経験談

生きづらさを感じる人が語る 経験談

経験談はそれぞれの投稿者の個人的な価値観や感じ方をそのまま掲載しています。一部、リアリティのある描写や強い価値観が含まれるため、読む人にとっては負担等を感じる場合もあります。各自の判断で閲覧してもらえるようにお願いします。

本当の自分とは?

幼い頃から、わたしは自分が何を望まれているのか察して動くことが得意でした。
ロールモデルを見つけるのも多分上手な方で、頭の良い子ども、思いやりのある友達、頼りになる姉、お人好しで純粋な女の子とかアニメや周囲の人、本の中からお手本を見つけては真似をして、物心がついた頃には色々な役割を演じ分けて生きてきました。そうしていくうちに、周りから愛されているような気になって、周りの期待を裏切らないように観察と演技を繰り返し、思春期には素晴らしい人格を演じている自分自身を本当の自分だと思い込むようになりました。実際、わたしが困った時に周りは助けてくれましたし、わたしも人格を育てることにやりがいを持っていました。

大人になって、大学で社会福祉や精神医学を学んでいくうちに、自分が虐待により複雑性PTSDを患っていることに気が付きました。わたしは病気と向き合って、ちゃんと治そうと治療を始めました。しかし、治療は精神的にも金銭的にも負担が大きく、心は荒んでいました。弱音を零すことも多く、落ち込みの感情を発露させることを抑えきれない日もありました。トラウマ治療の中で、こんな自分も自分の一部だと認め始めていたところで、「わたしも人間だし仕方ないか」と思って休み休み生活をしていました。そんな中、母が弱ったわたしを見て言いました。

「そんな風だとみんなから嫌われるからね」

そこで、母は母が思う完璧なわたししか今まで見ていなかったことに気が付きました。

身体は弱いけれど、前向きに治療に取り組むわたし。殴られても暴言を吐かれても「わたしが大人にならないとね」と父親を許すわたし。周りの大人たちの話をよく聞いて手助けをするわたし。

こんなふうに母を騙し続けた自分が悪いのですが、本当の自分では母にすら愛されないことを知り、凄まじい虚無感に襲われました。
そして同時に、本当の自分が分からなくなり、知ることが怖くなりました。
もう演じることに疲れました。医師にも「頑張ることを抑えましょう」と言われています。本当の自分で、普通に生きていきたいです。
けれども、果たして本当の自分で生きていく方が本当に楽なのでしょうか?本当の自分が出てきた時、社会に放たれるのは愛されるわけがない化け物なんじゃないかと思うと怖いです。
乱筆乱文、失礼いたしました。誰か似たような境遇の人がこれを読んで「自分だけじゃないんだな」と思えることを祈っています。

感想1

「人格を育てる」という言葉に惹かれて、感想を書かせていただいています。
文章の雰囲気から察するに、前向きなニュアンスで用いられた言葉ではないのかもしれませんが(本当の自分ではないものを作る感覚として書かれているのかなと)、私にとっては「本当の自分を見つける過程」にとても近い行為のように感じられています。自らロールモデルを発見・吸収して、使い分けて、合わないものは手放していく。その繰り返しの中で「これはなんだか違和感がある」や「これは無理をしてやっている」であったり、逆に「理由はないけどこれをしているときは楽しい」みたいな形で、相対的に獲得していくのが「自分」なのかなと私は思っていて、生まれながらの「素」「本当の自分」って存在するんだろうか…とよく考えたりします。
そういった意味でいうと、投稿者さんが書いてくださっていた「本当の自分」という視点は、「こういうのが本当の自分です」と言えることというより、「どんな自分であっても自分は自分だ」という感覚のことを指しているのかな、とも想像しました。

一方で、「弱った自分」も「自分」として受け入れようとしていたところに対する母親さんの言葉は、自分という存在の普遍性を一刀両断するような、人としての振る舞いにまるで正解があるかのような言い方に感じられました。主語が大きい漠然とした否定でありながら、同時に投稿者さんが獲得してきた、育ててきた「個」としての気づきを一掃するくらいの威力があるというか…。
投稿者さんは「母をだまし続けた」と表現していましたが、自分を家庭や周囲の環境に対して自分を調整してことが、幼少期の投稿者さんにとっての生存術だったのではないかと私は感じましたし、「調整した自分でないと人と繋がれない(愛されない)のではないか」という不安と恐怖を抱える元となっているようにイメージしました。

「疲れた」というと「休みましょう」「頑張らなくていいですよ」と言われますが、それほど疲れるまで頑張らないといけなかった過去の積み重ねがあり、だからこそそれを簡単に辞めることは決して簡単ではないと思います。せめて死にトリという場はいつでも、「もうやめたい」と言える場であったらいいなと思います。

感想2

投稿ありがとうございます。
「本当の自分とは?」と彷徨い続けてきた(今もそう)私自身のことを思い返しながら、じっくりと読ませていただきました。私も「周りの期待を裏切らないように」と生きてきたなぁと思いつつ、「複雑性PTSD」と診断されるほどの傷を負う「虐待」環境の中であなたが生き延びてきたことに、心からの労いの言葉をかけたい気持ちです。

母の言葉を読んだとき、私は時が止まるような感覚に陥りました。勝手なイメージですが、母の言葉があなたの心、あるいは脳内で静かに、でも何度も何度も繰り返し鳴り響いているようなイメージが浮かんできたのです(全然違ったらすみません)。
その言葉を耳にし「母は母が思う完璧なわたししか今まで見ていなかった」と気づいたことは、大きなショックをもたらしたのではないかと想像します。「完璧なわたし(あなた)“しか”」見ていなかったことは、あなたが必死に生きてきたこと、その苦労や願いを母が“見てこなかった”ということだと思い、それが「本当の自分とは?」といった苦しみのもとになっているのではないかと私は感じます。「母を騙し続けた」と表現されていますが、あなたは母を(少なくとも騙したくて)騙してきたわけでは決してないと思います。また、こどもの頃に家族から暴力・暴言を受けると「自分が悪い子だから(殴られるんだ)」「自分がいい子になれば愛されるんだ」などと思わされ続けると聞くので、あなたが今も「自分が悪い」と考えることは自然なことのように私には思えました。「本当の自分では愛されない」と感じることも、そうした経験からきているのではないかと私には思えます。あなたがそう思うことはそのまま受け止めたいと思いますが、そう“思わされている”のであり、あなたに責任はない、あなたは何も悪くないと声を大にして言いたいです。

「真似るは学ぶ」とよく聞きますが、これまであなたはずっと学び続けてきたのだと感じます。学ぶ力・「観察と演技」をする力があなたにはあり、「自分の一部だと認め」ることも治療などにつながることなどもあなたの力なのだろうと私は感じました。その力をフル活用してきた姿が浮かぶため、「頑張ることを抑えましょう」というよりも「十分にがんばってきた(いる)ことを認めてあげてもいいのでは」と、リスペクトの気持ちを込めて私はお伝えしたくなりました。

最後にあなたは「母に“すら”愛されない」と書いていますが、私はこの家父長制社会では、母の愛、母と娘(「女の子」とあったため「娘」と書かせてもらいましたが、違ったり違和感がありましたら申し訳ありません)との関係は、実はかなり難しいものでは…と考えています。そのため、母に愛されない=誰にも愛されないとはならないと私は感じると共有させていただいて、感想としたいと思います。「本当の自分」が何かは私にはわかりかねますが(今のところ私は何人も本当の自分がいると感じていました)月並みな言葉を使わせてもらえば、あなたはあなたでいいのだと私は思います。またよければ書きに来てください。

お返事

これを書いた時、自分はどん底にいて「本当の自分」「みんなから嫌われる」というキーワードがずっと頭の中で響き続けるような日々で誰かに聞いて欲しい、知って欲しいという気持ちで死にトリにたどり着きました。
今は新しい病院に通い始め、投薬で落ち着いているので冷静に自分の思考を振り返ると「どん底にいる自分も今元気な自分も自分自身で、わたし自身が色々な自分を認めることができたら良い」と思えています。きっとこれからもこの気持ちと「実母にすら愛されないのに……」と言う気持ちは振り子のように日々揺れ続けるのだと思います。
ですが、あのどん底にいた自分にこんなにも寄り添ってくれる人がいたという事実はきっとお守りになると思います。またどん底側に揺れた時、この感想を見返して強く地面を踏み締めて歩きたいです。
本当にありがとうございました。

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