あたしは親の教育や家庭環境の影響もあり、マナーやモラル、相手への気遣いに対してかなり厳しくなってしまった。
その結果基本温厚であったはずが、少しでも道理の通らない人や対面した人間の気持ちを考えない自分の利益最優先の人がいるとイライラしたり気になってしまって、無駄なことに脳を消費しているのに疲れた。
もちろんそれを人にぶつけることはポリシーに反するので自分で自分を殴りつけて言い聞かせる「あたしは悪くないだから何も言わないで穏便に何事もなく事なかれ主義の世の中の餌食であれ」と。
こんな感じなのでもちろん接客業は向いてないと思う。だけれど今の場所が1番一緒に働いている人の雰囲気が良いしお給料もこの地域にしたらかなり高い方。
休養して戻ったけどやめなくてよかった。
それでも根本のあたしは変わってないわけで。
ニュースでどこかの国の誰かがインタビューでヘイトや憎しみを向けるのでは無くて、愛や慈しみを語る人がトップに立って欲しいと話していた。
めちゃくちゃ普通のインタビューなのだけれどあたしは引っかかってしまった。
誰かがヘイトや憎しみだと思う発言や思想もきっとその発信した人自身からしたら愛のメッセージなのだろうと、愛も憎しみも誰もが同じ方向には向いていないから戦争は起きるしルールがある。
それが全く理解できない人間がいると大きく拒絶反応を示してしまう。それが仕事で会う人でも。
場を乱す奴は心底軽蔑してしまうがそこで個人的感情のみで排除してしまったらこれこそあたしの嫌いな人間に、ミイラがミイラ取りになる瞬間である。
そのため常に静を保つために必死なのである。少しでも考える隙間ができてしまうとあたしの脳はその場の秩序を保たれるために、皆がもっと他人への想像力があれば良いのにとイライラしてしまうから、本当に本当にこの瞬間がたまらなく嫌いで16歳で死ぬべきだったとまた戻れない過去に思い悩む。
どうしたらもっと世の中に他人に寛容に生きていけるだろうか、否、死にたい。
この考え方はあたしの美徳だがあたしという人間はどんどんすり減るばかりで、柔軟さがないために死にたいと思うのは当然だろう。
経験談はそれぞれの投稿者の個人的な価値観や感じ方をそのまま掲載しています。一部、リアリティのある描写や強い価値観が含まれるため、読む人にとっては負担等を感じる場合もあります。各自の判断で閲覧してもらえるようにお願いします。
モラルにルールに戦争に。
感想2
投稿読みました。徹底した自律性と、他者への深い気遣いの裏側にある、強い疲労と孤独感がひしひしと伝わってきました。社会的な規範やモラルを重んじて生きることは、現代の曖昧で寛容な空気の中ではむしろ“厳しすぎる”と映ってしまうこともあるのかなと思います。けれど、“ちゃんと生きる”ということをどこまでも大切にしてきたからこそ、それを蔑ろにするような言動に心が強く反応してしまうのだと私は感じました。
「自分で自分を殴りつけて言い聞かせる」という表現には、感情を抑え込んでまで秩序を守ろうとする切実さがあって、そこには、表面の怒りや苛立ちではなく、深いところで「秩序を保つことでしか生きていけない」というような悲しみも込められているように私には映りました。他者を思いやるというのか、この世界の歪みを少しでも良くしたい(とまであなたが思っているかは分からないのですが…)がゆえに、自分自身をすり減らしてしまうのは自分の中の信念を揺るがさぬよう、ある種の戦いでもあるのではないかと感じます。
今の世の中は“自分を優先すること”が良しとされがち(もちろん時としてそれが大切な場合もありますが)、気遣いや慎み深さのようなものはあまり尊重されないというのか重視されることなく片付けられてしまうことも少なくはなく、そこを重んじている側としてはなおさら苦しくなるものだよなとあなたの抱く感覚に自分とも重なる部分があって思うことです。
他者の振る舞いや言葉に傷つき、引っかかってしまうのは、きっと「こうだったらもっと社会(世界)はやさしくなれるのに」と願っているからなのかなと想像していました。(違っていたらすみません)そうしたやさしさを願う人ほど、それが踏みにじられるような場面に遭遇すると弱くなってしまったり、あるいは怒りが強く湧いてきてしまったりするのは、私の身近にもあなたと全く同じというわけではないですが似たようなことでエネルギーを消耗している人がいるので、その気持ちは安易に言えることではないですが理解できるなと感じます。誰もが自分の正しさを信じていて、そのぶつかり合いが時に争いや誤解を生む…そこに少しでも“想像する力”があれば…という願いが、この文章の至るところに滲んでいるように私は感じました。(そしてその願いに私もすごく賛同したい気持ちです)
「ミイラ取りがミイラになる」と自覚されているところも、あなたの理性的な部分と誠実さの証だとも感じましたが、一方でその自己認識の高さが、逆に自分を許す余地を奪ってしまっているようにも見えました。他人に寛容でありたいという願いと、その願いが叶わぬ現実に苛立つ自分を許せないこと、その二重のしんどさの中で、ただ「静」を保つためだけに生きていくのは、あまりにも酷なことなのではないかと考えてしまいました。(じゃあどうすればいいのだろうとぐるぐるしてしまいますが…)
あなたの文章を読んで、モラルや規律を軽んじる言動がまかり通る現代社会の側にこそ、本当はもっと問い直されるべき問題があるのではないかと改めて思わされます。「あたしの美徳」として語られたその考え方は、あなたという存在の核でもあり、同時に、社会からの理解を得にくいゆえに孤立させるものでもあるでしょうし、矛盾の中で、どうしても「死にたい」という思考にまで追いつめられてしまうのは、自然な流れでもあるのだと思います。
世の中をやさしくしたいと思う人が、自分にやさしくするのはとても難しいことだと感じます。でも、その難しさを知っている人がいるからこそ、世界のバランスが保たれている部分があると私は思っています。あなたは、柔軟じゃないのではなくて、きっと「ゆるす」と「見逃す」の違いをきちんと分かっているからこそ、苦しんでいるところもあるのではないかと感じました。
すり減るような毎日だとは思いますが、ほんの少しでも、あなたがあなた自身に向けるまなざしが、やわらかくなれたらな…と勝手ながら思ってしまっている自分がいます。また必要に感じられたら死にトリを訪れてください。経験談の投稿ありがとうございました。
お返事
いつも苦しくてどうしようもなくなった時、利用させていただいています。
結構面倒くさい事を連ねた文をこんなにしっかりと受け止めてお返事いただけることに安心感を覚えました。
ここで少しだけ自分は我儘になれた気がしました。
感想1
イライラする自分を抱えつつも、自分のイライラの成り立ちや客観性に思いを巡らせる、俯瞰のスタンスが印象的でした。始めに「親の教育や家庭環境の影響もあり」と書かれていましたが、家庭で身につけたのは教育の内容だけでなく、自分の感情で行動せずまず正しさや客観性を考える習慣なのかな、と私は感じました。
私は自分に道理と合理性、感情と行動の統制を強く求めるタイプなので、それは世間的にいえばマナーやモラルのしっかりしているということになるとは思っています。ただ、「お互いに想像力をもつ」というのは普遍的に大切なことと思いつつも、それは一定程度安定した心身がないとやれないことだし、マナーやモラルというのは時に過剰なものだし、もっとゆるく生きられたほうがいろいろと楽だし本当は正しいのかもなあ、みたいな感覚も抱いています。寛容さにもずっと憧れを抱いていますが、寛容さというのはおそらく自分への甘さに支えられて成り立つ美徳なのだとか、たくさんわがまま言って満たされた上でやっと身につく悟りなのだとか、そういう仮説を立てて今の自分については諦めています。その仮説の正しさは置いておいても、寛容になるにはちょっと自分の心はジリ貧すぎるよ…という感覚はわりと確かなものだと感じています。
愛や慈しみを語る人がトップに立ってほしい、ヘイトや憎しみも本人にとっては愛のメッセージなのではないか・・・。なんというか、愛や憎しみの定義もきっと様々だし、どういう立場で話しているのかもそれぞれ違うから、あなたの感じていることも正しいのだろうし、インタビューで話してた人も違うベクトルでの正しさを求めての発言なのかもな、と想像しました。(例えば、身近なヘイトのある権力者にうんざりしていて、政治的な正義が切実にほしくての発言で、哲学や道徳としては突き詰めてないのかなあとか)
私自身は、誰かに向けないようにはしていますが、憎しみの強い人間だと思っています。それが愛かはよくわからないですが、傷ついてきた分、自分の思いが届かなかった分、悲しみが憎しみになってしまったのだと思っていますし、寛容にもなれないのだと感じています。その自分の不寛容さを考えたとき、あなたのマナーやモラルへの厳しい眼差しも、もしかしたら例えば「子どもらしく自分勝手できる時期がほしかった」みたいな、何かの悲しみから来ているのかも・・・?という仮説が、ちょっと私に浮かんでいます。(全然違うかもですが)
いろいろ考えを書きすぎてしまってすみません。私自身の経験や思いが混ざって、前のめりになってしまいました。
経験談の投稿ありがとうございました。