経験談

生きづらさを感じる人が語る 経験談

経験談はそれぞれの投稿者の個人的な価値観や感じ方をそのまま掲載しています。一部、リアリティのある描写や強い価値観が含まれるため、読む人にとっては負担等を感じる場合もあります。各自の判断で閲覧してもらえるようにお願いします。

心の自己免疫疾患

時折沸き起こる、「自分なんかいなくなった方がいい」「消えてしまいたい」という発作のような強い感情に戸惑いを覚えます。

 私は今の環境や周囲の人には恵まれていて、誰かから実際に強い叱責を受けているわけではないのですが、何をしていても頭の中では自分で自分を批判したり叱責したりする声が聞こえているような感じです。
 他人の顔色が極端に気になり、職場では毎日上司のちょっとした言葉尻や声音に怯えてしまいます。そんな体たらくなので、あまり職務上のコミュニケーションが上手くいかず、注意を受けることがあります。職場の人たちは実際にはとても良い人たちで、ただひたすら自分が過敏過ぎるのです。
 「他人の顔色を伺うのはよそう」と思っても、なかなか自分の意思ではコントロールできず、普通に会話するだけで精神力を消耗するのでいつも疲れてしまいます。
 また、他人の言った本当に小さなことに自分自身を強く否定されたように感じます。心が思春期のまま全く成長していないみたいで、自分の未成熟さが心底嫌です。果たして他にこんなに幼稚な30代が存在するのだろうか、と疑問に思い、ひとりで勝手に余計傷ついてしまいます。そうなるとなおさら自分で自分を肯定できないので他人の評価が気になり、完全に悪循環に陥っているように思えます。
 私にはクリエイティブな趣味があり、作品づくりに没頭しているときは割と悩みを忘れられるのですが、自己嫌悪が激しくなると自分の中から出て来たものと向き合うこと自体が嫌なので、趣味にも打ち込めず困ってしまいます。

 私は目標に向かってこつこつ努力することが割とできてきたタイプで、人生でそれなりに成功した経験も積んでいます。また、心から信頼できる友人も数は少ないですがいますし、夫は本当に私のことをよく受け止めてくれる素晴らしい人です。経済的な苦労もそこまでしていません。そんな恵まれた状況で、なぜここまで自己否定的なのかよくわからないのです。年齢的には中年に差しかかり、自己否定の状態からは抜け出していくのが普通なのに、むしろ若い時よりひどくなっている気がします。

 原因を調べようとしているうちに、アダルトチルドレンという概念を知りました。
 
 現在は両親との仲は良好です。むしろ一般的な家族より仲がよい方なのではないかと思います。
 一方、幼少期には父がアルコール依存症に近い状態だった時期があり、母も情緒が安定していなかったので、かなり不安な子ども時代を送った自覚があります。

 その頃の父はお酒が入ると適量では止められない人でした。
 普段は本当に優しい人で、お酒を飲んでも暴力を振るったり暴言を吐くようなことはありませんでしたが、二日酔いで家族旅行の予定をすっぽかしたり、子どもの目の前で母と大喧嘩になったりすることがしょっちゅうありました。母はそんな父の酒癖にひどく悩んでいて、私は幼心に「なんとかしなければ」と感じていた面があったように思います。
 家族で楽しく過ごす計画を立てていたのに、それは実現せず、むしろ大変険悪な雰囲気になったりするということを繰り返しました。結果、「あとで必ず悪いことが起きるので、いつも身構えていなくてはならない」「ちょっとしたことで幸せは崩壊するので、行動には細心の注意を払うべきだ」という強迫観念が刻まれてしまったようにも感じます。
 お酒の問題と切り離して人柄そのものを見るならば、どんなときでも子どもを信頼し味方でいてくれる優しい父なのですが……。

 母との関係も難しかったです。
 機嫌の波が激しい人だったので、怒らせないように常に顔色を伺っていました。
 就学前から小学校中学年くらいまでは、「生まれてこなければよかったのに」など結構きつい言葉を何回も言われました。
 就学前の時期には叩かれたり蹴られたりもあったと思います。(体罰に関しては私自身かなり記憶が薄れており、本人は全く覚えていないようなので確信はないですが……)
 けれど、母に愛情がなかったかと言われるとむしろ逆で、ひどいことを言ったりした後にはよく泣きながら抱きしめてくれました。感情のコントロールがうまくいかない部分はあったけれど、とても愛情深い人のように思います。
 また、私の好きなものを否定したり母自身の意見を強制したりといった、いわゆる「支配的な毒親」のような側面は一切ありませんでした。
 私の選択をいつも尊重してくれましたし、私が転校先で友達ができずにつらい思いをしていた時期には「無理して学校に行く必要なんてない。みんなに合わせる必要なんてない。教室にいるのが嫌だったらいきなり席を立って帰って来たっていいんだよ」と声をかけてくれたような母です。
 
 両親の行動の陰にはいろいろな原因があったのだろうと推測しますが、私が成長するにつれて状況はいい方向へ向かったようでした。小学校高学年になる頃には家庭内の問題はかなり解消されており、それ以降は大学進学で家を出るまでずっと比較的安定した家庭環境だったと思います。
 「小さい頃の状況はしんどかったな」という認識はあるのですが、いまは両親に対して恨みの感情などは全くなく、とても良好な関係を築いています。自分の気持ちを押し殺している、無理に許そうとしているなどとも感じていなくて、両親は大好きで感謝していると心の底から言えます。
 事情で私の妹が若くして亡くなっているので、逆縁の不幸を経験してしまった両親の支えになりたいと思う気持ちも強いです。

 父も母も彼ら自身の生育歴に独特な部分(「普通の家庭」からは外れたところ)があり、そのせいもあってか、子どもに対して他の子と比べるような扱いをしたり、世間体を気にして何かを言うようなことは皆無に近いくらいありませんでした。
 だからこそ、大人になった自分がなぜ「みんなに合わせて”普通”でなければならない」「役に立たない自分なら価値はない」「社会的に認められる自分であってこその自分」という思考に囚われがちなのか、さっぱりわからないのです。

 わからないのですが、アダルトチルドレンの人たちの感覚には共感できるところがいくつもあるので、ある程度自分もその特徴に当てはまっているのかもしれません。
 自己肯定感の根っこの部分がぐらついたまま生きているので、いくら成功体験を積んでも自分というものがぐらついたままというか……。
 
 環境や人の縁には十分恵まれているはずなのに、ただ生きているだけでなんだかしんどいです。誰も私を攻撃なんてしていないのに、常に自分で自分を攻撃してしまい、自己免疫疾患みたいだなと感じます。
 自律神経失調症のような症状(頻脈・動悸、頭痛・腹痛や手足のしびれなどが出るが特定の病気ではない)が十年単位で続いているので、体調面でも優れないことが多いです。かつて実際にストレスが大きい環境にいたときはうつで精神科にかかっていましたが、環境が改善されて薬が必要な状態からは脱しても、根本的な原因の解決はしていないのではと感じます。
 どれだけ恵まれた環境で暮らそうとも、自分自身の問題でずっとしんどいままなのか……と思うとつらいです。
 
 私を認めてくれる人がいても、私が私を認められないし、許せない。

 このまま年齢を重ねても何の成長もなく、他人の顔色を伺って勝手に怯えながら生きるしかないのでしょうか。この強烈な恐怖を抱えたまま一生を送るぐらいなら、いまここで終わらせたほうがましだ、という考えが時には頭を過ります。 

感想1

経験談の投稿ありがとうございます。丁寧に、自分の過去や今の感情を言葉にしていて、それは決して簡単な作業ではないだろうなと思いながら、自身の内側にある違和感や問いに、逃げずに向き合おうとする誠実さが、文の端々から伝わってきました。
今の環境は良好で、信頼できる人もいて、経済的にも大きな困難があるわけではない…そのような客観的に整った条件があるにもかかわらず、心の底では強い自己否定感や孤独感、時には「もう消えてしまいたい」という感情が襲ってくることは、過去と現在のズレによって生じる複雑な苦しみのひとつの形なのだと私は感じています。
印象的だったのは、「誰も私を攻撃なんてしていないのに、常に自分で自分を攻撃してしまう」「自己免疫疾患のよう」といった表現です。私自身も育ってきた環境や程度は異なりますが、アダルトチルドレンの特徴が当てはまるので、とてもしっくりくる表現だなと感じました。生育環境の中で繰り返された不安や緊張、恐れといった感情が、今もなお身体と心の中に残り続け、それが「誰かから責められる前に自分で責めてしまう」という反応として表れているのではないかなと思いました。
特に、幼少期の家庭の記憶の中で、“優しさ”と“不安定さ”、“信頼”と“傷つき”が入り混じっていたことが、ご自身の中での「安全」の定義を複雑にしているように見えました。お父さんは優しいけれど飲酒の問題を抱えていて、お母さんも深い愛情を持っていたけれど感情の波が大きく、時に子どもにきつい言葉を浴びせてしまう、そうした中で育った子どもは、「愛されているのに傷つく」「守られているのに不安」という矛盾した体験を通じて、人との距離の取り方や自己評価が一貫しない形で身についてしまうことが多いのだと、身近にいるそうした環境で育ってきた人たちと関わっていても、そして自分事としても感じることです。
ご両親との関係が現在とても良好であること、心からの感謝を感じていること、それを“無理している”とは感じていないこと、そうした感情は大切にしていけたらいいのかなと思いますし、過去の出来事に対して感情の整理をしたり意味づけを試みた結果として、そのような受け止め方ができているのだとも思います。ただ、一方でなぜか消えない「私はだめだ」という感覚が、今を受け止めている自分を揺れ動かしているところに繋がっているのだろうとも感じています。これはきっと、心の深部に小さな子どものまま凍りついた部分があるからなのだと思いました。その小さな子どもは、何かを選ぶとき、何かを好きになるとき、人の表情を見て許されるかどうかを確かめずにはいられず、“何が起きても大丈夫なように、最初から身構えておこう”と思い続けてきたのですよね…。そうした防衛の習慣が、今でも無意識に動いているのだとしたら、その感覚は「弱さ」ではなく、「生き延びるために身につけた知恵」と言える部分もあるのではないでしょうか。
また、「年齢相応の成長をしていない」「思春期のまま」と自己評価されている部分にも、社会が求める“理想的な大人像”のプレッシャーが重なっているように感じました。成長とは本来、直線的でも段階的でもなく、人それぞれの速度とタイミングがあります。それを「もういい年なんだから」「普通はこうだから」と自分に向けてしまうと、かえって苦しくなってしまうよなと…。けれどその声こそ、かつて安心を失うまいと必死にしてきたある種“自分へのしつけ”だったのかもしれないと考えると一概にそう思ってしまうことも否定できないところにもどかしさを感じてしまっている自分がいます。
今ある「恵まれているはずの環境」の中でそれでも息苦しさを感じるということ、それは決してわがままでも贅沢でもなく、むしろ“恵まれているからこそ、過去の痛みに向き合う余裕が生まれてしまった”という側面もあるように思いました。心の深層に埋もれたままの痛みは、状況が落ち着いてきたときにふいに浮かび上がってくることがあります。それがちょうど今なのかもしれませんね…。
だからこそ、「今のあなた」は、決して過去の自分を放置できないのだと思いますし「なぜこうなのか」と問いを立て、「どうすればよいのか」と探っている段階で、見えない不安や自己否定と格闘しながら、慎重に、自分の輪郭を確かめているように私には映りました。その姿そのものが、もう“成長の途中にある”という証ではないかなとも思います。
どうか、心の中の自分を責める声に押し流されてしまいそうなときは、“いま感じているこの苦しさも、過去の私が守ってきたものの延長なのだ”と、少しだけ傍から見てあげられたりしないかな…と思ったりしました。痛みは消えなくても、見つめ方が変われば、重さが少しだけ変わることもあるのかもしれないなとあなたの綴った言葉から改めて思えました。自分の中の矛盾や問題に苦悩や葛藤している一人として、またあなたのお話を聞かせてもらって一緒に考えられたらな…とも思っています。もしまた死にトリが必要に感じられたらいつでも訪れてください。

感想2

投稿ありがとうございます。
まず、発作的に出てくるという強い感情たちに、他でもないあなたがすごく振り回されているのだろうなと感じました。環境に恵まれているという実感があるからこそ、それらの感情はもしかするとあなたにとってやり場のないものであり、感情の矛先が自分にしか向かないという現状もあったりするのだろうかと勝手ながら想像しました。それは確かに、自己免疫疾患のような様相を呈しているなと感じます。同時に、傷ついてしまうことを他の誰かのせいにしないのは、あなたの誠実さを表しているようにも思ったりしました。なんにせよ、明確に傷ついているあなたを見ていると、文中にもあった過敏過ぎるという言葉であなたをまとめるのはなんだか違うような気がしてならないので、私なりにあなたの心の動きみたいなものを想像し、その上で感じたことを言葉にしていきたいと思います。

ご両親との関係性を知っていく中で、今の良好な関係に安堵する自分と、幼少期のあなたを思うとやるせない気持ちになる自分がいます。
私としては、あなたは親のことをすごく客観的に見ている印象を受けています。確かに、父親がお酒を飲まずにはいられなかったことも、母親が感情的になり、あなたを傷つけるようなことを口にしたことも、その背景にはなんらかの事情(明らかになっていること、そうでないことを問わず)があるのだと思います。だから、行動の陰にある要因や、成育歴に目を向けるというのは、親をただ一人の人間として見るうえでとても大事なことで、でも気持ちの面ではすごく難しいことでもあるように思います(良くない言い方かもしれませんが、子どもにとって親の事情は「知ったこっちゃない」側面が強いと私は思っています)。それでもあなたが親のことを客観的に見られるのは、やはり自己分析(+親について考えること)に長い時間をかけてきたからなのではないかと、私は考えています。あなたとしては、かつての親の言動について腑に落ちているというか、一応の納得があるように私には見えました。
だけどどのような事情があるにせよ、そして今は良好な関係性であるにせよ、幼少期のあなたが緊張感や責任感を強く感じながら過ごしたこと、ひどい言葉を浴びたこと、暴力を受けたかもしれないことを、仕方のないこととして片付けてしまうのは、抵抗を感じずにはいられません。
また、投稿を読んでいて気になったことが二つあります。一つは、あなたが職場の人のことを良い人であると感じながらも、つい過敏になってしまう(傷つけられる可能性に敏感になる)という現状が、今は良好な関係を築いている、あえて言うなら「良い人」である両親に、かつて傷つけられたことと重なるような気がすること。
そしてもう一つは、「心が思春期のまま成長していない」と書いていたことです。私にはむしろ、幼少期のあなたの考えたことがすごく大人びて見えており、早い段階で大人(ここで言う大人は、自分の思いを抑える、我慢するという意味合いです)にならざるを得なかったあなたが想起されました。個人的には、職場の人に対する認識や、成長していないと感じていることもまた、幼少期の体験が作用しているような気がしています。

ご両親との今の良好な関係性を否定する意図はありませんし、関係性に水を差してしまわないか不安もあったので、上記のことを書くか非常に迷いました。でもやっぱり、幼少期の体験がいろいろな形で今のあなたに表出されているようにも見え、過去のあなたと今のあなたが深くつながりあっていることを感じたので、伝えさせていただきました。繰り返しになりますが、ご両親との今の関係性になれたことにほっとした自分と、幼少期のあなたについて、どうしても引っかかってしまう、やるせない気持ちになる自分がいます。もしも今のあなたが、幼少期のあなたを目の前にするとしたら、どんな言葉をかけるのだろうか、あえて言葉はかけずにいたりするのかな、、などという思索の旅が始まってしまいそうなので、このあたりでペンを置こうと思いますが、これからより自己分析が深まったりして、それを誰かに伝えたいと思ったときは、また教えに来てもらえたらと思います。改めて、投稿ありがとうございました。

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