私は移動先の上司からのパワハラがきっかけで休職した。仕事に対する姿勢も信念も過去も全て否定された。精神薬を飲みながら復帰した。でもパワハラはなくならず治らなかった。私は大好きだった仕事を辞めた。その後別の仕事に就いた。別の仕事先はみんないい人達だった。また仕事を好きになれそうだった。いい人に出会って結婚した。いろいろあったけど人生で1番幸せだと思った。でもすぐに離婚した。原因は義家族からのいじめだった。姑に呼び出されて親戚に囲まれ5時間集団リンチを受けた。両親も私自身も、私の人生も全て否定された。ここまでの出来事はこの3年間で起きたこと。私は心が折れた。感情と自信を失った。周りには何も言えない。こんな私の話、悲しい話なんて聞きたくないだろう。明るく気丈に振る舞う私が好きなんだからさ。
今私は生きることを諦めている。けどまだ死なない。この辛い経験が、感情が、同じ辛い思いをしている人の役に立つのなら、少しでもその人たちの役に立つのなら、その人たちのために力を注いでみようと思う。私みたいな思いをする人は1人でも減って欲しいから。1人でも多く幸せになってほしいから。そして私はある程度やり切ったと思ったら死ぬと決めている。それまでは何としてでも生きるんだ。これが私の生きる理由だ。
感想1
投稿を読ませもらい、勝手ながら胸が締め付けられるような思いになりました。あなたの言葉には表面では追いつけないほど、複雑で深い傷を負ってきたのだろうと想像します。たった3年という時間の中に、人生を根こそぎ揺さぶるような出来事が重なっていて、「なぜ、こんなにも一人の人が次々と暴力の矢面に立たされなければならなかったのだろうか…」という強い疑問を抱いてしまいました。そして同時に、これはただ“つらかった話”でも、“耐えてきた人の美談”とも済ませてはいけないのではないかという思いも湧いてきています。
パワハラによって受けたダメージの中でも何とか復職をしたものの、大好きだと思える仕事を辞めざるを得なかったこと、どれほどの葛藤と努力があったかを想像すると、私まで悔しい気持ちになってしまいました。ただ、無責任に感じられてしまうかもしれませんが、無理して続けていたらあなたはどうなっていたか…を考えると自分を守るために最善の選択を当時したのではなかろうかと思う自分もいるのが正直なところです。
また、結婚と離婚の経験もあなたにとってより生きる気力を奪うものだったのだろうと感じます。義家族という“正当な関係性”の仮面をかぶったまま、集団で一人を追い詰め、5時間ものあいだ囲まれて否定されるという出来事は、もはや暴力以外の何ものでもないな…と思ってしまいます。その不当な扱いに対して声をあげたところで、ほとんどの場合は家庭内のこととして処理されてしまうものですし、個人についてどうかよりも“関係性の秩序”が優先される“家族”という文化が、行き場のない感情を生み出しているのだよなと改めて思わされました。
あなたが「生きることを諦めている」と書きながらも、「それでも死なない」と決めているところが印象的で、「誰かの役に立ちたい」という願いは、いわゆる利己的な使命感とは違うように私は感じました。ある種の怒りや、心の底からもう二度と同じ目に誰も遭わせたくないという、あなたの中にある強い信念(あるいは倫理のような)を私は感じました。
なぜ傷つけられた人が、さらに声をあげづらい空気の中に閉じ込められてしまうのか、なぜ「明るく気丈に振る舞う私」が好かれ、「本当の私」は無視されるのか…すぐには答えの出るものではないのですが、あなたの文章を読みながらそんな考えを巡らせています。生きることが使命に変わったあなたに「自分のために生きてほしい」なんて簡単に言えるものではないですが、この先その使命が苦しくなってしまった時や一人で行き詰ってしまった時などは、よければまた死にトリに思いを持ち寄ってほしいと思います。