私はこの春、高校二年生になった者です。私のこれまでと現在の心の中の全てを、長くなってしまいますが、ここでお話しさせてください。
私は中学生の頃、自分で言ってしまうのもなんですが、俗に言う優等生でした。勉強は塾には行かず自力でやり、生徒会や級長、その他様々な仕事を受け持ち、ほぼ満点の内申点やいろいろな賞をもらいました。当時、私は大小様々な悩みを抱えており、その中で頑張り続けるのは大変でしたが、先生に褒めてもらえたとき、「堂々とここに居ていい」と思えるような、自信が湧き出ていたのを覚えています。その感情と、「高校生になったら少し心を解放して、肩の力を抜いて、学校生活を楽しもう」という希望が私を支えていました。今の私にとって当時の私は、今とのギャップにひっくり返りそうになるような、その栄光に縋り付いてしまいたくなるような、そんな存在です。
高校一年生になり入学した高校は偏差値70の進学校で、私は求められるハードな生活に困惑しながら、どうにか適応しようとしていました。きっとその頃の私は、中学校で勉強ができるほうだった故に、レベルの高くなった授業でも遅れをとりたくなかったのだと思います。授業の予習や復習、たくさんの課題をなんとかこなそうとする毎日でした。しかし、そのために睡眠時間を削りすぎた結果、早々に体調を崩してしまいました。
私が道を間違えたとすれば、きっとこのあたりからでしょう。療養のために学校を休んだのを皮切りに、学校に行かなくなってしまいました。五月のことでした。肩肘張って頑張り続ける生活に疲れたのか、五月病だったのか、甘えだったのか。理由をいくら考えても結論は出ませんでした。欠席はズルズルと長引き、とうとう進級できなくなりました。
冬になり、現状に現実味が持てないまま、これからの選択を考える時が来ました。留年するか、通信制に転校するか。私は、留年してもう一度通学に挑戦することを決めました。理由はいろいろありますが、一番のきっかけは、「制服を着て、校舎で、友達と一緒に行事や高校生活を楽しんで、青春する。」笑われるかもしれませんが、それが私の大きな夢だということに気づいたからです。それを叶えられる可能性を、挑戦なしに手放したくありませんでした。
そして春、学校に復帰するための準備を終えた私は、たくさんの人に背中を押してもらい、再び一年生として学校に通い始めました。上手くできなくてもいい。頑張りすぎないように。今の私ならきっと通えると信じて。幸いなことに、留年した私のことをあからさまに奇異の目で見る人はおらず、客観的に見ると恵まれた環境で再挑戦の機会を与えられていたのだと思います。
だからこそ、再び通えなくなってしまったことが悔しくて、恨めしくて、わからなくて仕方ありません。
徐々に学校を休む日が増え、勉強もしなくなり、最後に行ったのはその年の一学期の終業式でした。「高校生になったら少し心と体の力を抜いて…」「頑張りすぎないように…」と、あれだけ思っていたのに、私の完璧主義で、加減が下手くそで、失敗や恥を恐れる質は呪いのように変わらなかった。私のことを白い目で見る人はいなかったはずなのに、全校生が集まる場所ではうまく顔を上げられなかった。人の目に触れる時は、普通にしていなきゃ、と体が勝手に強張って、気づいたらヘラヘラと笑っていた。最後のあの日、私は周りから見ると普通だったのでしょうか。普通に見えていたのなら、まだ演じていられる余裕があったということなのに、どうして行けなかったのでしょうか。
そして秋になり、通信制高校に転校しました。転校した高校は、全日制高校に併設していて、登校が月2〜4回だけで、体育祭や文化祭などはない学校でした。私の夢とは離れた部分がありますが、当時、転入可能で、学費が安めで、条件が良さそうな場所がここだけだったのです。友達が作りづらくても頑張って話しかければいい。購入自由の制服は自分の貯金で買えばいい。高校生のうちにやりたいことはできるだけやろう。勉強だって工夫してたくさん頑張れば、それなりの大学に行ける可能性は0じゃない。そうして半ば自分に言い聞かせる形で、入学を決めました。
「まだ、小さな希望はある。」そう思える瞬間が少しでもあるならいいじゃないかと思われるかもしれませんが、転校してから約半年経つ今、私は心が押し潰されそうな日々を過ごしています。消えて灯ってを繰り返す希望に気力を奪われながら、勉強を頑張ろうとしても、心の苦しさと戦っても、幸せになりたいともがいても、自暴自棄で何もできなくなっても、消えたいと呟いても、誰にも見つかりはしません。いつからか生きている感覚もないような気がします。全日制に通う高校生を見たとき。普段は見えないようにクローゼットの奥に隠している、使えなくなってしまった以前の学校の大量の教材や制服が目に入ってしまったとき。この先の見通しが立たなくて焦ったとき。何が駄目だったのか、なぜこんなことになるのかと、考えても仕方がないと親に散々言われた思考がぐるぐると脳を支配していく。
「やっぱり普通に高校に通いたかったな。でもそうできなくなったのは自分のせいだ。なんでこんなことになったんだ。高校生を楽しむために人一倍、こんなに頑張ってきたのに。なんで私だけ報われないんだ。いや、頑張りが生半可だったからこうなるんだろう。やっぱり全部甘えだったのか。でも親にも山ほど迷惑かけてるのに、これが甘えだなんて。そんなのあんまりだ。信じたくない。病名がつけば少しは楽になれるのかな。」
考えて始めてしまったら最後。気づいたら時間が経っている。何も頑張れていないのに、疲れている。気持ちが底に落ちる。もう苦しいのは嫌になって、暗い部屋でひとり、スマホに逃げる。それが私の最近の、家に一人でいるときのルーティーンです。でも二人暮らしの母の前では、大抵は笑って、普通にしていられます。以前はつらいとき、よく相談に乗ってもらっていましたが、最近は母の立てる大きい物音やため息がやけに気になります。全部私のせいな気がするんです。私のせいで疲れさせるのはもう嫌なので。
「苦しい。つらい。胸が、心が痛い。気持ち悪い。自分が気持ち悪い。」でもそう思うのと同時に、自分のつらさだけ、偽物のような気がしてくる。苦しいのに、私の体には何も現れませんから。寝れますし、ご飯も食べられます。健康な身体を与えてもらったことに感謝するべきなのに、憎たらしく思えてしまう。それに、考えれば考えるほど、時間が経てば経つほど、なぜ学校に行けなくなってしまったのか分からなくなり、当時の記憶も薄れていきます。苦しいはずなのに、その正体や実態は視えなくて、それが嫌で、何回か自分で身体に傷をつけました。服で隠れる場所に。私の心のつらさの証明が欲しかったのです。つらくて苦しくて気持ち悪いのは、血と一緒に全部、全部私の中から出ていってほしい。本気でそう思いました。
懺悔します。高く高く積み上げてきたものを蹴り崩してしまいました。差し出してくれた手を掴み続けられませんでした。チャンスも、時間も、親が出してれたお金も、ドブに捨ててしまいました。理由は分かりません。甘えかもしれません。気が狂いそうになるのに、それはどうやっても自業自得で、誰か助けてなんて言う資格は、きっと私にはありません。私のやってきたことも、私の心も全て、輪郭がぼやけてぐちゃぐちゃになっていくのが分かります。もう何もかも分かりません。ごめんなさい。
感想1
経験談の投稿ありがとうございます。私は自分のことを完璧主義で、加減が下手くそな方だと思っているので、他人事じゃない気持ちで、自分と重ねたり対比させたりしながら読みました。
読んでまず一番に思ったのは、(自分の思う)前に向かって進みたいというあなたのエネルギーがかなり大きいな・・・ということです。また、そこには自分本来の意思と、認められたい、そうじゃないといていいかわからないといった不安の、両方が混在しているようにも思いました。そして、その積極的な動機と消極的な動機両方が、頑張れ頑張れとあなたをぐいぐい引っ張っていって、心身がついていけなくなったような、そんなイメージが私には浮かんでいます。
私は学校に行くだけで精一杯というくらい学校と合わなかったので、あなたの優等生ぶりや高校での努力は超人的なものに見えたと同時に、学校というものに合わせることができるがゆえに、負担が果てしなくなっていくのかな・・・とも想像しました。
人間はいろいろな憧れや希望を抱く生き物だと私は思っていますし(憧れを全然抱かないタイプもいますが…)、失敗を恐れるのも自然な気持ちだと思います。だから憧れや恥とどう付き合うか、どう折り合いをつけていくのかが人生の一つのポイントだと私は感じるのですが、それがなかなか難しいし悩ましい、と私は自分についても思います。
この社会には、頑張るのは良いこと、普通であるのは良いこと、といったメッセージが溢れていると私は感じています。そして、その風潮が、努力を好む完璧主義な人の完璧主義をさらに後押しし、時に暴走させて、心をパンクさせてしまっているのではないか…?と私は考えています。私は自分の完璧主義に振り回され、10代20代は精神もパフォーマンスも不安定な日々を送ってきたので、完璧主義という資質とどう付き合うかは、試行錯誤の必要な、時間のかかる道のりのように感じています。今冷静に振り返ると、周りはきっと「そんなに頑張らなくてもいい」と感じていたと思うのですが、頑張れば前は結果を出せたし…という経験もあって、私は自分の調子やキャパに合わせて、目標や努力を調整することができないでいました。
自分語りをしてしまい、すみません。言いたかったのは、あなたが「甘えかも」「自業自得」と書いていた今の状態について、私は「ほどよい頑張り方を見つけている道半ば」の状態だと感じました、ということです。母の前で笑って普通にしているのも、自分が甘えなのではないかと責めるのも、まだまだ頑張りすぎているのかも…?とさえ、私は感じます。といってもこれはあくまで私の感じ方なので、本当はあなたと話し合いながら、今あなたに何が起こっているのか、どうしていきたいのか・・・一緒に整理していけたらいいのにな、と思います。そういう大人があなたの身近にいたらいいのに…と勝手ながら願いつつ、またよかったら、死にトリも使ってもらえたらと思っています。