経験談

生きづらさを感じる人が語る 経験談

経験談はそれぞれの投稿者の個人的な価値観や感じ方をそのまま掲載しています。一部、リアリティのある描写や強い価値観が含まれるため、読む人にとっては負担等を感じる場合もあります。各自の判断で閲覧してもらえるようにお願いします。

社会で生きていけない

高校の頃、担任の先生と所属していた顧問との折り合いが悪く、希死概念をもつようになる。学生時代通して提出物の完成度が満足いったものではないと未提出ややり直し前提での提出だった。
社会人になり人間関係に悩み、先輩におすすめされ受診した結果、不注意優勢型のADHD+重度のうつ状態。
現在、母が怪我で思うように家事ができていない。職場では施設長が療養のため現場には居ない異常事態が続き、いつまで続くのか見通しが付かない。

調子がいい時はできること、しんどくなれば職場と自宅の往復だけで精一杯であることや主治医に相談して休職もありか考えている状態であり休日は寝て終わる。2~3日に1回静かに泣いている。
やりたくない訳でもないし、特性を言い訳にするつもりもないけど、身体が上手く動かない。ベッドから起きるだけでしんどい毎日で通勤時に不慮の事故に巻き込まれたいと願う日々。
「みんな度合いは違えどしんどい」
そうだろう。
「ものがなくなってパニックになる前に片付けて置けばいい」
そんなことわかっててもできない。
「そのしんどさが楽になるように考えよう」
そんな余裕ない。

できない理由を言う方が簡単と言われるが新しく何かを考えることもしんどい。

社会で生きるということはしんどいを重ね自分を少しずつ殺して行くことのように考え今日も枕を涙で濡らしている。

感想1

重度のうつ状態でありながら、見通しのつかない「異常事態」の職場に通われていること、しかも特性や苦しい経験もあるとのことで、相当な負荷が身体にかかっている状態なのではないかと想像しています。重度のうつという状態だけでも職場に通うのは大変だと思いますし、それにプラスして家や職場の見通しのつかなさは、読んでいても絶望的な気持ちになってしまうほどです。おそらくご自分の持てる力を軽く超えた力をふり絞りながら、日々をなんとか過ごしているのだと想像します。休日は寝ていることや、泣いているのも無理はなく、それでも疲れは取れない状態なのではないでしょうか。それでも、調子がよければできることや、やりたくないわけではないという発言があるところに、あなたの底力を感じつつも、限界をとうにに超えて頑張っている姿も浮かびます。休職されるか検討されているということ、それはとても大事なことのように感じました。社会で生きていけないと書いてらっしゃいましたが、長い人生の中で、挫折(と感じる経験)をしたり、しばらく休んだりしながらも、でもそんな経験の中で自分のことが少しでも見つかったり、自分なりの生き方を見つけたり、あるいはそれを模索したりすることは「社会で生きてはいない」とは言えないと思いました。この社会自体がとても狭い価値観を押し付けてきたり、理不尽なことがとても多く、本当に生きづらい社会だと思いますし、ましてや重いものを持ちながら一人で歩くことは本当に大変だと思います。そういう意味であなたが生きることが大変なのは本当にそうであると想像しつつも、でもそんな人間が苦労しながら生きることだってこの社会で生きていることだとも思います。そして、そういう生き方はむしろ大切にされる必要がある人なのではないかと私は思っています。私も過去に精神を病み休職した経験があります。苦労を共にする仲間として共に生きられたらと思っています。

感想2

投稿読みました。心の奥底から湧き出る「しんどさ」をずっと抱えながら、日々を過ごしているのだろうなと想像しています。静かだけれど、どこか重みも含んだような、積もってきた疲労や絶望が言葉の端々からにじみ出ているように感じました。
高校時代のことから始まり社会に出てからも、すでに長い間「うまくやること」を求められながらも、「うまくできないこと」がずっとついて回ってきたのだろうと感じます。例えば提出物を出せない、ということ一つとってもその裏にある“自己否定”や“恥”は、想像以上に深く心を蝕んでいたのではないかと思います。そして、その延長線上で社会に出てもまた「できなさ」や「ままならなさ」と向き合い続けていて、そのことが、あなたの日々の暮らし全体を重く、鈍くしているように私は感じています。
ADHDと診断されたこと、そして重度のうつ状態と向き合っていることは、症状というより、社会がそういった特性に対して「優しくない」構造だなと改めて思うことです。“わかっていてもできない”ことを、誰にも責められずにいられる場所がどれだけ少ないか、あるいは、“できる時とできない時がある”という揺らぎを理解してくれる人や制度がどれだけ希薄か…綺麗ごとに聞こえてしまうかもしれませんが、せめてもう少し優しい世界だったら、ちょっとは違ったのではないか、こんなに苦しむこともなかったのではないか…と思わずにはいられない自分がいます。
読んでいて印象に残ったのは、「やりたくない訳でもないし、特性を言い訳にするつもりもないけど、身体が上手く動かない」という一文です。怠惰でも投げやりでもなく、自分でもどうにかしたいけどどうにもならない葛藤が込められているように私は受け取りました。本当にただ「動かない」のだと思いますし、気力や意欲の問題じゃないのに、身体がそれに応じてくれない苦しさは、私も精神的に調子を崩し動けなくなった経験があるので、全く同じとは言えなくともその感覚は共感できる部分です。そして、その不条理には気づかれにくいですし、“片付ければいい”、“考えればいい”などといった正論だけが押し寄せてくることも少なくないと思います。正しさに押しつぶされるたび、言葉を発する力すら奪われていくのでしょうね…。家のこと、職場のこと、身体のこと、心のこと、どれもそれだけでしんどいはずなのに、それらが一気に重なっている状況下で、あなたはすでに、ただ生きていること自体が大きな努力を伴っているように感じます。それなのに社会は、“頑張りが見える“人だけを評価する傾向にあって、「しんどいを重ね自分を少しずつ殺して行く」という言葉は、そうした社会の残酷さへの警鐘であると私は思いました。あなたの抱えるしんどさはそう簡単になくなるものではないかもしれませんが、こうして思いを言葉にすることがあなたにとって多少でも何か違うのであれば、またいつでも死にトリに立ち寄ってほしいです。

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