多分とりとめのない話です。
現在、私は20代後半。気づいたときには犯罪者になっていました。罪状は一旦伏せておきます。果たして、どこで間違ってしまったのか。犯罪を目的に生きてきた訳ではありません。気づいたときには、罪状からして、最も厳しい社会的スティグマを負う者の一人になっていました。
先日、自首を行いました。誰かを直接的に深く傷つけてしまう罪ではなかったため、被害者を生み出す前に再犯防止の治療と繋がれたことは奇跡だったと思います。罪を認め罰を受ける覚悟は出来ています。
ただ、治療の今後が心配なのです。私が治療を受ける病は依存症に似ています。完治はありません。あるのは回復を続けるのみです。治療上スリップは不可避です。スリップとは薬物依存でいえば再度クスリを使用してしまうという事。依存症の再発では無いそうです。長くなると思うので、詳細はここでは控えます。心配なのはこの点です。私の治療に関しても薬物と同様、スリップ=犯罪行為です。これが兎に角怖い。頭の中では、スリップ自体は治療上有益な物であり、治療を受けなかったらそもそもスリップもしないと分かります。しかし、「スリップは治療上不可避」だとすれば、スリップが犯罪と換言出来る以上、上記の「」内はこう言い換えられます。「再犯は治療上不可避」と。この現実は私に前科者になる等という現実とは次元を異にする程の、容赦の無い絶望を突きつけたのです。再犯をしたくないし、治療する側も再犯率を下げたいから治療を行う、しかし、再犯は不可避。これまた不可思議なロジックです。ただ、この事が分かってしまうと、治療を受ける意味、モチベーション、希望、全てが無に帰してまいます。もう2度としなくなれると期待して、恥を忍んで治療を開始できたのに…
再犯が不可避ならば、再犯率をゼロにする為に死刑を望みます、それが無理なら安楽死でも…それも無理なら強制収容して病院から2度と出られないようにしてくれ…この感覚は水舟に似ています。これを読んでくださっている方は郡上の街に行ったことがありますでしょうか。水舟は郡上八幡の至る所にあります。清冽なる水の豊かな地ならではの、生活の工夫です。水舟は上から一段、二段と大きな水槽の連続している構造。それを上から下へと、水は流れ落ちていきます。第一槽は飲用や食べ物を洗う最も清らかな水、続いて第二槽は使用済みの食器を洗う為、そしてその水は僅かな食べ残しなどを含み水路に流れ、魚の餌となり自然に浄化されていきます。第一槽の清らかな水、即ち純粋なる願い。そこから流れ出た水は純粋性をわずかに損なった水。そのまた次は純粋性をさらに損なう。この様に、死刑が無理なら安楽死。安楽死が無理なら強制収容。絶望が希求する死刑を拒絶され、絶望が二次的に希求する安楽死を拒絶され、絶望が三次的に希求する強制収容を拒絶される、というふうに。未だ浄化の救い主たる魚には出会えていません。大口開けて待っていると信じてたいのですが。
ここで、やっと本題です。仮に治療を行い再犯を防げたとします。ですが、だからといって再犯せずにいられる私の価値とは何なのでしょうか。
私は昔から、自分の価値を感じられていませんでした。細かくいえば、私がありのままの私として受け入れられているという感覚がない為に、その時に持っている能力、或いは、所属するコミュニティにおいて最も優れている能力により価値が齎されると誤認し、その価値に依存していました。人より優れているという道具だけが、私を安心させてくれていました。
私には真に友人と呼べる人はいません。いるのは、私より劣っており、そして真の欠点には気づかず、私が選択し、提示した欠点のみを真実だと思い込み、そしてその欠点を私の強がりだと思い込み、その強がりを私の強みと考え、私を美化し、そしてコントロールされていることに気が付かないであろうもの。つまり、私より劣った存在で居続けてくれて、私を安心させ続けてくれる道具です。彼らにとって、罪を犯した私を見せることはありえません。彼らはありのままの私に価値を感じるはずはありません。
両親も同じです。私は精神障害者である事を免罪符とし、彼らの前でダメなりに過ごしています。ですから、診断書にある通りの精神疾患以外の弱みを彼らは知りません。両親の前ではダメでいられます。だって障害者なんだから。障害者である私は、本当にダメダメな私を守る為のスケープゴートとして存在しています。家族の前では障害者として振る舞っているため、両親はスケープゴートの私と良好な家族関係を気づいていると錯覚しています。彼らはホントの私を必要とはしないでしょう。
話が脇道にそれました。私が再犯しないでいられたとして、その様な私に何の意味があるのでしょうか。絶対に再犯したくないと思っています。ですが、私が生きる必要を何人たりとも感じておらず、生きる価値を誰からも与えて貰え無いのであれば、この世に執着し、生きる事とは何なのでしょうか。私はそのままで、誰かに愛されたかったのです。ただただ、誰かに抱きしめられ、耳元で「生きててくれて、ありがとう。」と言われるだけで良かったのです。しかし、この渇望に気づいた時点ではもう手遅れでした。犯罪者、前科者のレッテルは消えません。この渇望は満たされないまま、孤独に再犯の恐怖と一生付き合い続ける事を運命づけられた今。再犯しようとしまいと、私のホントの願いは叶わないのでしょう。
だったら、一生塀の中にいたら、少しは楽?
誰かに価値を与えてほしいって甘え?
自分の価値は自分で作り出すもの?
経験談はそれぞれの投稿者の個人的な価値観や感じ方をそのまま掲載しています。一部、リアリティのある描写や強い価値観が含まれるため、読む人にとっては負担等を感じる場合もあります。各自の判断で閲覧してもらえるようにお願いします。
これからのこと
感想2
とても興味深い話でした。最初に「多分、とりとめのない話です」とありましたが、読み終えて、心の中で「とりとめもないなんて、とんでもない!」と思ってしまいました。可能なら、直接じっくりと話を聴いてみたい気持ちになりました。詳細は分かりませんが、あなたは今の社会において私たちがあまり気付いていないような何らかの課題を引き受けて、一つの矛盾や葛藤と格闘しているイメージが浮かびました。おそらくあなたの悩みでありながらも、私たちにも関係ある社会の課題の話なのだろうと感じています。
考えたことの一つは犯罪というものの定義やあり方でした。あなたが例に出している薬物については日本では犯罪の一つですが、諸外国では刑罰の対象ではなく、治療の対象として扱われ同時に交通事故のように行政処分の対象であるということを学んだことがあります。依存症は以前は個人の努力や意思の問題とも言われてきましたが、最近ではその背景には孤立の問題や子ども時代の安心安全の経験が大きく影響していると言われています。私自身も依存の問題で悩む人たちと出会ってきましたが、意思の弱い人とか我慢が足りない人というより、人知れず我慢をしてきた人だと思うことが多くあります。特に自分の力ではどうにかすることのできない子ども時代に我慢をしてきた人たちだと思っています。
あなたの経験談には子ども時代のことが書かれていませんが、本音を出さないで生きてきたことは想像されました。ありのままの自分を出すのではなく、社会やコミュニティが求めてくる役割や期待を感じとって、周囲から望まれる姿でいようと一人頑張ってきたのではないかと想像しています(勝手な想像なので、全然違っていたらすみません…)。
そういう意味で、最後の方に書かれていた「渇望」の話は確かにあなたから自然と出てきた本音であると感じました。これまで周囲に伝えなかっただろう本音を書いてくれたことにはどんなきっかけや意味があるのだろうかと考えています。そして、渇望を口に出したことにより、変わっていくこともありそうだと感じました。私は結果として再犯しても、再犯しなくても、どちらもありなのではないかと思いました。とかく結果や成果によって物事が判断されがちですが、そこに至るまでのプロセスに何かヒントがあると思います。ひょっとしたらあなたの渇望は結果を必要としているのかもしれません。しかし、私には渇望に効くのは目立たないプロセスや地味な繰り返しなのかもしれないと思うところがあります。そして、そうしたプロセスはあなた自身がずっと蓄積してきたことだろうとも思いました。そのプロセスをこうして自分以外の誰かと分かち合うことによって、意味や価値が生み出されるような気がします。何だか、きれいごとみたいな感想になったかもしれませんが、あなたの経験談を読み感じたことを書きました。繰り返しますが、もう少し話を聞いてみて、議論をしてみたいと思いました。投稿、ありがとうございます。
お返事
感想1を書いてくださった方へ
犯罪者である私の文章に興味を持ち、感想を下さる方などいないと思っていました。
貴重なお時間を割いて、この感想を記してくださった事、とても嬉しく思います。
「渇望」に気づいたきっかけ
それは自らが行っていた、取り調べの想定問答の中で気づきました。身の上を語っている最中でした。
全てを記すと長くなりすぎますので、かいつまんで話すと、幼い頃はどんな子供だったか?と聞かれたらこう答えよう、と考えるたびに、身の上と関係ない記憶がぽつりぽつりと思い出されました。それらが人生の各ステージごとにそれぞれの時代の記憶が浮かんで来ることがわかりました。その記憶は確かに覚えていて、自分のもの。しかも、辛かったはず。しかしながら、シーンは覚えていても、該当するシーンの感情が思い出せない。辛かった事なんだろうな、と思うのに。何故か、当時の気持ちが思い出されない。言ってみれば、他人の話を聞いて、辛かったんだろうねえ、と想像するくらいの感覚です。ですが、「こうして欲しかったなぁ。」という強い欲求は自分のこととして、ありありと思い出されるのです。「よく頑張ったじゃん」って言って欲しかった。「守って欲しかった。」、「家の中でも、白い目で見ないで欲しかった。」。それら、自然と思い出される記憶は常に「こうして欲しかった。」という強い欲求を惹起する事に気づいたのです。私の幼き日の記憶は全て私より大きな存在への「こうして欲しかった。」を惹起する事に気づきました。私はこの「こうして欲しかった。」を「渇望」と名付け、そのエネルギーの大きさと処理しきれないままの「渇望」がもたらす影響について、苦しむ事となっていきました。
今回の犯罪はあくまで、この処理しきれなかった「渇望」の物理世界における表現方法の一つでしかないと感じています。再犯防止の治療により、再犯せず生きていくという一つの目標を達成しようとも、この未処理の「渇望」自体は未だ、脈打ち成長を続けています。恐らく、再犯防止の治療は一つの対症療法であり、今後も未処理の「渇望」は犯罪とは異なる表現形態で物理世界、精神世界の双方において、大きな影響力を持ち続ける予感に、恐れを抱いています。
「こうして欲しかった。」という「渇望」は途中から、「こうしたかった。でも…」へと少しずつ変容していく様子も見て取る事が出来ました。その辺りの時期から、自己と他者、両者に対する諦念の萌芽を感じています。
「分人主義」について
似て非なる話かもしれませんが、少しだけ。
私は「分人主義」という言葉自体は知りませんでしたが、似たような事を考えることはしばしばあります。その際私は、「分人」ではなく、「仮面」や「スーツ」と言い換えています。つまり、私は多種多様な場面において、その場面に最適な仮面をつけ、生きているのだと。以前はこの「仮面」を付け替えている動作主が「ホントの私」だと考えていました。しかし、現在は付け替えの動作主は「ホントの私」ではなく、付け替えを要請する、より大きな外部的力なのではないか、と思うのです。ここで、問題になるのが「ホントの私」はどこにいるのかということ。感想者様にとっては「ホントの私」など存在しないとお考えだと思います。私も同意見です。反論というより、「ホントの私」を探し求めていた時の流れを少しだけ記していこうと思います。
どうやら、この仮面を付け替えるこの手は「ホントの私」ではないことが少し見えてきた。なぜなら、「付け替えの動作主」が「ホントの私」であるならば、各場面において「ホントの私」でいる選択をとることができるはず。しかしながら、それは出来ない。恐らく「付け替えの動作主」は「私」ではないが、「他者」でもなく、あくまで「私」でもあり、同時に「他者」である。少し話がズレました。では「ホントの私」が仮面を取り替える「動作主」でない場合「ホントの私」とは何者なのか。仮面の下の素顔なのか。果たしてその顔には何が映っているのか。その顔は目も鼻も口もないのっぺらぼうかもしれない。そもそも仮面の下に顔なんてあるのか。それがあったとして、それが「ホントの私」であると言えるのか。「手」が「ホントの私」でないなら、各仮面それぞれが「ホントの私」であるのではないか。各仮面が「ホントの私」であるならば、「ホントの私」は複数存在するのか。はたまた、各仮面をしまっている箪笥こそが、「ホントの私」と呼べるものなのではないか。「手」が私の物では無いとして、生活の中で私が意思決定している場面は存在するのだろうか。仮面を付け替えるのが他者ならば、仮面を付けた私の全行動も他者により、踊らされているだけなのか。とはいえ、「仮面」とは道具であるはず。道具とは生の崖っぷちで、自らを生の大地に引っかかっているためのフックにほかならない。「各私」=「各仮面」=「道具」の等式に納得しつつ、果たしてこの大地引っかかり続けている者は何者なのか、という疑問も湧き出てきます。話を戻しますが、「ホントの私」とは、これら複数の仮面を統合する何か、である気がしています。いやむしろ、統合する何かなど無く、各仮面に通底する何かさえもないのかもしれません。上記の通り、まだまだ、理解は追いついていない状況です。
この仮面の考えに至ったきっかけに話を移します。それは精神疾患の治療のため、カウンセリングを受けた際のことです。「語り」のフェーズでは、確かに、昨日、一昨日と悩み苦しんでいたはずの事が異常なまでの冷たさ、血の通わなさで言葉がスラスラと出てくる事に違和感を感じたからです。そしてその状態の私には、いかなる傾聴、いかなる慰め、いかなる肯定も意味をなさず。全くの他人事の様に感じられ、また、私の描いた台本通りに進んでいるな、と冷たい目で観察し、予定通りの結末に慣れすぎた実験者の様でもありました。そこで、「どうやら悩み、苦しむ私」と「相談する私」は別の存在なのではないかという予感に触れたことがきっかけです。この部分は感想者様の最後の言葉。「別の場所のあなた」にも繋がる話かもしれません。
以上、雑記でした。
感想に対して、何ら答えになっていないかもしれませんが、感想を読ませて頂いて感じた事を記してみました。
感想2を書いてくださった方へ
この様な私の文章に感想を寄せて下さり、誠にありがとうございます。貴重なお時間を割いて感想を書いて下さったことを大変嬉しく思います。
感謝の気持ちを文章に変えて。
今回は本当に雑記です。
私の両親は教職に就いています。周りからは親が先生という点から求められる姿は自ずと固定されます。それは同様に親からもそうです。周りの子供に「親が先生なのに?」と言われることも多く、親にはテストの点が悪ければ、「なんでこんな点なの?」と悲しまれ、学校が居づらいから不登校になると、今度は家までも居づらい場所になりました。弟がいるから、ツラくてもそんな素振りは見せられない。お兄ちゃんだから。行きたくもない習い事だって沢山行った。自分から始めたわけでも無いから、「行きたくない!」と泣いても、行くしか無い。行ったらそこが辛いけど、行かずに家にいても辛い。体調悪くもないのに休めるわけもない。熱が出てほしくて、夜中、素っ裸で寝ても、熱が出るはずも無い。
私は先日、たまたま性依存に苦しむ女性と知り合うことがありました。愛着障害に悩む女性とも出会いました。気づいたらまた、役割に生きています。悩んでいる人がいるなら、相談に乗らないと。正直電話は苦手だし、三十分の長電話なんてもっと辛い。でも、相談に乗らない理由もない…ちょうどこの文章を書いている今もその子と電話してるんです。
彼女達と話していると、私に似ているなと感じることもしばしば。こんなに変わろうと頑張って、何だか上手くいかなくて、同じ失敗に傷ついて、身近にいる人には助けを求められずに、遠くの誰かの所に流れ着いた。どうして、あなたはそんなに満たされないの?と彼女たちに問うことは、同時に私への問いでもあります。答えは出ないままですが…
「渇望」を癒す方法のヒントが「プロセスをこうして自分以外の誰かと分かち合うことによって、意味や価値が生み出される」この言葉の中にあるような気がしました。
もし、この文章を具体的に想像するならば、自助グループにおける相互的自己開示が自らを癒し、また他者を救済する可能性がある、と表せるかもしれません。この行為が誰かの意味になり、誰かの価値になる事を予感しつつ、治療に励むつもりです。私の治療のゴールは恐らく再犯しない事だけではなく、この「渇望」を癒すことにあると思っています。
感想を頂いたお二方には、感謝してもしきれません。もし、私の経験談が誰かの役に立つならば、この上ない喜びです。
感想1
投稿ありがとうございます。読んでいて、ここに書かれているのはこの文章を書く前からずっと考えてきたことなのだろうと感じました。再犯したくないからこそ治療を受けるけれど、でもそれを依存症として考えれば、スリップは当然起きうることであるなら、どうしたらいいのか……という状況で、あなたの中で問いとしてあげられたのが「価値」についてだったことに興味をひかれています。
あなたはこの世の中の多くのものを「価値」をベースに認識したり評価したりしてきたのかなと思いましたし、もっというと、価値の有無という評価基軸であなた自身が判断を押し付けられる経験が多かったのではないかと思いました。そこには資本主義的な考え方や能力主義的な考え方が含まれている……というかむしろ、それ以外の本来は多様にありうるはずの考え方が排除されているような感じもします。
あなたが自分の「渇望」に気づいたきっかけはなんだったのでしょうか。それは再犯防止の治療に繋がれたことによるのか、それとも、それ以前のことなのか、気になりました。
「私がありのままの私として受け入れられているという感覚がない」ということを書いていらっしゃるので、条件ありきの肯定だけでは大きな不足があることをあなたも意識しているのだろうと思います。「道具」という表現がありましたが、まさに自分の能力や自分自身も道具にすることで肯定を得てきたのだとすれば、再犯の内容というより、再犯するというレッテルは、これまでのロジックでは大きな問題になってしまうということなのかなと思いました。文章全体や含まれる比喩から、そういう自分や、それに気づかない周囲の人たちへの諦念や失望もあるのかなと感じました。
一般に道具の個性はとても軽んじられます。たとえば私は左利きなので、はさみを選ぶ時、左手で使いやすい「左利き用」の形状であることは重視しますし、大きさや切れ味や安全性などは考慮すると思いますが、ひとつひとつの個別性を重視して愛着を持つというようなことはありません。むしろ同じ製品として売られるものならば、どれを購入しても同じように使えることを期待します。
現代社会の中では、私たちがたとえば「社会人」という枠組みで、そのような属性と均質性だけを求められるという要素はたしかにあると私も感じています。パウロ・フレイレはそのような枠組みで人を非人間化して扱うことを「銀行型」と言って批判しましたし、チャップリンが資本主義社会を風刺した「モダン・タイムス」はもう80年以上前の作品です。それでも未だ、むしろさらにそのような風潮は広がっていると思います。ただ、それでも私たちは人間……というか実存であり、実存は本質に先立つと個人的には確信しています。
「ホントの私を必要とはしない」と書いてありましたが、個人的には小説家の平野啓一郎が書いていた「分人主義」という考えを気に入っています。私たちはどこかに「ホント」の自分がいるわけではなく、さまざまな側面がありいくつもの「分人」を生きていて、それらすべてを含めて「私」だととらえる、という考え方だと私は認識しています。
ただそれらの切り分けを意識し続けないといけない状況では、それらを一体の自分としてとらえるのも難しい場合はありそうだと思います。
人や集団や状況の必要や好みや、その時々の要請が作り出す一過性の価値「⚪︎⚪︎にとっての価値」はあると思いますが、普遍的な価値は存在しないと私は思っています。だから「生きる価値」というものにも普遍性はなく、ただ「これが価値のように思える」と感じる(錯覚かもしれない)感覚があるだけなのかなと思います。精神科医のフランクルはホロコーストの体験を経て、人生に意味があるのではなく、人生のほうが自分自身に意味を投げかけてくるのだ、だから自分はそれに応えねばならない、というようなことを言っていたと思います。
そのあたりの有名な本を読み漁る程度には、私も人生の意味、生きる価値について知りたいと思ってきたのだと思うのですが、個人的には神谷美恵子の『生きがいについて』という本が印象的でした。人間の一生も地球の歴史、宇宙の歴史からしたらあまりにもひとときのものです。個人的には、その中で与えられたものを少しでも社会に還元したいと思っていますが、すべて呪いたくなるようなときもあります。
文章はとても整然としていて、あなたが思考し続けてきたことがうかがえると同時に、この整理された文章の外側にも、別の場所にもあなたはいるように感じられて、その部分のあなたについても、いつか文章になることがあれば読んでみたいと思いました。