでいただけると幸いです。
私は小さい頃から、器用貧乏な方でした。
何をやってもできますが、何をやっても極めることはできませんでした。
親からは、「お前はなんでもできる、選択肢が広い」なんて言われていましたが、自分自身、どの分野においてもそれで食べていける自信がありませんでした。
でも勉強は、他のものより頭一つ出ていて、いい成績を取ることが多くありました。
親からもよく褒められていたので、それだけが私の取り柄だと思っていました。
コミュ力も低くなかったので、誰かに頼られることも多く。
身体、精神ともに成熟が早い方だったので、なおさら「みんなのお姉ちゃん」ポジに居ることが多かったです。
そのうち、「私は勉強ができることが取り柄で、人に頼られることが生きがい」になっていきました。
そして、「人に落胆されること、期待外れだったと思われること」が何より怖くなりました。
年齢が上がるにつれ勉強が難しくなり、ありとあらゆる人の期待に応えるうちにハードルが上がり。
段々と、期待に応えるために、あるいは見栄を張って人に落胆されないようにするために、常日頃から嘘をついて過ごすようになりました。
それじゃダメだと気づいたのが、高1の冬です。
自分の意志で何かを決めないと、私は結局空っぽな人間になってしまうと気づきました。
しかし、気付いた時には時すでに遅し、周りから「あの子は頼れて何でもしてくれる、弱音を吐かなくて明るい優等生」という認識が染み付いてきた頃でした。
そうなってしまったら、人によく思われたいということが染み付いた体では何も行動を起こせず、ただひたすら、心と行動のギャップに苦しむ毎日でした。
そして、常日頃から嘘をついていると、段々と自分を騙すのも上手くなってきます。
そうなると、自分が今言っていることが本当なのか、それとも無意識のうちに出ている嘘なのか、人の言うことは本当なのか、先程まで感じていた「楽しい」は私が「楽しい」と思っていたのか、空は青で雲が白なのは私だけではないか、そもそも今生きている世界は夢なのではないか、と、人や人の話すことはもちろん、感情、五感や存在のすべてが偽りのように見えてきます。
高校3年生になる頃には、自分の悩みでさえすべて嘘で、構ってほしいだけの作り話だと思うようになりました。
でも、ふとした時に、どうしようもない辛さが心を埋め尽くすタイミングがありました。
理由もわからず辛い、痛い、苦しい。
「自殺」というワードは頭をよぎりませんでした。その代わりに、「楽になりたい」とだけ考えていたことを覚えています。
楽になりたい、何故かわからないけど、何処かへ逃げ出してしまいたい。
最初のうちは気の所為、思春期だからと流せていたのが、少しずつ頻度が増え、学校にいるとき以外は考えるようになりました。
そうなると、家に帰っても何も手につかず、SNSを眺める毎日。緩やかに落ちる成績。物が散乱していく部屋。整えなくなった身だしなみ。
明らかに堕落していく自分に自己嫌悪して、さらに何もしなくなる、という循環を繰り返していました。
遠ざかっていく、「ここに行けば将来安泰」と言われた大学。唯一の取り柄と思っていた勉強も出来なくなったら私は何ができるのだろうか。
勉強が出来なくなったら人に頼られなくなる。そうなると生きがいがなくなる。すべてのアイデンティティーを失った私は私ではない。私でなくなったらこの世に存在する意味がない。
もう、いいかな。
そう思うと、すべてが吹っ切れたような気がしました。
志望校のレベルを大幅に下げ、あとは学校の授業を受ければ受かるようにして。
部活を早々にやめ、放課後に家から出ることはなくなりました。
家ではSNSを見たり、なんとなく音楽を聞いたり、絵を描いてみたりなど、創作活動をゆるりとやっていました。
今思うと、創作活動をしていたのは、少しでも自分のアイデンティティーを見つけたかったからだと思います。
親や先生方からは期待外れだったり残念だったり怒りに似た何かのような、マイナスな感情をひたすらにぶつけられました。
ですが、もう何も気にしていませんでした。
きっと、もう疲れたのだと思います。
ひたすらに嘘をつき、演じ、期待に応え続けることが。
そうして、そこそこのレベルの大学に通いました。
優等生になることはやめて、人間不信だったので人との関わりも薄く、特にこれと言った出来事もなく過ごしました。
そして、遠くの街の会社に入社しました。
友人や先生方、今まで会った方との連絡はすべて切りました。
流石に親と切ることは社会で生きていくうえで不都合なので出来ませんでしたが、今もほとんど連絡は取っていません。
今は、そこそこのお給料をもらって、そこそこの暮らしをしています。
特にこれと言った喜びはありません。けれども、特にこれと言った悲しみもありません。
変化のない、よく言えばのんびりとした、悪く言えばつまらない、毎日を送っています。
もしかしたら、もう少し耐えて、いい大学に行き、いい仕事に就いたほうが、幸せだったかもしれません。
それか、途中で勇気を出して、助けを求めて、ちゃんと救われたら真っ当に幸せになれたかもしれません。
今の生活で良いと思っていますが、そういうことを考えない、というと嘘になります。
ですが、この道を後悔したことはありません。
きっと、私は来た道を正解にしなければならないと思っているのです。
そうしなければ、また苦しむことになってしまうから。
今日も、この道が正解だった、と、空っぽな自分を騙して、過ごしているのだと思います。
感想1
経験談への投稿ありがとうございます、読ませていただきました。器用貧乏という言葉にも、良くも悪くも身に覚えがあり、もちろん違うものではあるけれど、あなたの文章がとても身近に感じられました。
何をやってもできるということで、周囲も自分も知らない間に期待値が上がり、上がる期待値に応え続けてきたあなたを想像しています。早熟と言っても、今に比べればその体も心も小さく、とてもその重さを背負い切れるほどの強さもないのも当然だったのではないかなと思いました。心と体がバラバラになることは、引き裂かられるような痛みを実は伴っているのではないかなとわたしは思っているのですが、ずっとそんな状態だったのかなと思うと小さな頃や学生の頃のあなたに柔らかい毛糸で結んでバラバラにならないようなんとかしたい思いが込み上げます。
しかしながら、それはきっと人にはできないこと、自分で自分をつなぎとめていくことは自分にしかできないこと。案外、心と体がバラバラだと気づかない人の方が現代は多いのではないかなとも思ったりしました。常に理想を押し付けられて、むしろ心と体が一致することがむずかしいことなのかもしれません。そうすることでしか生きられない人もいるかもしれない。
バラバラの自分に気づいても、ありのままの自分でいていい環境というのはあまりにも少ないように思います。そんな中あなたは見栄を張るあなたを手放した、というより手放すしかなかったというような状態だったのかなと思います。現状これで良いと思える生活をしていても。それが良かったのか悪かったのか、考えることがあるとのこと。とても正直だなと思いましたし、そう思うあなたは紛れもなくあなたそのものな気がします。少し、視点を変えると、良くも悪くも、あなたの生活が安定している状態なのかもしれないなとも感じます。
来た道を正解にすることは、わたしは騙すことではなく、どちらかというと事実ではないかなと思っています。その時の自分にできる自分の力を持って、最善の選択をしてきたんだと思います。もしそれが自分を騙しているような感覚があるのだとすれば、今の状態にどこか納得がいっていなかったり、力を持て余しているようなあなたもいるということもあったりするのかな(違っていたらすみません。)
周囲の抱く理想や、自分にかかる責任に押しつぶされそうな時には、人との関係や連絡を絶って遠方に行くことを度々してきたのですが、どこへ行っても自分という自分から逃げられないことも少しずつわかってきました。人との関係を続けると、自分の弱さや性の悪さに直面することの方が多いです。そんな自分を、他人は受け入れてくれるのに、自分は自分を受け入れられない。
これだと思える、絵を描けたのは今まででたった1枚だけで、1枚書いてもまだ自分らしさやアイデンティティは分かりません。人の目に映れば、その人の思う自分を演じてしまう、それは弱さか強さか、それともそれが自分ということなのか。考えれば考えるほど、土壺にはまるようでもありますが、どこかじっくり話ができるような場所であなたと語ってみたい思いです。またいつでも書き込みに来てください。
感想2
投稿ありがとうございます。あなたには周囲の状況を見る力があって、自分への期待も読み取れてしまうからこそ、良くも悪くもそれが前提になりやすく、それが次第に指標や目的というくらい強いものに感じられるようになっていたのかなと思いました。
期待というのは期待している側のもので、期待されている側には本来関係ないものだと思いますが、世の中でも「期待はずれ」といった言葉が期待された側の問題かのように扱われることはとても多いと思います。その中で、あなたに「もう、いいかな。」と思う瞬間が訪れ、期待のいたちごっこみたいな状況から抜け出せたことを読んで、個人的にはちょっとほっとした気持ちになりました。もちろんあなたは、そうしなかったま別の自分のことを意識するような瞬間が今もあるのだろうなと思うので、こんなふうに書くのも押しつけがましいだけかもしれませんが…。
アイデンティティという言葉が出てきましたが、人間にとって、自分がどのような存在であるかをイメージできることはとても大事なのだと思います。ただ、現代社会だと、比較が常に付きまとい、相対的な評価をアイデンティティとせざるを得ないことも多いように感じています。そういうなかで、「そこそこ」というあなたの感覚は、あなたにとって「悪くはない」けれど「魅力的」というわけでもない……という評価なのかなぁと思いました。私はこの社会で「そこそこ」と思える状況はかなりすごいことのような気もしてしまいますが……ただそこに「空っぽ」と感じてしまうのは、なにかたりない感覚があるということなのかなと思いました。文章を読み直しながら、たとえば平穏よりも、明確な「喜び」があれば違うのだろうか?でも喜びも人によって色々な方向性があるけれど、あなたにとってはどんなことだったら喜びになるのだろう……?とぐるぐる考えています。
「来た道を正解にしなければならない」という部分を読んで、周囲の期待に応えることが中心だったあなたは周囲の「正解」を引き当てるようにして暮らしていたということなのかもと思いました。個人的な話をすると、私はあなたと違いだいぶ不器用な方で、周囲の期待も正解も読み取る力が低めです。そういうこともあってか、そもそも正解かどうかを気にするよりも、せめてその時々の大間違いを引かないように祈りつつ生きる……みたいな認識でした。でも、大人になってみると、意外と大正解じゃなくても、いろんな道や過ごし方や、関わり方があるような気もします。
この経験談を読んで、あなたは正解が当たり前で、それを自分にも課してきたからこそ、正解以外はありえないという意識も人一倍強いのかもしれない、と想像してみました。
このあたりは、今日は風が強くて、いろいろな音が聞こえておもしろいです。多くの場所はもう暑すぎるくらいの夏だと思いますが、あなたの生活の中に、あなたにとって耳を傾けてみたくなる音や、おちつく匂いや心地があることを祈っています。
感想1
経験談への投稿ありがとうございます、読ませていただきました。器用貧乏という言葉にも、良くも悪くも身に覚えがあり、もちろん違うものではあるけれど、あなたの文章がとても身近に感じられました。
何をやってもできるということで、周囲も自分も知らない間に期待値が上がり、上がる期待値に応え続けてきたあなたを想像しています。早熟と言っても、今に比べればその体も心も小さく、とてもその重さを背負い切れるほどの強さもないのも当然だったのではないかなと思いました。心と体がバラバラになることは、引き裂かられるような痛みを実は伴っているのではないかなとわたしは思っているのですが、ずっとそんな状態だったのかなと思うと小さな頃や学生の頃のあなたに柔らかい毛糸で結んでバラバラにならないようなんとかしたい思いが込み上げます。
しかしながら、それはきっと人にはできないこと、自分で自分をつなぎとめていくことは自分にしかできないこと。案外、心と体がバラバラだと気づかない人の方が現代は多いのではないかなとも思ったりしました。常に理想を押し付けられて、むしろ心と体が一致することがむずかしいことなのかもしれません。そうすることでしか生きられない人もいるかもしれない。
バラバラの自分に気づいても、ありのままの自分でいていい環境というのはあまりにも少ないように思います。そんな中あなたは見栄を張るあなたを手放した、というより手放すしかなかったというような状態だったのかなと思います。現状これで良いと思える生活をしていても。それが良かったのか悪かったのか、考えることがあるとのこと。とても正直だなと思いましたし、そう思うあなたは紛れもなくあなたそのものな気がします。少し、視点を変えると、良くも悪くも、あなたの生活が安定している状態なのかもしれないなとも感じます。
来た道を正解にすることは、わたしは騙すことではなく、どちらかというと事実ではないかなと思っています。その時の自分にできる自分の力を持って、最善の選択をしてきたんだと思います。もしそれが自分を騙しているような感覚があるのだとすれば、今の状態にどこか納得がいっていなかったり、力を持て余しているようなあなたもいるということもあったりするのかな(違っていたらすみません。)
周囲の抱く理想や、自分にかかる責任に押しつぶされそうな時には、人との関係や連絡を絶って遠方に行くことを度々してきたのですが、どこへ行っても自分という自分から逃げられないことも少しずつわかってきました。人との関係を続けると、自分の弱さや性の悪さに直面することの方が多いです。そんな自分を、他人は受け入れてくれるのに、自分は自分を受け入れられない。
これだと思える、絵を描けたのは今まででたった1枚だけで、1枚書いてもまだ自分らしさやアイデンティティは分かりません。人の目に映れば、その人の思う自分を演じてしまう、それは弱さか強さか、それともそれが自分ということなのか。考えれば考えるほど、土壺にはまるようでもありますが、どこかじっくり話ができるような場所であなたと語ってみたい思いです。またいつでも書き込みに来てください。