経験談

生きづらさを感じる人が語る 経験談

経験談はそれぞれの投稿者の個人的な価値観や感じ方をそのまま掲載しています。一部、リアリティのある描写や強い価値観が含まれるため、読む人にとっては負担等を感じる場合もあります。各自の判断で閲覧してもらえるようにお願いします。

情けない自分のまま生きたくない

現在30代後半まで生きてきました。

私自身、一家の長男で両親の愛情や友人にも恵まれ幸せに生きてきたつもりではありました。ただ周りの人間は私の事を人としての能力が低いと言われ続けてきました。

周りの大人からは『弟はしっかり者なのにね』とか『長男は将来ニートになりそう』とか散々言われてきました。

勉強、運動神経、容姿など正直どれも秀でてるものはないと自覚はありました。しかし、それを認めれない負けず嫌いの自分はそのままではいけないと思いまして、学生時代は毎日予習復習は欠かさず部活も野球部に所属し朝から晩までスポーツに明け暮れてました。

ただ、心に影を落としてきたのはそれでも自分を無能扱いする大人の陰口や戯言と自分が100や1000の努力をしても10の努力であっという間に抜かされるという厳しい現実。人生、常に負けて負けて負け続けてきました。

それでも努力し続ければ必ずなんとかなると思い。社会人になり死に物狂いで毎日働いて、上司には何度も叱られそのたびに食らいついて仕事を覚えて成果を上げて。管理職まで役職を上げることもできました。

しかし、その道半ば、失敗してしまいました。

内容は自分の部下が会社から不正に給与を差し引かれている相談を受け。ついその件を会議の議題に挙げてしまい。経営陣に対し社内のコンプライアンスの改善を求めました。その後も様々な社内の改善を勝手に提案して経営陣と常に折衝してきました。

ただその行為が社内の規範を乱したということで自分が社内評価を下げてしまい。管理職降格と給与を平以下の最低限まで引き下げられました。

自分が行った行為自体は悔いはありませんでしたが、一から積み上げてきた実績と役職も砂上の白の如く崩れ去ってしまい。心の中が真っ白になってしまいました。

自分の家族や周りも会社のひどさや転職を強く進めてくれますが、アラフォーの自分がまた一からキャリアを積んで仕事をする気力も湧きません。転職前にまずは会社を辞めることも進められていますが元気な自分が無職の状態になることが許せません。

結論残ったのは何もできないプライドだけ高いみじめな自分だけです。
何も残せなかった自分はもう生きる価値はないと自分は思い込んでます。

感想1

経験談への投稿、ありがとうございます。
なぜ人は「評価」したがるのか、優劣をつけたがるのか。会社など組織的なものであれば、業務上切っても切り離せない場合もあるのかもしれない、と感じる部分もありますが、私生活においても人が人を「評価」し優劣をつけるのはなぜなのだろう、と、この投稿を読んでいくうちに私の中で大きな疑問が浮かんできました。

周囲の大人からの目線や言葉は、投稿者さんにとってとてもつらいものだったのだろうと思います。比較の対象が弟であったことも、もしかすると「長男だからしっかりしないと、弟たちのお手本にならないと」というような責任感から、より一層強い意味で投稿者さんを苦しめていたのかな、と感じました。そのような環境の中で、自身に真剣に向き合い、環境に抗っている投稿者さんの姿を想像し、思わず尊敬の意を表したくなりました。

部下からの相談に対し積極的な対応をしていることは、相談した部下にとってとてもうれしい出来事だったんじゃないかと思いました(私ならかなり喜んでいると思います)。それがきっかけで投稿者さんの言う「失敗」につながったことは本当に残念だな、と感じましたが、正直なところ、なぜ投稿者さんがそのような目に遭わなければならないのか、とも感じています。不正に対し異議を立てて改善を求めるのは、本来であれば会社・組織をよりよくするための行為だと思っているのですが、それを行動に移した投稿者さんが間違っているように見えてしまう、そう扱われてしまうことに憤りを感じる私がいます。

「元気な自分が無職になることが許せない」気持ちがあることは、これまで自分を厳しく律してきたこと、また、そうやって乗り越えてきたんだと思うと当然と言えば当然なのかもしれません。ただ、「生きる価値がない」と感じている投稿者さんは、身体は仮に元気だとしても、心に大きな負荷を抱えているのではないでしょうか。これまで自分に厳しくしてきた分、少しばかりでも休息の時間があっていいのかなぁって思ったりしました。
気持ちを吐き出すことで楽になるのなら、また、つらい気持ちがあふれそうなときは、またここに書きに来てください。
改めて、経験談への投稿、ありがとうございました。

感想2

投稿読みました。環境にも恵まれ幸せに生きてきたと感じる一方で、周囲の人たちから比べられたり勝手に評価されたりする中でも努力を重ね積み上げてきたものが崩れてしまったことの絶望感や無力感、でも理不尽さへの悔しい気持ちもあり、あなたの中でずっと葛藤している様子が伝わってきました。
「人としての能力が低い」「無能」と言われてきたことが印象的で、周囲の評価とは時に残酷で、しかも、それが子どもだった頃の自分に向けられたものならなおさら、成長してからもその評価の呪縛から逃れるのは簡単ではないものだと私は思います。大人になってもその「無能」というレッテルがついて回り、自己肯定感を削り続けていく…それは、個人の資質の問題ではなく、子どもの頃に与えられるべき“無条件の価値”が欠けていたことが大きいように思います。ましてやより身近にいる弟と比べられてきたのでしたら、なおさらあなたの心は深く傷を負ったのだろうと想像しています。
それでも、あなたは負けじと努力してきたわけで、スポーツに打ち込み、勉強も手を抜かず、社会に出てからも歯を食いしばりながら成果を上げてきたのですよね。その姿勢は決して能力が低いわけではないと思いますし、誰にでもできることではないと私は感じます。むしろ、逆境をどうにか生き抜くために、自分にできるすべてのことを差し出してきて、その姿勢こそが、あなた自身の「生きる力」の証であるように感じます。
ただ、それでも組織というものは、個人の誠実さを受け止めきれない場面が多すぎるな…とつくづく感じさせられました。(そうではない会社もあるとは思いますが)特に、内部の不正や不条理を正そうとする人間は、しばしば“秩序を乱す者”として排除されることも少なくないなと。正論を口にする人が孤立する構図は、あまりに社会に根深く、見て見ぬふりをする側が得をする現実もあるわけで…そのような状況で、あなたが声を上げたという行動は、決して間違ってはいなかったと私は思いました。それにもかかわらず、結果としてすべてを失ったと感じてしまうのは、それだけ社会が“沈黙すること”を善として、“迎合すること”を賢さとする構造に支配されているからかもしれません…。その中で、あえて反旗を翻した人間が、なぜここまで自分を責めなければならないのか…こうした構造が放置されている社会自体が、本来は問われるべきではないかと勝手ながらあなたの置かれている状況に憤りと悔しさを感じてしまっている自分がいます。
「何も残せなかった」と結ばれた言葉に、何とももどかしい気持ちを抱きながら、それでも、あなたの文章には、同じように努力しても報われなかった人、声をあげたことで傷ついた人、何もかもを失ったように感じている人にとって、「自分だけではなかった」と思え支えになる部分や、共鳴できるものであると感じました。
生きる価値とは何かを「成し遂げる」ことだけで測られるものではないと、私は思っています。むしろ、生きてきた過程で何に悩み、何に傷つき、どんな選択をしてきたか…そうした過去の一つひとつが、これからを考える上での確かな材料になるはずだとも思います。(綺麗ごとのように聞こえてしまうかもしれませんが…)
あなたがタイトルに表現していた「情けない自分のまま生きたくない」という言葉、それを叶えるのには一人では行き詰ってしまうこともあるかもしれません。そんな時はまた、死にトリにあなたの声を届けてもらって一緒に考えたいなと私は思っています。経験談の投稿ありがとうございました。

一覧へ戻る