経験談

生きづらさを感じる人が語る 経験談

経験談はそれぞれの投稿者の個人的な価値観や感じ方をそのまま掲載しています。一部、リアリティのある描写や強い価値観が含まれるため、読む人にとっては負担等を感じる場合もあります。各自の判断で閲覧してもらえるようにお願いします。

死にたい

物心ついた時から周りとうまくやれなかった。
幼稚園の時も気づけば一人だったし、小学生になってもからかわれたり、小さなことですぐ傷ついたり。
初めて自殺未遂をしたのは小学三年生だったか。クラスでからかわれて辛くて彫刻刀で指を切った。血が出て痛かった。
中学生の時はいじめられたり、ハブられたり、いきなり首を絞められたことがあった。苦しかった。
人のことが信じられなくなって友達も作れず、孤独だった。ずっと死にたかった。
高校生の時も大学生の時も一人だった。いつも死にたかった。
正しいことをしていればいつか報われると信じて生き続けた。でもそれは先生の嘘だったね。
結局、嘘をついても信じてもらえる人が正義だった。いつでも。
そこから目をそらし続けていただけだった。
親は狂ったように信仰ばかり。
もういいよね、

感想1

経験談の投稿ありがとうございます。幼い頃から、人との関わりで傷つくことが多く、年数を重ねてもそのことがあなたに深く影を落としていることが伝わってきました。集団の中にいても一人きりで、何気ない言葉や視線が鋭利な刃物として突き刺さるような…そうした毎日の積み重ねがあなたの心をすり減らしていったのだと想像しています。
小学校三年生で、すでに“生きること”そのものが脅かされていたということに、勝手ながら胸の詰まる思いになってしまいました。直接的には書かれていませんが、そういった行動を取ったのはきっと「これ以上は無理」という心の叫びであったと思いますし、その当時に周りにいた大人たちはどれだけ気づけていたのか、気づけなかったのだとしたら私が思ったところでどうしようもないことかもしれませんが、大人を代表して申し訳ない気持ちになっています。その後も続くいじめや排除、そして信じていた“正しさ”が通じなかった現実…、「正しいことをしていれば報われる」という教えが、結果的に希望ではなく絶望に変わってしまう構造には、教育や社会の在り方にも責任の一端があるように私は感じています。嘘が通る社会、声の大きい人が“正義”になる現実など、どこまで、そしていつまで許容されてしまう(と、私は感じています)のかと考えてしまいます。ちょっとだけ触れられていた家族の宗教的な偏りについても、それが心の拠り所になる場合もあれば、対話や理解を阻む壁になることもあると思います。きっとその家族の信仰によって、あなたの抱えているものが見過ごされてきた、あるいは最初から見ようともしてくれなかったこともあったのではないかなと想像し、「死にたい」と思うのも無理もないことだと私は思ってしまいました。そしてその苦しみはおそらく、誰にもどこにも責めようのないもので、埋もれてしまった苦しみの一つだったのではないかとも感じました。(全然違っていたらすみません)
「もういいよね」と最後に綴られた言葉には、ある種諦めの気持ちが滲んでいるように感じられました。あなたの思いはそのまま静かに受け止めたいなとは思いつつ、この言葉が、終わりを意味するものでなく、どこかに続く余白を含んでいることを、心のどこかで願わずにはいられませんでした。あなたが歩んできた日々は、決して軽くはなかったと思います。あなたの文章を読んで社会が見過ごしてきたもの、気づかなかった声に、こうして触れることの意味を改めて考えさせられました。こうして抱えているものを言葉にすることがあなたにとって少しでも意味のあるものならば、また死にトリに声を届けてほしいです。

感想2

投稿ありがとうございます。
小学校3年生の時初めて自殺未遂をされたようで、その文面から、投稿者さんにとって自殺未遂はありふれた行動であり、死にたい気持ちは幼い頃から身近にあるものなんだということが伝わってきたような気がします。中学校ではいじめや暴力の被害に遭い、高校・大学では孤独な思いをされたようで、投稿者さんと死にたい気持ちとの距離は、日を追うごとに狭まっていったのかなと想像しています。
印象的なのが、投稿者さんが感じてきた心身の痛みの幅が広いことです。あなたが感じてきた痛みは、同じ痛みではあってもそれぞれ少しずつ異なる痛みであり、異なる痛みがどんどん蓄積されていったような状況を私は思い描きました。どの痛みもあなたに深く刻まれ、癒える間もなく次の痛みが来てしまう、そんな想像を巡らせました。
そういう痛みを背負いながらもあなたが生き続けているのは、先生の言葉を信じていたから、というふうに読み取っています。それがどんな言葉なのかはわかりませんが、あなたにとっては人生を歩む道しるべや杖のような役割を担う、とても重要な言葉だったのだと思います。そしてその言葉が覆されるような出来事があった、ということも読み取れました。。もしそうだとするなら、そのショックは多大なるものだったであろうことは、想像に難くありません。そのため、あなたにどんな言葉をかければいいか迷う自分、もっと言うのなら、言葉をかけるということ自体があなたを傷つける危険性を感じる自分がいて、私自身揺れているというのが、正直な感想です。
それでも伝えたいのは、投稿者さんはあることから目をそらし続けていたことを書かれていますが、それは誰かに非難されるような行動ではないと私は思ったことです(私自身、苦しいことは放棄したり、先延ばしにすることがあります)。それに、投稿者さんはむしろ、物事を実直に捉えているようにも私は感じます。今まで目をそらしていたと感じること、そして、これから先目をそらしたいと感じたことがもし出てきたら、また教えてもらえたらいいなと個人的に思いました。改めて、投稿ありがとうございました。

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