経験談

生きづらさを感じる人が語る 経験談

経験談はそれぞれの投稿者の個人的な価値観や感じ方をそのまま掲載しています。一部、リアリティのある描写や強い価値観が含まれるため、読む人にとっては負担等を感じる場合もあります。各自の判断で閲覧してもらえるようにお願いします。

他人への信用

私は他者との宗教観やそこから他者を信用できないことで生きづらさを感じています。

あまり宗教について言うことは世間体を考えるとよいことではありませんが、現実では誰にも言えないのでここで書かせて下さい。

私の家族に宗教を信仰している者がいます。信仰し始めた当初は、信用していた家族だったためショックだったのと宗教が自分の身近な所にあることへの嫌悪感から、家族がどのような思いで信仰し始めたのかなどは全く考えず、その家族と会うことを避け始めました。

そのタイミングで、職場の同僚から同じ宗教の勧誘を受け、その宗教が関わる人や関わる全てのものも拒絶するようになりました。

知らない人から自分の住所と名前の書かれた郵便物が届いたり追突事故にあったり、宗教が原因だと断言できないくせにだんだん疑心暗鬼になり始め、知り合いの中でも誰がこの宗教を信仰している可能性があるのかを考えるようになりました。すごく仲の良かった人との縁を切ったり、家を探す際もその宗教に関する所に関わらないよう不動産会社や物件を調べてから下見に行くなど自分でも支離滅裂だと思いますが、その宗教に関わって自分の個人情報を知られることが何よりも嫌なことになっていました。

時間が経ったことで、以前は心の中で軽蔑していましたが、今は他人がどんな宗教に属していても自分へ勧誘してきたり権利を脅かすことさえされなければ尊重できます。宗教を信仰している家族とも会って会話もできます。ただ、他人と知り合ってもこの宗教が最初に頭をよぎり、他人が所属する宗教は見た目や会話からも分からないため怖くて信頼して関係を築けなくなりました。これは今まで関わってくれた人にも言えます。

これから私はどう生きたらよいですか。

感想1

「他人への信用」翻って「自分に対する信用」についてよく考えるので、タイトルに惹かれて読ませていただきました。宗教含め、人が何かを「信じる」とき、人はその対象の何を見ているのだろうなあと思いを巡らせながら感想を書いています。

世の中的にも「宗教」や「信仰」というと、「洗脳」「献金」等といった良くない論調が先行して得体の知れないもの、怖いものといった不穏なイメージを作っている気がします。家族や同僚の信仰心を知った当時の投稿者さんも、似たような感覚から避けていったのかなあと想像しました。
私自身に置き換えて考えてみると、もし身近な人が宗教に近づいていったら、同じく少し距離を置いてしまうかもしれないと感じました。理由として、先ほど書いたような漠然とした不穏なイメージに加えて、私自身の価値観として「何かを頭ごなしに信じる」という行為(そう見える人や人の構図)にかなり抵抗があるというのが理由だと思っています(信仰している人にとっては、頭ごなしではなく道理があるのかもしれないとは思いつつ)。
投稿者さんの中に「信仰する人」に対する何かしらの抵抗感があるのか、「宗教」という枠組みに対しての思いがあったかはわかりませんが…。少なくとも「自分が親しみをもって接していた人が、自分の理解できないものを信じている」と感じる出来事、ひいては自分と違う価値観を持っていることがそれまでとは別の形で表出した出来事ではあったのかなと思うと、心を許すことのハードルがそれまでと異なっていくのは自然なことのようにも感じました。

最初に書いた話に戻ると、投稿者さんにとっては「その宗教に関わっているか、いないか」を一番に見るフィルターが結果的に搭載されてしまったことに苦しんでいる状態なのかなというイメージを持ちました。同時に、私は年齢を重ねるほど新たに出会った他人を信頼するのが難しくなっている感覚があって、反面「その人のこういうところは信頼できる」という感じで部分的に人を信用することが以前よりできるようになった気がします。それが諦めなのか、スキルなのかはわかりませんが、要は投稿者さんが時間と共に軽蔑を和らげたように、他人との関係の築き方も今後また変化していくのかなとは思いました。他人に対して「信頼」「信用」を持てるのはどんな要素なのか、一緒に話してみたくなりました。
投稿ありがとうございました。

感想2

経験談の投稿ありがとうございます。宗教というテーマは、社会的にも家庭内でもとても扱いが難しいものだよなと改めて感じながら読ませてもらいました。私自身の家は何も信仰しているものはなかったのですが、配偶者の家が宗教への信仰がある(とはいっても、積極的な勧誘活動もなければ制限もそこまでなく割と自由なのですが)ので最初は戸惑いや分からない(なじみのない)世界に踏み入る怖さもあり、あなたの抱く不信感や嫌悪感には他人事とは思えない感覚を抱いています。
「宗教」という言葉にまつわる拒絶感や恐れ、それは、ただ思想の違いだけではなく、自分の“大切にしていた関係性”が根底から揺らいだという体験と結びついてしまったからなのではないかと思いました。信用していた家族がある日突然、見えない(知らない)世界に軸を置き始めたとき、その選択の背景や思いにまで目を向ける余裕など持てないほど、混乱というのか動揺してしまうのも自然なことなのではないかと私は感じます。信仰そのものというよりどこか裏切られたという感覚が深く傷として残っているように思えました。
また、職場での勧誘という具体的な出来事がさらにその恐れを強めてしまったのでしょうし、人は、安心できる境界線が壊れると、次に起こることを想定して身を守ろうとします。誰が信者なのか、どこに宗教団体の影があるのかなどを調べ、避けようとする行動は、偏っているというよりも、自然な自己防衛だったのだと私は思います。例えその恐怖感が現実的には過剰であったとしても、心はそうでもしないと自分を保てなかったのでしょうか…。
それでも、時間の中であなたの中に変化が生まれて、宗教に対する拒絶が少しずつ“相手の自由”として受け止められるようになってきたことは、意味のあるプロセスだと私は思います。対話ができるようになったのも、痛みを封じ込めるのではなく、痛みの在処を見つめながら、それでも関係を持ち直そうとしているあなたの誠実さが私には感じられました。
ただ、その一方で、新しく出会う人たちに対して「信頼してはいけない」という感覚が最初に浮かんでしまうのは、これまで心が学習してしまった防衛反応で、それが今、あなたの生きづらさをかたちづくってしまっているのはなかなかにしんどいことですよね…。この社会は「多様性」を肯定しながらも、実際にはその“見えない違い”に対する不安を、誰もが少なからず抱えていると思います。何を信じているのか、どんな背景を持っているのか、それが見えない他者と関わることは、時に生きづらさや怖さを伴うものです。それでも、生きていくために他者との関係を持たざるを得ない私たちは、自分なりの”安全距離”を探しながら、それでも少しずつ関わっていくしかないのだとも私は感じています。あなたがこれまで”拒絶”や”回避”で自分を守ったように、これからはその距離感を「選び取る」ことができるのではないでしょうか。関わりすぎず、離れすぎず、何でも話さなくてもいいし、全てを知る必要もなく、その中間で、あなたにとって安心できる範囲を少しずつ見つけていけたらいいのかな…と思ったりもしました。本当に信頼していいのかと慎重になる気持ちは、大切な人を失いたくなかった思いの強さの裏返しなのかなと…。今はまだ、その慎重さが“恐れ”として現れているかもしれませんが、いつかその感覚が、“自分を守るための力強さ”へと変わっていくこともきっとあるはずです。恐れが消えないままでも、関係を築いていけるような“少しの信頼”が芽生えることはありますし、それはたった一人の人との出会いからでも始まることがあるはずです。(あってほしいという願いも込めて…)あなたがどんな生き方を選ぶとしても、こうして自分の感情を言葉にして表現することは、誰かを信じる前に、まず自分を信じる練習なのかもしれないなとも私は感じました。もし、死にトリが少しでもあなたの役に立つようでしたらまたいつでも訪れてほしいです。

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