経験談

生きづらさを感じる人が語る 経験談

経験談はそれぞれの投稿者の個人的な価値観や感じ方をそのまま掲載しています。一部、リアリティのある描写や強い価値観が含まれるため、読む人にとっては負担等を感じる場合もあります。各自の判断で閲覧してもらえるようにお願いします。

結局、どうしたかったの。

私、気づけば後悔ばかり。しかし直せずグダグダ続く。そんな日々。

選択をするのが嫌になりました。例えば、「今日のご飯何がいい?」だったり、「何がしたい?」だったり。それは面倒だからではありません。決めるのが苦痛なのです。

当たりの強い親が傍にいて、常に周りの顔をうかがって生きてきました。暴言は当たり前。親がただ何も言わず座っているだけでも不安でした。
そんな時でも選択の連続です。
お皿を洗え。ご飯を作れ。洗濯物はこれとこれを別々に。
実際は何も言われませんが、いつも予測して動かなければなりませんでした。
親は言います。それくらい考えて動いて当然だろうと。
しかし、私は選択を多々誤ってしまいます。今でもその答えは分かりません。分かったとしても、もう遅いでしょう。

友達も無言で何か訴えかけてきます。
「私この子とは関わりたくない。仲いい子いるもん。こんな根暗と話したくない。」
考え過ぎだとよく言われますが、そうでなかったとしても、この空気の悪さが嫌でした。何より相手の瞳が、確かなものでした。

選択するのをやめました。何をしても怒られるからでしょうか。どうしても、みんなの理想に近づけないからでしょうか。今となっては分かりません。

他の人に任せるようになりました。最初から任せておけば、その人の考える通りにできるからです。たまに、何で決めないの。決めてよ。と言われますが、そのほんの短い時間で、全てを説明して、相手に理解させることは不可能でしょう。

無視するな。そう言われました。私が考え事をしていて黙っていると怒鳴られました。その人が言うに、私はいつも暗いらしいのです。嫌な雰囲気を出しているそうなのです。

その日から、明るくしようと努めました。慣れない笑顔も、ぎこちない会話も。頑張ってみました。
無駄でした。何も変わりませんでした。
私のしてきた努力は一瞬で消え去りました。

もう、頑張ることをやめました。
今、私の嫌いな言葉ランキングの上位3位以内に入ります、頑張るという言葉は。

昔から我慢するのが当たり前。頑張らなければ生きていけない。そんな教育を受け、私の心は壊れつつあったのかもしれません。
相談相手など周りにおらず、常に一人で解決してきました。溜め込んできました。現に、親は私のことを何一つ分かっていませんでした。
頑張らなければ生きていけない。この言葉は、自分は死んでもいい、死ななければいけないと考えるようになったきっかけの一つだと思っています。

勉強も、遊びも、ただでさえ成り立っていなかった会話も、更にできなくなりました。やる気が出なくなりました。後悔ばかりの日々です。

結局、どうすればよかったのだろう。そう思う時もあります。
友達という概念が分かりません。死んではいけない、という考えが分かりません。私なら、隣で人が死んでもどうも思わないと思います。家族が死んでも、どうも感じないと思います。

感想1

投稿ありがとうございます。
あなたが常にひとりでなんとかしてきた証がここに刻まれているように感じました。確かに読ませていただき受け取ったことを、労いの言葉とともにお伝えしたいと思います。

「証」と書きましたが、あなたの経験談にはあなたの「決めるのが苦痛」の意味・理由がしっかりと書かれてあるように私には感じられました。「暴言は当たり前」の親がいる家庭で育ったこと。「常に周りの顔をうかがって」生活してきたこと。「何も言わず座っている」無言の圧力…それらはあなたをひどく緊張させ、恐怖をもたらし、心を押しつぶしてきただろうと想像します。また、人(の脳)は「答え」がわからない状態を嫌う(苦手)と聞くので、「答え」がわからないままに「予測して動かなければ」いけないことを繰り返す日々は、たくさんの傷をあなたにつけ、相当堪えただろうとも想像しました。そうした日々があなたの日常であれば、「選択するのをやめ」るか、正解を出し続けようと倒れるまで全身をフル稼働させるかしか「選択」できないと思うので、どっちを選んでも「苦痛」だったに違いない…と思います。

「苦痛」な日常を生き延びるためには、周囲を常に警戒し、危険を察知しないといけなくなるため、あなたはそれを自然と身に着けていったのだろうと思います。「相手の瞳」で判断するところや「考え事をして黙っている」ところなどは、外の世界でもあなたが警戒しなければならなかったことを示しているのかなと私には感じられました。そのことはあなたにとってある意味で自然なことなのに、それだとなぜかうまくいかない…そう感じて「明るくしようと努め」たにも関わらず、その「頑張り」がいい結果につながらない時の脱力感や無力感は、あなたをひどく疲弊させ、混乱させただろうな…と思いました。そうした経験を重ねていたら「友達という概念」がわからなくなるのも当然だと思います。ただ、このことは言い換えると、これまであなたには「顔をうかが」わずにいられる人や、あなたのままでいても怒らない人との出会いがなかったとも言えるように私には思えました。「人が死んでも」「家族が死んでもどうも感じない」こともまた(それ自体あり得ることだと思いつつ)あなたにとって本当の意味での「人」や「家族」と出会えていないということを指すのではないかと私には思えます。世の中で定義づけられる「友達」や「家族」の存在は、あなたにとっては“あなたを傷つけてくる誰か”に過ぎなかったと言えるように思ったのです。その意味で、あなたは何もおかしくないように私は思いました。

最後に、あなたの「嫌いな言葉ランキング」を聞いてみたい!と思ったこと(私も「頑張る」はわりと嫌いです)と、末尾の「選択できない私」という文言は正確には「生き延びるための選択をひとりでし続けなければならなかったあなた」であり、あなたには生きる力があるのではないかと私は思ったことをお伝えして、感想とさせていただけたらと思います。またよかったら書きに来てください。

感想2

あなたの経験談を読ませていただきました。本来、選択をするということは、それぞれの個人の可能性や権利を得るための行動であるはずだと思うのですが、あなたにとってはむしろ、選択の機会とは、相手に合わせた選択ができるかどうか評価されるイベントだったのだろうと思いました。もちろん、自分のためか他者のためか、なにを目的とするかなどは0か100で決められることではなく、他者を鑑みて選択を行うことも誰しもあるのではないかと思います。ただあなたの場合は、親を優先しなければならないことの比率があまりにも高かったのだろうと想像しています。そういう環境の中で、「決めるのが苦痛」と感じるのも当然ではないかと思いました。
家庭の中であなたは「顔色」という非言語的なものからメッセージを読み取り、判断することをずっとしなければならなかったのですね。ある意味では、あなたはそういう訓練をずっと積み重ねてきたということなのだと思います。そうすると、家以外でもそのやり方で他者や関係性を捉えるのがあなたにとっては標準になるのも自然だと思います。
「そんな教育を受け、私の心は壊れつつあったのかもしれません。」と書いてありましたが、そう気づくのも簡単ではなかったのではないかと思いました。文章から、たくさんの我慢と、たくさんの日常的な努力の上に、あなたの生活が成り立ってきたのだろうと想像しています。その中では、あなたは自分のために生活すること、たとえばリラックスしてなにかを楽しむことや、自分のペースに合わせて行動すること、あるいはそもそも自分のペースや自分にとって心地いいものがなんなのかを知ることもむずかしかったのではないかと思いました。
個人的には、人は、とくに人の役に立たなくていいし、こうでなければならないということはなにもないと思います。友達もいてもいなくてもいいし、概念がわからなくても問題ないと思います。ただ、あなたがその中で困っているなら、あなたの大変さが少しでも減るような暮らし方はないだろうかと思います。心地いいと感じる香りとか、好きな音楽とか、現実逃避できる場所とかはあるでしょうか。もしなにかあれば聞いてみたいです。あまり思いつかなかったら、一緒に考えてみたいと思いました。
あなたの気持ちや苦しさを投稿してくれてありがとうございました。

お返事1

嫌いな言葉は、「頑張る」「大丈夫」「一人じゃない」です。
みんな、「まだ」大丈夫だと思っている所が腹立たしく、「何も分かってない」のに一人じゃないと言われるのはもっと嫌いです。
あなたたちが、一人にさせたんでしょ、みたいな。
それから、心配すんな、とかいう半端な励ましの言葉もよく言われますね(笑)

本当に、そういう言葉を聞いていると、何を頑張ればいいのか、今まで何を頑張ってきたのか、よく分からなくなりますね。
最後に、こちらこそ、共感されるということがなく、大体他人事な話を聞かされるので、大変新鮮でした。感想を書いていただき、ありがとうございました。

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