経験談

生きづらさを感じる人が語る 経験談

経験談はそれぞれの投稿者の個人的な価値観や感じ方をそのまま掲載しています。一部、リアリティのある描写や強い価値観が含まれるため、読む人にとっては負担等を感じる場合もあります。各自の判断で閲覧してもらえるようにお願いします。

自分を生きていくことが嫌になった

人が嫌いだ。
小学校の頃仲良くしてくれていた友達がある日を境に無視をしてくるようになった。
不思議と嫌とは思わなかった。
友達じゃなかったんだな。
そう子供心ながらに察した。
それから人と関わるたびに人を疑うようになった。人を信じられなくなった。
仲良くしてくれる人もいたがこの人も同じなんじゃないか。と思い自分から遠のけた。
学校では誰とも話さず、休み時間は教室の端で本を読んでいた。
今、この場から自分がいなくなっても誰も何も思わないんだな。そう思ったときに「自分」の存在価値がわからなくなった。
クラスで何かをするときに自分以外が仲良く、楽しくするなか、自分だけが輪の中に入れなくなったときに、いてもいなくても変わらないのではなく、迷惑をかけているんだなと思った。
そんな自分を気にかけてくれる先生もいたが、迷惑を掛けたくないと思って遠ざけた。
人の親切心を踏みにじんだ自分が嫌いになって、死にたくなった。

親に、ふと「死にたい」と相談したとき、親は私を殴って、怒鳴った。
私よりも辛い人はたくさんいる。
それを言われたときに、死にたいと思ってる自分への罪悪感が押し寄せてきて、もっと死にたいと思うことが増えたが、そのたびに罪悪感に駆られた。

仕事で何か使命を与えられたら死にたいなんて思わないんじゃないかと、アルバイトを始めた。
この性格で人とうまく関われない私は、早速店員の中で孤立した。
先輩の教え方も雑で、要領も悪い私は仕事ができず、クレーマー客にうまく対応できず、先輩に怒鳴られる日々。
ストレス解消になるのではないかと始めた部活では、発達障害の先輩と2人きりになってしまった、
悪い人ではないのはわかっている。
ただ関わることへのストレスがたまり、部活関連の仕事も全て私の仕事となり、顧問の先生は私に全てを頼って良い部活だと言う。
どんな失礼なことを言われても笑顔で対応していくのが嫌になり、攻撃的なことを言ってしまった。
本人は本人なりに頑張っているのは知っておきながら自分でそのようなことをしてしまった自分が嫌いで、嫌で、この世界にいらないのは私なんだなと思った。
人が嫌いな自分が嫌い。
いっそ、死んでしまおうかと思った。

感想1

最後の、『いっそ、死んでしまおうかと思った。』という過去形の一文が印象的だと思いつつ投稿を読ませてもらいました。経験談の流れとして、経験(過去)→死にたい(現在)の時系列になっているイメージがなんとなくあったので……。過去の日記をぱらぱらめくって読ませてもらっているような、そんな感じがしました。

投稿を読んで、自分も友達から突然無視をされたり、休み時間に1人でいたりという経験をしたこと、そして教室にいることに苦痛を感じていたことを思い出しました。
教室から離れた今は「ただ単に自分と教室とが馴染んでいなかった」と思いますが、当時は自分のことを「教室に馴染めないとんでもない悪者、異端者」のように感じていました。
当時感じていた苦痛をもっと言語化するならば、「誰と誰が一緒にいる」「誰と誰が仲がいい」というのがあまりにも見えすぎてしまう教室内で、友達を勝ち取るためのコミュニケーションを毎日毎日繰り返すことの負荷が大きすぎたのだろうと思っています。と、整理をしてみたものの、仮にまた学校に戻ったとしたら……を考えると、友達を勝ち取るための過程で無視したりされたりするのはまっぴらごめんですし、かといって友達を放棄して1人でいるのもやっぱり迷惑……と思うとまた挫折しそうな気もします。こんな営みをしていて「辛い」「死にたい」と思わないのが普通なのでしょうか?それとも、こんなごちゃごちゃ考えず自然にコミュニケーションしているのが普通なのでしょうか?だとしたら、自分も親御さんから怒られそうです。

また、アルバイトについても、動機も業種も自分の経験と近しく思えて興味深かったです。
どうしたって人手が足りておらず友達を作らなくても必要とされる点は良かったのですが、そのぶん自分の要領の悪さが目立つことになり結局迷惑をかけることに……。投稿者さんの部活のお話も踏まえて考えると、職場なり部活動なり、何らかの目的のための集団では「目的を果たすための器量」と、メンバー間が衝突しないための「役割分担」もといそれを実現するための「関係性・コミュニケーション」が要求されることが多いのだろうか……?と考えていました。目的関係なく放り投げられる教室内でもしんどいのに、もっと要求が増えると思うとなおのこと辛いと感じるのは当たり前のことのように思われました。

投稿で見せてもらった面は投稿者さんの限られた一面だとは思いますが、それでもこうして似た経験が思い当たるのは、それらがごくありふれた経験であり、親御さんの言う『私よりも辛い人はたくさんいる』ことの証左になりうるのかもしれません。ただ、自分の経験も振り返りながら浮かんできたのは、こんな経験がありふれていてたまるかという気持ちです。せめて似た経験をした人が自分だけを責める前に、自分が嫌になる前に見てもらえたらと思いつつ返信を書かせてもらいました。

自分のことが嫌いなのも死にたいのもちょっとやそっとのことじゃどうにもならないので、この先どう生きていくか、自分は今考えあぐねているところです。よかったらまた、投稿者さんのお話を聞かせてもらえると嬉しく思います。経験談の投稿ありがとうございました。

感想2

タイトルの「嫌になった」という表現が気になって読みましたが、読み終えて「なるほど、嫌になったという表現がとてもよく伝わってきた」と感じました。小学生の頃にクラスで経験した孤立感や人間関係の苦しさは、うまくなじめなかったことだけではなく、理由や意味が分からない不安もあるように思いました。また、あなた自身が書いてくれたように、気にかけてくれた先生を遠ざけてしまったことへの罪悪感のようなものも強くあるように思いました。いくつかの種類の違う苦しさが混ざりあい、それを一人で抱えていたと考えると、孤独はとても深かったのではないかと想像しています。ただ、私はそんなあなたの姿を想像すると、小学生のあなたが必死に自分を守っているようにも思えました。自分が必要以上に傷つくことを避けるために、人から遠ざかることはとても合理的な方法だろうと思いましたし、子どもながらによく考えて行動をしたと思えて、そっと労いの言葉をかけたくなるような気持ちになりました。
それぐらい一人で自分を守ることに必死になっていたのなら、死にたくなるほど苦しくなることも無理はないと思います。しかし、その気持ちを分かってもらいたいと親に訴えたときに理解されないどころか、殴られ、怒られたことはあなたの人への信頼を大きく揺るがすことだったように思いました。その際にあなたは罪悪感が押し寄せたと書いていましたが、私にはその罪悪感は、あなたが自分を守るために抱いた感情のように思えました。第三者的な私から見ると、親の対応は明らかに「それはないだろう…」と感じるほど、理解のない態度だと突っ込みたくなるようなものでした。ただ、子どものあなたは、親が悪いと非難したり否定したりするのではなく、自分が悪いととらえることによって、穏便に関係を維持する道を選んだように思えたのでした。ただ、それは自主的に選んだというより、選ばざるを得なかったのかもしれないと思いました。そんなことまで考えていないよと思われるかもしれませんが、いずれにしてもあなたは一環としてこれまで自分なりに現状をとらえ、自分のできることは何かを考えて、行動してきた人のように私は思えました。(その後のアルバイトや部活のエピソードからも感じています)
最後に、私はあなたが部活で耐えきれずに攻撃的なことを言ってしまった話を聞いて、少しホッとしています。あなたにとっては、後悔するような出来事だったかもしれませんが、おそらくこれまでとても穏やかな人だと思われていたあなたが見せた意外な一面だと周囲は驚いていると思うので、あなたのことが理解されるきっかけになるように感じたからです。冒頭の「人が嫌いだ」という叫びの裏には、「人とうまくやりたい」という願いがあるように私には思えました。だからこその感情表出だったのではないかと感じましたし、今回はとっさに爆発してしまったのかもしれませんが、冷静な場面で「実は…」と自分の本音を話す機会が訪れることを勝手ながら願っています。
こうして、知らない人に書いて伝える方が罪悪感が少ないかと思います。また機会があれば、あなたの気持ちを書いて送ってください。いつでも歓迎です。

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