経験談はそれぞれの投稿者の個人的な価値観や感じ方をそのまま掲載しています。一部、リアリティのある描写や強い価値観が含まれるため、読む人にとっては負担等を感じる場合もあります。各自の判断で閲覧してもらえるようにお願いします。
凡人にも生きられないし変人奇人でもない
子供の頃はよく自分は変人扱いされていた
その事についてはあまり嬉しくなくて、自分でも頑張って周りに合わせようと生きた
それでも治らずに若干浮いていたとは思うが、
ある時全く怒られもしない、目立つこともない生徒の1人を見つけて真似をした
すると自分は憧れた理想になっていた
でもこれは結局は猿真似で変人のレッテルからは最後まで逃げることは出来なかった
それどころか、真似のしすぎで喋り方もよく分からなくなっていた
この時に自分が消えてしまった気がする
他人を参考にして、生きようとして自分が好きなものや特徴は消えた気がする
その後も人の真似や顔色を見ることが辞められず、どんどん参考にして言った結果ちょっとズレた何も出来ない奴が生まれてしまった
頭が悪いからズレてる部分は変えられず、かと言って普通の人みたいに生きる事も出来ない
無能でクズで怠惰で気持ち悪い生き物になってしまった
人並みには何も出来ない、変人みたいに突出したものもない
自分は変人でいいから何者かになるか、凡人でいいから普通の人生になりたかった
でも今の自分にはどちらもない
そして今後叶う見込みもハッキリ言えばない
人生を甘えてるし、舐めてるとも思う
でもここまで何も出来ない欠陥品は消えてしまうのが1番の社会貢献なんだと思っている
感想1
タイトルに思わず惹かれて読ませて頂きました。
私自身も「変わっているね、変人だね」と今まで(なんなら今も)幾度となく言われてきて、自分では「変わっていることはどこか特別感があっていい」と認めながらも、心のどこかではそれを肯定しきれずに凡人を目指してしまい、結果「どちらにも突き抜けきれない何者でもない存在」として日々を生きているので、そういったこともあってあなたの表現に自身をオーバーラップさせていました。
本来、人それぞれ違いがあって当然とされる中で、その人自身がどう足りえるかや在りたいかに正解などあろうはずもないのに、皆一様に“何となくの当たり前や普通”を求めて、自分自身を形作らされていく風潮や社会から無言で押し付けられてくるプレッシャーがあるように(自身のその時々の成長の過程を振り返っても)私には思えます。そしてそれらは“個”としての存在からいつしか“集合としての総意”のようになり、違う・馴染めない価値観を持っている側からすれば、踏み込んでいけない、もしくは排斥されているような感覚を強いられるものになってしまう気がします。
ですが、そもそもが70億人以上いる人間の中で一人として同じ人がいない前提で言えば、「(誰しもが)全員が自分とは違う感覚を持っている変人」となるのに、学校や何かしらの組織など少しばかりの集団において「変人」だとされて個人の評価とされるのはあまりにもナンセンスな気がして私にはなりません。
「自分は変人でいいから何者かになるか、凡人でいいから普通の人生になりたかった」という言葉が今までの、今の私にとても刺さったのですが、「変人でも凡人でもない何者でもない自分」を“無色透明な無脊椎動物”として形を得ようと抗う過程で、「これだけやってもどうにもならないということは、何色を混ぜても混ざらない(あるいは元から全ての色を内包してるともいえる)黒色人間と言えるのかな」と思える瞬間が私にはありました。それは確固たる自我があるとも言えますし、「変人になりきれない変人」として自分を変化させる必要もない気もします(突然、意味不明なことを熱く語りだしてすみません。。。)。
私も未だハッキリとした答えを出せないまま彷徨い歩いている存在ですが、あなたにも「何となくでも」あなたなりの答えが見つかってほしいなと思いました。
投稿ありがとうございました。
感想2
人の真似をして、自分の好きなものや自分の特徴がわからなくなる「自分が消える感覚」、なんだか切ない思いで読ませていただきました。
人の真似をして自分の理想に近づく力があることも、そしてどうにも変えられない「変人」さがあることは、どちらをとってもあなたでしかないのだけれど、ずっと「今の自分」を否定し続けてきたんだなと感じます。
個人的には、自分を努力で少しでも変えられる力があることも、どうしても変えられない部分を持っているというのも羨ましいことだなと思ったりするのですが、これも私のないものねだりでしょうか。
自分は変わりたいのに、周りの目がそうさせてくれない、ということもよく起こると思います。もし、あなたのとりまく環境が違っていたら、どんなあなたで生きただろうかとのぞいて見たい気持ちです。
もしかしたら、自分を否定することがあなたにとって当たり前になってしまっているのかもしれないなとも思います。その当たり前は、とてつもなく苦しいことだと思います。
周りの目に縛られず、あなたが生きやすい場所はどんなところなのか、一緒に考えてみたいなと思いました。
感想1
タイトルに思わず惹かれて読ませて頂きました。
私自身も「変わっているね、変人だね」と今まで(なんなら今も)幾度となく言われてきて、自分では「変わっていることはどこか特別感があっていい」と認めながらも、心のどこかではそれを肯定しきれずに凡人を目指してしまい、結果「どちらにも突き抜けきれない何者でもない存在」として日々を生きているので、そういったこともあってあなたの表現に自身をオーバーラップさせていました。
本来、人それぞれ違いがあって当然とされる中で、その人自身がどう足りえるかや在りたいかに正解などあろうはずもないのに、皆一様に“何となくの当たり前や普通”を求めて、自分自身を形作らされていく風潮や社会から無言で押し付けられてくるプレッシャーがあるように(自身のその時々の成長の過程を振り返っても)私には思えます。そしてそれらは“個”としての存在からいつしか“集合としての総意”のようになり、違う・馴染めない価値観を持っている側からすれば、踏み込んでいけない、もしくは排斥されているような感覚を強いられるものになってしまう気がします。
ですが、そもそもが70億人以上いる人間の中で一人として同じ人がいない前提で言えば、「(誰しもが)全員が自分とは違う感覚を持っている変人」となるのに、学校や何かしらの組織など少しばかりの集団において「変人」だとされて個人の評価とされるのはあまりにもナンセンスな気がして私にはなりません。
「自分は変人でいいから何者かになるか、凡人でいいから普通の人生になりたかった」という言葉が今までの、今の私にとても刺さったのですが、「変人でも凡人でもない何者でもない自分」を“無色透明な無脊椎動物”として形を得ようと抗う過程で、「これだけやってもどうにもならないということは、何色を混ぜても混ざらない(あるいは元から全ての色を内包してるともいえる)黒色人間と言えるのかな」と思える瞬間が私にはありました。それは確固たる自我があるとも言えますし、「変人になりきれない変人」として自分を変化させる必要もない気もします(突然、意味不明なことを熱く語りだしてすみません。。。)。
私も未だハッキリとした答えを出せないまま彷徨い歩いている存在ですが、あなたにも「何となくでも」あなたなりの答えが見つかってほしいなと思いました。
投稿ありがとうございました。