経験談

生きづらさを感じる人が語る 経験談

経験談はそれぞれの投稿者の個人的な価値観や感じ方をそのまま掲載しています。一部、リアリティのある描写や強い価値観が含まれるため、読む人にとっては負担等を感じる場合もあります。各自の判断で閲覧してもらえるようにお願いします。

死にたかった。そして今も

思えば、義務教育を受けていた頃から、兆候はありました。
毎日学校に通えなかった。友達もいて、授業も理解できていて、先生ともコミュニケーションが取れているのに、なぜか朝行けない。遅刻でも行けない。結局休んでしまって、夕方ごろ元気になる。それが、短大を卒業し、編入先の大学を辞め、障害者手帳をもらって就労移行支援に通っている現在も続いています。
自律神経失調症、起立性調節障害、ADHD、ASD、双極性障害…いろんな病院でいろんなことを言われました。いまだに、どれもしっくり来ていません。
自分の中で結論づけたことは、「私は、この世界で生きるのに向いていないんだ」ということ。
目標もない、興味のあることもない、ただただ食べ物にお金を使うことばかりが増えていく。
お金がある間は強者になった気がして、人におおらかでいられるけれど、それ以外の間は、いわゆる「まともな人間」に嫉妬してばかり。
「なんであんな奴が大金を稼いでいて、私は稼げないんだ」と。
理由は明確で、私が「まともな人間」じゃないから。病気だから。最近でいう、社会不適合者だから。
でも諦めきれなくて、就労移行に通ったり、休みの日は求人を漁る日々。
毎日毎日、「死ねたら楽だなぁ」と考えます。
死んだら、みんな悲しんでくれるかなぁ、引きずってくれるかなぁ、もっとこうしてやればよかったって、後悔してくれるかなぁ。なんて考えます。
周りの人は、いい人ばかり。その人たちを守っていけない自分が情けないです。いつも守られてばかり。
その人たちがいなくなってしまったら、私は衣食住を維持できなくなって死ぬでしょう。そのくらい、周囲に甘えているにも関わらず、周囲の人たちを守る力が私にはありません。いつまで経っても恩返しできないまま。
一番は母です。ひとり親で、私を私立短大に行かせてくれて、今でも生活のサポートを全力でしてくれています。恥ずかしい話ですが、私は一人で上手くお風呂に入れない時があります。そんな時は母が頭と体を洗ってくれます。もう介護に近いです。
二番は彼氏です。毒親育ちでありながら、なんとか生きよう、生きようとしているところが大好きです。私が夜、将来のことを考えて死にたくなっていると、いつも寄り添ってくれます。
他にも、友人、祖父母、就労移行の職員さんなど、本当にみんなが私のことを応援してくれているのに、それに応えられない自分が恥ずかしいです。悔しいんです。
みんなに応援されて、「よし!頑張ろう!」と思っても、現実、私に働ける場所などありはしません。
決まった時間に起きれない、車社会である居住地で、ADHDの不注意が怖くて免許を取っていない、なぜかはわからないけれど、だんだんと気分が落ちて通えなくなる。
現代では自宅で仕事ができますが、それはスキルや興味あっての話。私にはありません。
YouTubeで、お金の勉強、在宅ワークの勉強、障害者の勉強、たくさんしました。それでも私に希望はありませんでした。
だから死ぬしかないのです。
大切な人たちに恩返しできない私には価値がないのです。
この世界に、大切にしたい人はいても、守ってあげられない。それ以外のことには興味がないことに、最近気づいたのです。
ずっと死にたかった。言う場所がなかった。自分でも気づかなかった。やっと言えた。
私は死にたかった。そして今も。

感想1

投稿ありがとうございます。まず読んでいて、あなたが言われてきたさまざまな診断名と、あなたの「結論」があなたにとってどういうふうに違うのだろう、と考えました。ひとつ思ったのは、前者が既存の言葉や枠組みにあなたを当てはめた他者による評価であるのに対して、後者があなた自身の実感から出てきた表現だというところに違いがあるのかなということでした。私自身もあなたが書いていた「自律神経失調症、起立性調節障害、ADHD、ASD、双極性障害」という診断名のうち、「ASD」以外はすべて言われたことがあります。私の場合は、それらの診断基準などを読んでみれば確かに当てはまるとは思う部分も多々ありつつ、そういう自分をずっと標準としている自分としては、それは私の問題なの?私を表す言葉なの?という疑問はずっと消えることはないなぁという感じがします。
それから「私は、この世界で生きるのに向いていないんだ」というふうにあなたがあなたの感覚を表現したとき、「この世界」というのはどういうものとして感じられているのだろう?と個人的にはとても気になりました。人間が生存できる場所は今のところ地球くらいとされているかと思いますので、まず地球ではあるのかなと思うのですが、さらに言えば、日本で生活されているのだとすれば、日本のことでしょうか。(といっても、そもそも私は日本以外の国で生活したことがないので、他の文化のことはよくわからないのですが……。)もう少し具体的に言えば、資本主義と新自由主義的な価値観と手法が前提とされる現代日本や、その中で生活するあなたとあなたの周囲の人間のコミュニティで、あなたがしっくりこない思いをすることが多いのかなぁと想像しています。
その中でも、あなたにとって「お金」の意味はとても大きいのかなと思いました。もちろん、資本主義経済の中で貨幣が持つ力はとても大きくて、生活と分かち難く結びついているので、「お金がある間は強者になった気がして」という言葉や「なんであんな奴が大金を稼いでいて」という気持ちも、すごくわかるなぁという感じがします。
一方では、その「お金」で得られるものって、実際にはなんなんだろう?そのためになんで苦痛を我慢したり、そうでなければそれを諦めなければならなかったりするんだろう?と、考えてしまいます。個人的にですが、私は基本的に体調もメンタルも悪めで、労働が難しいことが多く、トラブルも多かったので、そういう形での労働を強いられることにかなりの悪感情があります……。じゃあ現実的にどうしたらいいの?となると、とても難しくて、わからないままぐるぐるしていることが多いのですが。
休日には求人をたくさんみたり、「衣食住を維持できなく」なることを想像したりしながら生活するのには、焦りや不安なども切り離せない要素になっているのかなと思いました。
「YouTubeで、お金の勉強〜」という部分を読んでも、あなたが自分の状況をどうにか楽にしたり、好転させたりする方法を模索してきたことを感じています。その背景には「恩返ししたい」あるいは「恩返しすべき」という気持ちもあるのかもしれませんね。
「守る」という表現が何回か出てきて、あなたやあなたの周囲の大切な人たちがおびやかされてきた、あるいはいつおびやかされてもおかしくないというような認識が強くあるのかなぁと想像しています。それは「恩返し」という言葉も近い使われ方なのかなとも思いますが、それだけでないニュアンスも感じて、もう少し、あなたの言葉でその意味するところや感じていることなどを聞いてみたいなぁと思いました。
「この世界に、大切にしたい人はいても、守ってあげられない。それ以外のことには興味がない」ということは、本当であれば、あなたはこの世界の中で、大切な人が無事に、安心して暮らせる場所でともにいたいということなのかなと思いました。その状況に近づ
社会の中にどういうものがあったり、どういう仕組みがあったり、どんなやりかたがあればいいのかなぁと考えています。あなたの中に「こういうものがあれば……」というようなイメージはありますか?もしあったら聞いてみたいです。

感想2

「この世界で生きるのに向いていない」という言葉が気になって、感想を書いています。
経験談から、投稿者さんが自分に合った生き方・手段を見つけるべく色んな形で取り組んできた様子が伝わってくるからこそ、「やったけどダメだった…」という感覚と共に、「生きる」ことそのものに「向いていない」という結論に至ったのかなと想像しました。学校に通うのが難しかったこと、なかなかしっくりくる診断名がないこと(診断が全てではないですが、自分の性能を理解したり取り扱いやすくする手掛かりにはなる気がします)、スキルや興味が見つからないこと…そうした様々な「できない」「持てない」が投稿者さんの自信を削いでいった側面もあるのでしょうか…。「そんなことないよ」という表面的な言葉をかけようとはとても思えないくらい、投稿者さんの中に蓄積された試行錯誤、悔しさ、逡巡の末に辿り着いたであろう「向いていない」という感覚が、言葉の端々に詰まっているようにも思いました。
一方で、周囲の方への感謝と、それに伴う申し訳なさが強く表現されていたのも印象的でした。私は、人間関係は相互的で、かつ自己評価や自己像が投影されるものなのかなと思っているので、他者の存在への肯定・価値を見出す感覚と自分への否定感情が共存するのはしんどい状態のように思いました。何より、他者の存在や考え・反応は自分ではコントロールできない範疇なので、そこと自分の存在意義が繋がるとより苦しいのではないかと感じました。

私は「社会不適合」という言葉を聞くたびに、その定義やイメージに疑問符を付けたくなります。自分自身の適応能力の低さをふまえて「どうしてみんな適応できるんだろう?」と思う気持ちもありますし、何より「適応できている」ように見える人たちは結構無理をしているようにも私には見えるからです。「何かに熱中できること」や、時に「無理ができる」ことも一種の才能になるのかもしれませんが、「自分の力で、自分の意思で頑張る」ことがあまりにも一般的かつ良いことにされている社会の風潮に、全力で待ったをかけたくなる自分もいたりします。生き方に正解がない中で、自分と世界の折り合いをつける難しさを、私も、投稿者さんもそれぞれに味わっているような気がしました。投稿ありがとうございました。

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