私は長らく、人生において苦しみを味わってきました。しかし、重篤な疾患を抱えていたり、障害を有していたりというわけではありません。また、生活に困窮しているわけでもありません。それでも、生きづらさを抱えています。自分の気質ゆえに、そして自分の不甲斐なさゆえに、生きていくのが苦しいです。
私は、大学入学までは比較的順調だったのですが、社会に出て、仕事のできない自分に気づかされました。負け続け、逃げ続けた無様で無能な自分に嫌悪感を覚えます。今や年齢も相当重ねてしまい、敗北の確定した自分の人生に対し、絶望的な気持ちになります。そのためか、今、人との交わりが本当に苦痛です。本来、人間関係は喜びをもたらすものです。若い頃は人間関係の幸福を味わったこともありました。しかし若さという免罪符を失った今、人と接することが怖いです。無様な自分が、他人から哀みの対象になる、あるいは、侮蔑や嘲笑の対象になる、やがて敬遠され無視される、そういうことが怖いです。
私は、いわゆる「就職氷河期」世代に属します。就職戦線も、就職後の環境も、本当に過酷だったと思います、今も多くの方が苦しんでいる世代です。しかし、私自身は、まともに就職できなかったというわけではなく、社会に出るタイミングで就職先が辛うじて見つかるという、運はありました。したがいまして、私の人生の苦しみは、属する世代の要素もさることながら、自分自身の不甲斐なさを主な原因としています。
私は、性格的に真面目だと思います。子どものころから真面目であり、社会に出てからも真面目でした。なぜ真面目に生きてきたのか、はっきりとは分かりません。ただ、これまでの社会人生活で、自分は何かにつけて不安やリスクを人一倍強く感じやすい気質なのではないかと思うようになりました。何事も不安だから、真面目にふるまってきたのかもしれません。しかし、社会に出て働き、人並みに稼ぐということにおいて、真面目であること自体は、さほど役に立たなかったと思っています。
仕事にもいろいろな側面がありますが、私は事務処理から顧客交渉まで、あらゆる能力が劣っていました。いくら真面目に頑張ろうと結果を出せず、失敗し、組織から否定的に評価され、時に激しく叱責され、心に傷を負いました。仕事に対する不安、仕事を続けることの不安、人間関係の不安で、休日も落ち着かず、精神的に病むこととなりました。精神科を受診し治療を試みたこともありますが、苦しみや不安から逃れるため、結局、職を辞めました。
次の職場、そしてさらに次の職場でも、同様で、そのようなことの繰り返しでした。迷走を経て、今は、薄給で、精神的負担がこれまでよりは小さい仕事に就いています。それでも、心は安らぎません。仕事のことはいつも不安です。また、過去の職場で刻み込まれた忌まわしい記憶が時折よみがえり、自分の惨めさ、愚かさを再認識します。何事もなしえず、何者にもなれず、落ち込み、時に不適切な言動にも走り、醜態をさらしてきた自分が、私は大嫌いです。
そういう自分にとって、他人との交流はしばしば苦痛を生みます。自ら新たに人間関係を築くとなると、さらに困難が生じます。他人に自分と同じ時間を過ごしてもらうこと自体が、不安です。自分とつまらない時間を共有してもらうことは、苦しいです。何とか楽しませなければならない、あるいは利益を与えなければならない、でも、そんな芸当が可能なら、公私ともに充実した人脈を築くことができ、誇らしい人生を歩んでいたことでしょう。
嫌われることは、やはり恐怖そのものです。自分のような無価値な人間をだれが受け入れてくれるだろうか、そんな思いを常に抱いています。一昔前に比べて価値観は多様化しているとされており、寛容な世の中になっているのかもしれません。それでも私は、世間の目は冷たいと思えてなりません。自分は、嫌われ、蔑まれ、あるいはそこまでいかなくても、親しくする価値のある人間としては扱われないのです。距離を置かれ、またはぞんざいな扱いを受けるのです。もちろん、明示的にそのような態度をとる人はほんのごくわずかです。多くの人は、大人の対応として、あくまで心の中で、私のような人間に対しそういったネガティブな感情を持っていると思います。
私は、実家にて母親と2人で暮らしています。体力の相当衰えた母親と、そして稼得能力はじめ様々な能力に欠ける私にとって、合理的な暮らし方です。しかし、近年「子ども部屋おじさん」なる言葉がネットを中心に使われ、独身で実家暮らしをする中年の男性は揶揄される立場に置かれているようです。恐ろしいですが、これは、世間の目が冷たいことのほんの一例にすぎません。私のような人間が、職場その他の場においてどれだけ冷ややかな目で見られているのか、想像すると本当に死にたくなります。
世の中には、結婚し、子どもを育て、家まで買う、そのような人々が大勢います。それが多数派なのでしょう。自分のような人間からしたら、摩訶不思議です。彼らは超人でしょうか。安定的に十分な稼ぎを得る能力だけではなく、仕事、人間関係の維持、子育て、といった苦行にともなう膨大な不安やストレスに打ち勝つ能力が必要となります。自分には全く備わっていない、信じられないほどのタフネスが、この社会では、当たり前のように、普通に求められています。まさしく地獄だと思いますが、一般的にはそれほどの地獄としては語られないこの社会で、自分はただ逃げ続け、今もどこかへ逃げたい気持ちでいっぱいです。
最近は、老いという新たな苦しみもありありと感じるようになりました。老いの受容、これは誰もが通る道でしょう。しかし、自分のような荒涼とした道しか歩んでこなかった人間にとっては、老いがもたらす絶望感は人一倍大きく、目を覆いたくなるような現実が存在します。自分はこのまま死んでいくのだろうか、こんな人生でよいのだろうか、死んだほうがましかもしれない、と幾度となく思ってきましたが、そんな時期も過ぎ、今は、このまま死にたくないという思いを強めています。
しかし、どうすれば自分の人生が好転するか、具体的な方法が見つからないまま、悲嘆にくれたまま、時間ばかりが過ぎていきます。同じような状況で苦しんでいる人々も、こうした苦しみに深い理解を示してくださる人々も、世の中に大勢いらっしゃるとは思いますが、知り合う方法も分かりません。
仕事を辞め、せめて仕事の憂鬱から解放されることが、少しでも幸福になる一つの手段かもしれません。しかし、母親をまた悲しませると思うと、実行が困難です。母親がこの無様な息子を責める、そういったことはこれまでありませんでした。私は母親には恵まれました。しかし、この先は分かりません。母親までもが私に対して敵意や嫌悪の態度を示す、そんなこともないとは限りません。それは本当に不安であり、避けなければならない最悪の事態です。
生きる苦しみを脱し幸福を得る手段が分からず、私は行き詰ってしまいました。テレビの街頭インタビューなどで、幸せそうな家族連れがこれからどこどこへ出かけるなどといった光景が映りますが、今の自分にとって、こういう映像ほど絶望を掻き立てるものはありません。
感想1
読んでいる途中から、そして読み終わっても”孤独”という言葉が私の中に強く浮かびました。
「信じられないほどのタフネスが、この社会では、当たり前のように、普通に求められています」に対して、私は深く頷きますし、実際に私にはかなり難しそうなので求めるのをやめて人生を送っています。でもだからといってそこまで痛みはなく、じゃああなたと私の違いは何だろう?と考えると、同じような感覚をもっている仲間の存在を感じられるか否かが大きな要素のように感じました。だから”孤独”という言葉が、私の中に浮かんだのだと思います。
私がどれくらい多数派になれなさそうかというのを開示しておくと、それで困っているかと言われるとそうじゃないものもありますが、発達障がいで精神疾患もちで、不登校からの中卒で空白期間も多く、同じ職場に2年以上いられることは稀で、実家暮らしで、人間関係に結婚できそうな気配はありません。(それで不幸のマウントをとろうみたいな話では勿論ないですし、私の方が恵まれている立場にいるとも感じていますが、高みから言っているわけではないとだけは伝えたくて書きました)
「子ども部屋おじさん」という言葉は、すごく不当な差別に感じますし、こんなワードは滅びてほしい…と私は心から思います。人はそれぞれ事情があるし、状況だけで人格を決めつけることは、どんなものだろうと正しくないと感じます。経験談からあなたの真面目さや苦しみを感じた私としては、前よりさらに「子ども部屋おじさん」の揶揄に腹立たしい気持ちが出てきました。
ただ、自分以外の人にはそう励ませても、例えば私は世間では「障がい者」、ネットスラングだと「ハッタショ」と言われうる存在であり、実際にその目を感じたら傷つくし自分を劣った存在に感じてしまうと思います。昔に比べれば多様性を大切にする価値観になっているのだろうとは思いますが、それは人権も全く守られないという次元から、多少は守られるけど二流市民の扱いであるという次元に変化しただけに留まっており、本質的な多様性はまだまだ遠いと私は感じています。
誰かを二流市民だとジャッジするような人は、良い人ではないんだから、嫌われたって見下されたって気にしなければいい…!と頭ではわかっても、そうは思えない自分がいて、社会の風潮を前に個人はなんて弱い存在なのだろうとも思い知ります。
それでも、私には社会を変えていこうと活動できるこのサイトがあり、死にトリに参加してくれる人も全員仲間だと勝手に思っています。
だからあなたが語りを届けてくれて、それに感想を書ける機会をもてたことを、ありがたく感じています。
それは私にとって、世間一般でいわれるような幸せな家族をもつ(のを目指す)ことより、興味深くて魅力のあることです。