経験談

生きづらさを感じる人が語る 経験談

経験談はそれぞれの投稿者の個人的な価値観や感じ方をそのまま掲載しています。一部、リアリティのある描写や強い価値観が含まれるため、読む人にとっては負担等を感じる場合もあります。各自の判断で閲覧してもらえるようにお願いします。

名前は手段

わたしは病気ではありません。
生きることはつらいし、簡単に死んでしまえるならぜひそうしたいけれど、どうやら病気ではないようです。

8年前。教室に入れなくなりました。
自傷行為を毎日のようにしていました。
同時に、朝起きられなくなりました。
学校に行くことすらできなくなりました。

当時中学生だったわたしには収入がありませんでした。
現状をどうにかしたくて、こころとからだ、それぞれの病院に行きたいと家族に伝えました。

お前の努力不足だろと返され、行けませんでした。

それでもどうにか(数ヶ月はかかった)病院に行くことができました。

わたしの心に、名前はつきませんでした。
わたしのつらさは、ただの体質でした。
助けてもらう手段は、手に入りませんでした。

その翌年、オーバードーズ(OD)をして保健室に登校し、病院に連れて行かれました。
「死にたくてやったのか」と聞かれました。
家族の前で。

死ぬことが目的ではありませんでしたが、別に死んでもいいと思っていました。
そう医師に伝えることはできませんでしたが。

高校に入った後も、わたしの精神状態はどうにもなりませんでした。
それどころか、周りよりできないことが多いことに気づいてしまいました。
どんどん希死念慮は強くなっていきました。
一度だけ死ぬつもりでODをしました。
死ぬことも病院に運ばれることもありませんでしたが。

俗に言うFランではありますが、ずっと目指してきた職業のために大学に入りました。
それでもなお、わたしはわたしでした。
起きられないし、まともな精神状態ではない。

ここに来て、ようやく適応障害の診断が降りました。
半年間の休学を経て復学し、今に至ります。

そして……
復学した今も朝は起きられない日の方が多く、気持ちが沈む日は薬やお酒、自傷行為に頼り、普通の人がこなしていると思いもしないことで躓き、人とも上手く話せず、夢を叶えたい自分と全てを諦めた自分との分裂に苦しみながら、毎日どうして生きているんだろうという問いを内包しながら、苦しみに名前がつかないまま生きています。

まともに生きられないのに、まともに生きる道しか残されていません。
死にたいと強く望んでいる訳ではないのに、死ぬこと以外に希望があると思えません。
助けてもらう手段がないので、どうしたら自分が助かるのかもわかりません。

それでも、わたしは病気ではないようです。

感想1

投稿読みました。自分が“病気ではない”ということを繰り返し書かれていたのが印象的で、どこか諦めも含みながらも納得のいかなさが滲んでいるように私は感じました。人は抱える辛さや生きづらさに何かしらの名前がつくと少しだけ安心するような感覚になるものかなと私は感じていて、それはそうした辛さに何かしらの理由がないことには辛いとは言ってはならないといったような社会の風潮が関係しているのかなと思います。そしてその理由や名前があることでようやく「助けて」という思いが届くことが多いですし(この社会の構造上、支援や制度の利用もそうですが線引きされているのが現実ですし…)、もしかしたら診断名を与えられない苦しみというものも確かに存在しているのに、自分の痛みや苦しみが「どこにも居場所をもてない」という感覚もあったりするのではないかなと想像していました。
「病気ではない」と言われたところで、苦しいことには変わりはないわけで、誰にも拾い上げられないこと、わたしがわたしのままでは救いがないような感覚が長く続いてきたのかなと感じ、そこに疲弊と深い絶望感のようなものを感じているように私は受け取りました。学校に行けなくなったこと、家族の理解を得られなかったこと、普通の人ができることが自分にはできなかったこと…こうした場面の一つひとつに、世界とのすれ違いや周囲との距離感を感じていることがあなたの中に積み重なっているように思いました。
この社会は、“元気なふり”をして生きのびることが求められる場面があまりに多くあります。特に、学校や家庭や職場のような「普通でいること」が前提になっている場所では、自分が本当は壊れそうだということを隠すことに、ものすごく力を使わなければならないものですよね…。でも、それをずっと続けていると、自分の感覚もどんどん鈍く(麻痺)していくものだと私は思います。それでもあなたが綴った文章には、「今の自分」をしっかり感じ取り、言葉にしようとする確かな意志を感じ取りました。朝起きられない日があっても、気持ちが沈んでも、自分を無理に良く見せようとしていないというのか…。生きるということのリアルさが、過不足なく表現されているように感じました。
もしかしたら「まともに生きる道しか残されていません」という言葉には、少し皮肉も込められているのかもと思いつつ、でもその奥にあるのは、「まともじゃない生き方があってもいいのではないか」という社会へ静かに問い直しているようにも私は捉えました。(何をもってまともというのかはもう少し意見を交わしたいところではありますが…)社会の側が「こうあるべき」を押しつけるのではなく、「こうじゃなくてもいいんじゃない?」というような広がりを、もっと許していけたらな…と改めて強く思わされました。
あなたの語りによって、「まだ名前のつかない誰かの苦しみ」が少しだけ呼吸できる場所ができたような、そんな感覚も勝手ながら覚えています。社会が人を枠に押し込めるとき、枠からはみ出した苦しみはどこにいけばいいのか…そのことを、誰か一人のものではなく、この社会に生きる私たち全員が考えていく必要があると私は感じました。長々と書いてしまいましたが(そして的外れな感想でしたらすみません…)、あなたの抱えている思いをそのままに私は受け止めたいと思ったということを伝えて、感想とさせていただきます。また死にトリが必要に感じられたらいつでも参加してほしいです。

感想2

経験談の投稿ありがとうございます。
心身の不調に苦しんでいる様子が伝わってきましたし、自分でコントロールできない自分に、もうお手上げだし疲れた…といった疲労や絶望を私は感じました。
こころの不調は、体と違って、病気を診断する絶対的な基準がない、という特徴があると私は認識しています。私は自分自身こころの病院にかかり、こころの病院に通っている友人知人も多くいますが、そこで途中で診断が変わった(または追加された)ケースもあれば、違う病院に行ったら診断名が全く変わったケースも聞いたことがあります。

自分のつらさにどんな名前がつくのか(もう少し本質的な表現をすると、どのような現象だと理解し、対処の方向性をどうするか)は、生きる上で、重要なポイントになることだと私は思っています。私は病名がついたタイプでしたが、その治療をしても一番酷い状態から抜けただけで、自分で自分のつらさにオリジナルの名前をつけられるようになるまでずっと不安定だったので、余計にそう思います。

あなたの苦しさの名前を私なりに探させてもらうなら、これはどんなこころの不調も共通なのですが、それは自分のキャパを超えたストレスがかかって起きている現象であり、つまり要因はその人と環境との相性が合っていない、という話だと私は捉えています。とはいえ相性が合わないにしても、人にも環境にも工夫の余地はあるので、配慮があったり、自己理解が深まって回復やストレス回避が上手になれば、なんとかうまくやっていける可能性もあります。
ただ、今の社会はそういう工夫でどうにかなるレベルを超えて、生き方や仕組みや風潮が、誰にとっても優しくないものになっていると私は感じます。人はそれぞれ感性も能力の凸凹もあるのに、「普通」という型枠に押し込めようとして、それにはまらない人に低い評価をするのも、勿論大問題。そして、型枠にはまることのできた「普通」とよばれる人も、自由や意思や余裕を奪われているように私には見えます。

ちょっと話を広げすぎてしまいました。あなたの話に戻ると、学校という環境にある何かと相性が悪かったのかな…?とは感じています。でもそこで何が問題だったかというと、周りが配慮したり理解しようとする姿勢がなく、あなた側だけが努力を求められた点だと私は思いました。
人と環境のマッチングを改善していくには、自分の感じていることを聞いてくれる相手や、安心できる場があるのが必要だと私は思っています。それがないまま、こころのバランスを取り戻すのは、神業というくらいに難しいのでは…?くらいに思います。こころの不調に病名がついて、薬を飲んだり休めば社会生活にぎりぎり戻れるくらいにはなっても、綱渡りのような日々が続いてしまう・・・というのか。あなたも今そういった状態にあるイメージが私には浮かんでいます。

そうすると、じゃあそういった相手や場がどうしたら見つかるか?という話になるかと思うのですが、その数が足りていないから、これだけ苦しんでいる人が多い世の中になっているのですよね……と私は感じてうなだれてしまいます。
ただ、多くはないながらも、病気という名前があるかないかにかかわらず、苦しさに寄り添って一緒に考えてくれる人もいるのは確かです。どこで出会えるとも言えないのがもどかしいですが、せめて死にトリは、あなたの語りを受け取る存在としてあり続けたいと思っています。

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