経験談

生きづらさを感じる人が語る 経験談

経験談はそれぞれの投稿者の個人的な価値観や感じ方をそのまま掲載しています。一部、リアリティのある描写や強い価値観が含まれるため、読む人にとっては負担等を感じる場合もあります。各自の判断で閲覧してもらえるようにお願いします。

冗談

我が家は「明るく笑いの絶えない愉快な家庭」でした。
良くも悪くもへらへら適当に生きよう、が家族の暗黙ルールにあり、
どんなに嫌なことがあったり悩みが生まれたりしても、適当にへらへらした自分を作っていました。

笑いの元は日常に溢れる「冗談」です。
「性格の悪さが顔に出ている」「顔が小さいね、その分脳みそも小さいんだ」と言われました。
TVで観た海外の女優さんのモノマネで、何度も何度も片言で「役立たず」と言われました。
嫌なことや不運な出来事の話をすれば「日頃の行いが悪いからだ」と笑われるか、「皆そう、あんただけじゃない」と流されるだけでした。
親戚に何か褒められたときは後々「お世辞だよ、みんなそう言うんだよ」と言われました。
趣味で見ているライブを誇張しふざけた真似をされ、小声で「馬鹿じゃん」と呟くのが聞こえました。
TVに映るアイドルグループのメンバーを見て「グループでクスリやるならこいつだと思う」と笑っていました。
全部我が家では「面白い冗談」なのです。
「我が子がかわいいからつい構っちゃう」そうです。

笑いの英才教育を受けてきたおかげで、私の中ではそれが当たり前になってしまいました。
私は性格の悪さが顔に出ていて脳みそが小さくて役立たずで、
日頃の行いが悪いから嫌なこと辛いことに遭って、でも辛いのも皆そうだから表に出すのは迷惑で、
私を褒める言葉は全てお世辞で、
私が好きになる趣味趣向は影で人に馬鹿にされ、
知らないうちに自身の内面を勝手に想像され暴言を吐かれているかもしれなくて。
そう思いながら生きるのが私にとっての「普通」です。
でも「冗談」なのです。
冗談だから、言い返したり不機嫌になると逆に責められます。
「あんたの言葉は人を傷つけるよ」と。
冗談だからそれで傷つく私のほうがおかしい、間違いなようです。
「あんたって泣くの?」と言われたこともあります。
口下手な兄の反面教師、そして冗談で傷ついても悟られないよう口達者に育ったからか、人からの言葉に傷つかない人間だと思われているようです。
それともこれも冗談なのでしょうか。私には分かりません。

それが私の当たり前だから、人からの好意や評価がまともに受け取れません。
人を頼ることも、相談することもできません。
嫌なことも良いことも全部「冗談」にして、適当に流してへらへらしていれば傷つかずに済むからです。
自分のことを常に馬鹿にして笑っている状態なら、それ以上下に落ちることはないからです。
昔はまだ根っこの暗い感情を少しだけ外に出せていた気もしますが、
深く根付きすぎて慣れてしまい、出しても無駄だと諦めてしまいました。

疲れてしまいました。
家族も歳を取り、いつ誰が体を壊してもおかしくない。
私自身もキリのいい年齢になりました。
私はいつまでも自分が嫌いで何一つ変わらないのに、周りが変わっていくことの皺寄せを食らうのは嫌です。
ごくごく自然に行動力が湧き、前から行きたかった旅行の計画を立てて、実際行ってみようとしました。
旅に出るにはコツと一瞬の恐怖に耐えなければいけないようで、何度か試したのですが失敗してしまいました。
自分でもびっくりしたのが、怖かった理由が「絶叫マシーンから落ちる時の感覚に似てるから」でした。
絶叫が苦手じゃなかったら一発で行けたのでしょうか。
人や物事への未練が一切無かったことに笑いつつ、もう少し試行錯誤してみようと思います。
行きたいなぁ、地獄。

失敗して、その場限りの反省でSNSに書いてしまったのが良くなかったです。
数少ない友人にひどく心配され、私を想う故にすごく怒られてしまいました。
友人たちは好きだし大切です、だからこそ何も言うべきではありませんでした。
少しでもネガティブなことを発信すると「またやらかすんじゃないか」と心配されてしまいそうで、
いよいよ何処にも素に近い言葉の吐き出し口がなくなってしまいました。
そして何より、友達を大切に思う気持ちより自分のことが嫌いで諦めてしまった気持ちが強いので、
友人の心配を一瞬でも「邪魔だなぁ」と感じてしまった自分がいます。
どれだけ心配されても、怒られても、きっと私は正しく受け止められないんだと思います。
食べ物の好き嫌いのような、それを好きなのは否定しないけど気持ちは共感できない感じです。
きっと私はやり遂げるまで繰り返します。
こんな私が誰かを好きだとか大切だと思う資格はありません。
ごめんなさい、もう前みたいに楽しく集まることはできないです。

親には多大な心労と迷惑がかかるのだと思います。
迷惑はともかく心労を考えると少し笑ってしまいますが。
そんなに辛いなんて知らなかった、相談してくれれば、何かできることがあったんじゃないか、愛する我が子を失って悲しい、とでも思うのでしょうか。
前に冗談で「親だもの、子供のことは何でも知ってるし分かる」と堂々と言ってませんでしたか。
余計な言葉を残さないで「知らなかった」で居させてあげるのがなけなしの情なのかもしれません。
残念でした、あなたたちは私の事なーんにも知りませんよ!

私が自分を好きになれる瞬間があるなら、それはきっと旅行に行けた時なのだと思います。
これを目にする方が何人いるかは分かりませんが、
どうか私が私を好きになれるよう、祈ってもらえると嬉しいです。

感想1

投稿ありがとうございます。冗談というのは、遊びやおふざけに近い言葉なのかと思いますが、それが遊びとして成立するのは、相手と自分、そこにいる人が冗談の価値観を共有しているからではないかと思います。言い方を変えると、冗談は、お互いが楽しく面白いと感じるときにしか成立しないものではないでしょうか。だから、あなたが言われてきたことは、もしかしたらあなたの親にとって「冗談のつもりだった」ことはあるかもしれなくても、実際、冗談としては不成立だろうと思いました。
あなたに苦痛を与えている時点で暴言だし、しかもそれを「冗談」ということ自体が、あなたの傷つく権利自体を奪うような、二重の暴力的な構造を作っていると感じました。……読んでいて、なんだか勝手にとても悔しくなってしまって、強い言葉を使ってしまってすみません。私の経験の中でも、私にとってとてもショックだったことを「あんなのただの冗談だった」「そのくらいのことで怒るなよ」という形で、傷つく私が間違っているのだと思わされてきたことがあり、勝手に重ねてしまっているところがあるかもしれません。当時は私は本当に自分が間違っているような気持ちになっていたこともあり、それに気づくのにもかなり時間がかかったな、と思います。

あなたが経験談に書いてくれている、あなたが言われてきたことは、一つ一つどれをとってもひどいし、「冗談」といった言葉でごまかすことで、あなたの反論をゆるさなくしているのも、なんだかとてもずるく感じてしまいました。
あなたは「英才教育」というくらい小さい時からたくさんの傷つきを自分の中で冗談ということにしなければいけない環境で、なんとか生きてきたのだと思います。
「どんなに嫌なことがあったり悩みが生まれたりしても、適当にへらへらした自分を」作るのは、その環境であなたが獲得せざるを得なかったサバイバルスキルなのだろうと思いました。そういうサバイバルスキルをもとに生活している中では、本音をいうことがすごく難しくなってしまうのも無理はないと思いました。
「友人の心配を一瞬でも「邪魔だなぁ」と感じてしまった自分がいます。」というのは、とても自然なことではないかと思いました。100%好きで、すべて肯定できて…なんてことは、人間関係であまりない気もします。それでいいというか、そんなものなのではないかと思うのですが、あなたの中では自分への不信感に繋がる出来事でもあったのかなと思いました。でもそれもこれまで言われてきたたくさんのことがあるからなのだろう、とも思います。

一方では、あなたがこの経験談をこうやって書いて送ってきてくれたということの中には、それらの「冗談」を、不当だと思う気持ちや、その家族とは異なる自分の価値観を感じている部分があるからなのかなとも思いました。
「残念でした、あなたたちは私の事なーんにも知りませんよ!」という一文をなんだか痛快な気持ちで読みました。あなたの芯にあるあなたの強さみたいなものを感じています。
旅や旅への準備は、(親の知らない)あなたがさらにあなたを知る過程でもあるのかなというふうに思いました。私は自分を好きでいる必要があるかはわからないですが、あなたがあなたの願うありかたを模索していることを応援し、祈りたいと思います。よかったら、(明るくなくても、笑いがなくても、へらへらしたいときはしても、したくないときはしなくても大丈夫なので、)気が向いたらまた死にトリにきてください。

感想2

あなたは「笑いの英才教育」と書いていましたが、私には「あざけりの英才教育」のように思えました。(ちょっと言葉がきつかったらすみません)そして、あなたがそのような環境の中で、ずっとずっとダメージを受け続けてきたことをひしひしと感じました。たとえて言うのなら、本当な体に合わない嫌いな食べ物を無理やり美味しい美味しいと食べていたとか、本当は光がまぶしくて痛いのに、家族がとても明るい部屋で過ごすことが当たり前なので、それに合わせてきたようなイメージです。毎日毎日、じわじわとダメージが蓄積していき、その根本から逃れる旅に出たくなることも無理はないと思いました。
タイトルの「冗談」ですが、あなたの家族が使っている「冗談」とあなたが考える「冗談」はずいぶんと違うものだったように感じています。また、おそらく私が使う「冗談」や別の人が使う「冗談」も実はみんな違っているのかもしれません。また、「笑い」についても人ぞれぞれかなり違うことなのかもしれません。冗談や笑い、そしてさっき私がたとえ話で出した食べ物が美味しいとかまずいとか、光がまぶしいことなどに共通しているのは「感じること」です。私はいろいろな生きづらさを感じる人たちと出会って、話をしたり、一緒に過ごす中で実は人が生きていくうえで「感じること」がとても重要な存在だということに気づきました。
どう感じるかは実は人それぞれ違って、どんな時にどう感じるか、好き嫌いなどは理由に関係なくそう感じてしまうのですから、いい悪いがないはずだと思います。しかし、一定の集団の中や力関係のある中で「こういうときはこう感じるべき」とか「こう感じるのが正しい」という圧力をかけられてしまったとしたら、それは自分固有の存在を抑え込むことや否定することになってしまいます。それが、強く深い希死念慮になることはとても自然なことのように感じています。あなたが自分のことを心底嫌いになったり、価値を見出せないことも「感じる機能」が抑圧された結果なのだろうと思いました。
あなたは周囲の人への違和感について「食べ物の好き嫌いのような、それを好きなのは否定しないけど気持ちは共感できない感じ」と書いていましたが、その感覚はとてもフラットだと思いました。そして、あなた自身はもともと、自分と周囲に境界を引き、他者の感性を尊重しているように感じました。その感覚がある中で、生まれ育った家庭における英才教育はかなりのギャップで相当にきつかったと思いますし、それに何とか適応しているふりができたことにもできてしまった器用さがさらにあなたを苦しめたようにも思いました。
ただ、そんなちょっと世の中を離れたところから達観して眺めているようなあなたがこうして死にトリにわりと本音であるように感じる気持ちを書いて送ってくれたのはなぜなのかなぁと考えています。そして、もう少し今回あなたが投げかけてくれたテーマについてあなたともう少し考えてみたいと思いました。

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