経験談はそれぞれの投稿者の個人的な価値観や感じ方をそのまま掲載しています。一部、リアリティのある描写や強い価値観が含まれるため、読む人にとっては負担等を感じる場合もあります。各自の判断で閲覧してもらえるようにお願いします。
自分の感情の出どころがわからない
心から死にたいわけではないけど、生きたくないと思ってしまう。
日々生活していてもちろん楽しいこともあって、どうでもいいことで笑ったり人と話したりもする。好きなこともある。家族や親戚に愛されて育ってきたという自負もあるし、少ないけれど友達もいて、恋人やアルバイト先の知り合いもいる。でもふとした時に何もかも嫌になって部屋の隅や風呂場で動けなくなる。なんにもしたくなくて、できなくて、しばらくじっとしている。これもずっと続くわけではなくて、気づいたらいつも通りの自分に戻って1人で楽しく生活している。
落ちるならとことん落ちてしまえばいっそ楽なのではないかと思うけれど、どれだけ動けなくてしんどい気持ちになってもいつのまにか何事もなかったかのように戻る自分が奇妙に思える。ほとんどは楽しく生きている。でもたまに何もかもが嫌になる。ぽんと消えてしまえたら楽なのに、そんな考えに苛まれる。
生きるのが嫌だとか、ネガティブ思考とか、自分に自信がないとか、調べると幼い頃の家庭環境の影響などが理由としてよく挙げられている。その点私は恵まれている方なのではないかと思う。
両親は優しいし、今も昔も私のことを愛してくれていると思う。弟もいるけれど、特別比較されたり、「お姉ちゃんだから」と制限されたりしたこともない。たくさんいる親戚にも可愛がられてきた。なのにどうして私はこんなふうに考えてしまうんだろう。この気持ちの原因はどこから来ているのか、ずっと考えているのにわからない。理由が明確にわかれば納得もできるのに、それができないのが余計に辛い。
こんなふうに気分が落ちている時は、生きたくないとか消えたいとかと同じように、風邪を引きたいと思ってしまう自分がいる。きっと心配されたい、気にかけてもらいたいという感情の延長線上なのだと思う。
幼い頃から今まで、人並みに病気もしたし風邪も引いた。でも最後に熱を出したのは中学生の頃で、それから熱が出て寝込むほどの体調不良になったことはない。
いつからか、体調不良で休めるのが羨ましいと思うようになった。周りの友達は定期的に風邪を引く人が多い。熱が出たと聞くと、心配と早く良くなって欲しいという思いと一緒に羨ましいという気持ちが出てきてしまう。どれも本心なのだ。でもそんな自分が嫌で、とても悪い人間のように感じる。人の不幸を羨ましがるなんて、不謹慎で失礼な奴だと。
でも、私はどれだけ気持ちがしんどくても、行きたくないと思っても、身体が元気だから行けてしまう。別に休みたければ休めばいいことはわかっているし、親もそう言ってくれていたけれど、でも身体は変わらず元気だから。
合法的に休めるのが羨ましかった。そのくせやらないといけないことは溜めてばっかりで、ゴロゴロして何もしていない自分もいて、自分だって休んでいるのには変わりないのに、客観的に休める理由があるのが羨ましくて仕方ない。
つい最近付き合っている相手が熱を出して、一番に「いいな」と思ってしまった自分が怖かった。実際お見舞いに行けばしんどそうで、自分がなったってしんどかったりアルバイトの調整をしたりいいことなど何もないのはわかっているけれど。それでも熱で伏せっている相手を見て、私はできないのになあと思ってしまった。
私のこの気持ちはどこから来ているのだろう。この気持ちがなくなればもっと生きやすくなるのだろうか。それとも一生ついてくるものなのだろうか。普段は機嫌良く生きているくせに、たまにどうしようもなく生きたくなくなったり、行き場のないドロドロとした気持ちを抱えるのが辛い。それならいっそ、生きるのをやめてしまえばこんなことも考えなくて済むのに。
そう思うけれど、きっと明日には何事もなかったかのようにケロッとしている自分がいる。そして何週間か経つとまたグルグル考える。いつまでも繰り返されるこのループをどうにかしたい。
感想1
投稿ありがとうございます。
「あぁ…なんだか感覚的にわかるかもしれない」と思わず口にしながら読んでいました。「心から死にたいわけではないけど、生きたくないと思ってしまう」こと、でも「気づいたらいつも通りの自分に戻って1人で楽しく生活している」こと。私もそれを行き来していて、そんな自分のことを時折「奇妙に」思います。こうした感覚を私は誰かと共有してこなかった(できなかった)ので、あなたが書きに来てくれたことに勝手ながら感謝の気持ちを抱いたのと、どういうことなんでしょうね…とざっくばらんに話してみたい気持ちになりました。とはいえここでそれは難しいので、私が考えたことを感想として書かせていただきます。
あなたが「生きていたくないと思ってしまう」ことの明確な「理由」・正体を探していることが文章全体から伝わってきました。日々この気持ちに陥り「動けなくな」っては「納得」できる答えを求めているのだろうと想像します。考えを巡らせ、「きっと心配されたい、気にかけてもらいたいという感情の延長線上なのだと思う」といった分析をされていることには興味深くも思いました。そこまで分析しているのは、それだけあなたが苦しんでいるということだろうとも想像しています。私はどうだろう…と考えてみると、私も「感情の出どころ」のようなものを考えることはありつつ、最近はそもそもそう思っても別にいいや…となっていることに気づきました。「生きていたくない」気持ちをなくすのではなく、その気持ちを背負ったまま(感覚的には引きずったまま)生きていてもいいかと思うようになったといった、そんなイメージです。これは言ってしまえば考えることや何かを変えることを諦めただけなので、いいか悪いかは私にはわからないのですが、人も社会(世界)もどうしようもなく不完全であるのかもしれないと私は思っているので、「生きていたくない」気持ちがあること自体は悪くないのかなと感じたりしています。それで言うと、あなたは「悪い人間のように感じる」ことがあるようですが、その感覚があっても別にいいのではないかなと思い、同時に、完全に「良い人」も「悪い人」もいるわけではないと思った(誰もが不完全なので)とお伝えしたくなりました。
また、私は体が弱いため、あなたの「体調不良になったことはない」話を正直羨ましく思ってしまいました。おそらく私は痛みにも敏感な方なので、よく体調を崩す&ちょっと崩すだけでも体の痛みに悶絶したりすることから羨ましく思ったのだと思います。一方で、それが「休める」理由となっていることも事実なので、助かっている部分もあると感じています。そう考えると、あなたが私(=体が弱い人)を羨ましいと思うのも、反対に、私があなたを羨ましいと思うのもある意味で当然なのかなと思いました。「羨ましい」対象は立場によって異なるだけで、自然な気持ちと言えるように思います。ただ、その気持ちの裏には「なんらかの支援を必要としている」可能性もあるように私は考えました。あなたの場合には安心して休めること、そのための支援が必要なのかもしれませんし、あなたの置かれる状況や環境によっては違ったニーズ(求められる支援)も見えてくるかもしれないと考えます。そもそも「休む」ことがとても難しい社会に私たちはいるということだとも考えたので、その社会の在り方に私は疑問を抱きました。あなたを苦しめているのは「元気」=「いいこと」、あるいは「働くべき(何かをするべき)」といった社会通念ゆえかもしれないとも思いました。
最後に、あなたの「両親」についてですが、私は「愛してくれている」=合うではないと経験上感じてきました。私の場合、きっと親は私を「愛してくれている」と思うのですが、正直合わないなと感じていて、父親に関しては嫌いな存在です。その意味で「愛してくれている」かどうかも大事かもしれませんが、あなたが主観で見て両親をどう思うか、両親との関係をどう感じているかも大事なのかなと私は思いました。もしかしたらそのあたりは「心配されたい、気にかけてもらいたいという感情の延長線上」とつながってくることもあるかもしれません。よければまたそうした話をお聞きすることができたらなと思いました。
感想2
タイトル、そして経験談を読んで、「そもそも感情の出どころってなんだろう?」とものすごく気になりました。また、私自身重なることもあったので、そういった意味でもかなり触発されています。今回はその触発されて考えたことを書いてみたいと思います。
まず、そもそもの感情の出どころについてですが、
感情はその瞬間、瞬間で感じるもので、私達人間は後からその理由の考察や意味づけを行う時がある(行わない時もある)のではないかと考えました。あくまでで私が考えて浮かんだことなので、真偽は不明ですが、その考えでいくと理由付けがうまくいった際には「出どころがわかった感覚」を得られ、理由付けがうまくいかなかったときに「感情の出どころはどこ?」という感覚になるのかもしれません。私自身、「自分がどうしてそう感じたのか」を考えることがあり、うまくいってスッキリするときもあれば、うまくいかずに余計にもやもやします。考えたらわかる時があるが故に、わからない時の諦めがつきにくいのかもしれないなとも思いました。
次に、私自身が落ち込む理由についてですが、
日々の中には楽しいこともあれば、悲しいこと、イラッとしたこと、嫌だと感じることもある。ただ、トータルで見たときには「楽しい」が勝つ?し、ネガティブなことも些細なことなので、自然と忘れる時もあれば、「たいしたことない」となかったものにしてしまう時もある。ただ、日々が続くと「たいしたことない」と思っていた些細なことが溜まっていく。そして、一定ラインを超えたときに「生きているのが嫌だ」という感情につながる。「明日になれば元通り」と前向きに思えている時は忘れる感覚に近く、「どうせ寝たら忘れるから」とちょっと投げやりな感じでいると、ちりとして積もっている気がする。
今はこれで概ね納得しているのですが、社会的な価値観の影響を強く受けている時だと、「こんな理由じゃ世の中は納得してくれないだろう」と思い、私自身も納得できなくなっているかもしれません。あなたが今「納得」できる理由を見つけられないことにも、もしかすると、そうした社会的な価値観や評価も関係しているのかもしれないと感じました。そもそも、理由を見つけるも見つけないもあなたの自由で、「見つけなきゃいけない」ことはないのだと思います。感情は感じるものだから、感じるものは感じるのです。そして、それについて考えたいときには考えるのです。触発されて考えたいと思ったからか、今日は考えるのがとても楽しかったです。自分一人で考えるときは苦しい時もあるのに…不思議ですね。投稿ありがとうございました。
感想1
投稿ありがとうございます。
「あぁ…なんだか感覚的にわかるかもしれない」と思わず口にしながら読んでいました。「心から死にたいわけではないけど、生きたくないと思ってしまう」こと、でも「気づいたらいつも通りの自分に戻って1人で楽しく生活している」こと。私もそれを行き来していて、そんな自分のことを時折「奇妙に」思います。こうした感覚を私は誰かと共有してこなかった(できなかった)ので、あなたが書きに来てくれたことに勝手ながら感謝の気持ちを抱いたのと、どういうことなんでしょうね…とざっくばらんに話してみたい気持ちになりました。とはいえここでそれは難しいので、私が考えたことを感想として書かせていただきます。
あなたが「生きていたくないと思ってしまう」ことの明確な「理由」・正体を探していることが文章全体から伝わってきました。日々この気持ちに陥り「動けなくな」っては「納得」できる答えを求めているのだろうと想像します。考えを巡らせ、「きっと心配されたい、気にかけてもらいたいという感情の延長線上なのだと思う」といった分析をされていることには興味深くも思いました。そこまで分析しているのは、それだけあなたが苦しんでいるということだろうとも想像しています。私はどうだろう…と考えてみると、私も「感情の出どころ」のようなものを考えることはありつつ、最近はそもそもそう思っても別にいいや…となっていることに気づきました。「生きていたくない」気持ちをなくすのではなく、その気持ちを背負ったまま(感覚的には引きずったまま)生きていてもいいかと思うようになったといった、そんなイメージです。これは言ってしまえば考えることや何かを変えることを諦めただけなので、いいか悪いかは私にはわからないのですが、人も社会(世界)もどうしようもなく不完全であるのかもしれないと私は思っているので、「生きていたくない」気持ちがあること自体は悪くないのかなと感じたりしています。それで言うと、あなたは「悪い人間のように感じる」ことがあるようですが、その感覚があっても別にいいのではないかなと思い、同時に、完全に「良い人」も「悪い人」もいるわけではないと思った(誰もが不完全なので)とお伝えしたくなりました。
また、私は体が弱いため、あなたの「体調不良になったことはない」話を正直羨ましく思ってしまいました。おそらく私は痛みにも敏感な方なので、よく体調を崩す&ちょっと崩すだけでも体の痛みに悶絶したりすることから羨ましく思ったのだと思います。一方で、それが「休める」理由となっていることも事実なので、助かっている部分もあると感じています。そう考えると、あなたが私(=体が弱い人)を羨ましいと思うのも、反対に、私があなたを羨ましいと思うのもある意味で当然なのかなと思いました。「羨ましい」対象は立場によって異なるだけで、自然な気持ちと言えるように思います。ただ、その気持ちの裏には「なんらかの支援を必要としている」可能性もあるように私は考えました。あなたの場合には安心して休めること、そのための支援が必要なのかもしれませんし、あなたの置かれる状況や環境によっては違ったニーズ(求められる支援)も見えてくるかもしれないと考えます。そもそも「休む」ことがとても難しい社会に私たちはいるということだとも考えたので、その社会の在り方に私は疑問を抱きました。あなたを苦しめているのは「元気」=「いいこと」、あるいは「働くべき(何かをするべき)」といった社会通念ゆえかもしれないとも思いました。
最後に、あなたの「両親」についてですが、私は「愛してくれている」=合うではないと経験上感じてきました。私の場合、きっと親は私を「愛してくれている」と思うのですが、正直合わないなと感じていて、父親に関しては嫌いな存在です。その意味で「愛してくれている」かどうかも大事かもしれませんが、あなたが主観で見て両親をどう思うか、両親との関係をどう感じているかも大事なのかなと私は思いました。もしかしたらそのあたりは「心配されたい、気にかけてもらいたいという感情の延長線上」とつながってくることもあるかもしれません。よければまたそうした話をお聞きすることができたらなと思いました。