経験談

生きづらさを感じる人が語る 経験談

経験談はそれぞれの投稿者の個人的な価値観や感じ方をそのまま掲載しています。一部、リアリティのある描写や強い価値観が含まれるため、読む人にとっては負担等を感じる場合もあります。各自の判断で閲覧してもらえるようにお願いします。

飼いならせない希死念慮、生きにくい人生

以前もこちらに投稿させていただいたことがあるのですが、その時から数年経っても自分の
気持ちは晴れず、言語化すれば少しは気持ちを整理できると思い、改めて自分の気持ちや考え、人生を振り返ってみました。
長くなりますが読んで少しでも共感していただける方がいれば嬉しく思います。

私は現在29歳の男で、都会で働く会社員です。結婚して6年目になる妻と3歳の子どもがいます。
傍から見れば一見幸せそうに見え、実際友人にもそう見えていると思いますが、私は大学3回生の21歳のころから希死念慮を抱いており、死にたくて仕方ありません。
明確に心を病むようになったのは高校2年生あたりからですが、21歳頃からは死にたいという気持ちを強く抱くようになりました。

なぜ死にたいのか、細かい理由はたくさんありますが、一言でいえば過去の後悔と激しい自己嫌悪、そして過去も未来も自分自身に希望が持てないからです。
妻と子どもがいるため、一線を越えず踏みとどまっていますが、正直独り身だったら間違いなく自殺していると断言できます。

私の人生はいわゆる「落ちこぼれ」でした。
幼少期から劣悪な家庭環境で育ち、自分自身もコンプレックスが多く、あらゆる分野で能力の低い人間でした。

小学生のころは、家庭環境で惨めな思いをすることが多かったです。
マンガやドラマでよく見るような分かりやすいクズの父親とそれに苦労させられながらも私を育ててくれた母の3人で劣悪な環境の中育ちました。家族旅行なんかはろくに行った記憶がありません。母はパートで働き、父は働かずギャンブルをしたり母に暴言を吐いたり、家庭のお金のことでケンカばかりする両親を見て育ちました。子どもの頃は友達家族が羨ましくてたまりませんでした。中2のころ離婚し父は何年も前に他界していますが、未だ父親とも思っておらず憎くて仕方ないので墓参りはなどは一度も行っておりません。

家庭環境だけならまだしも、中学生以降は自分自信のことで苦しむことが増えました。
私はかなりの人見知りで外見も良くはなく、勉強はどれだけ頑張ってもクズな親の血を引いているため地頭が悪いせいか成績は伸びず、運動神経も悪かったです。
高校時代は中学時代をさらにひどくしたようなものでした。
周りがそれなりに年相応に恋愛経験もする中、私はそういったことは一切できず、仲が良く好きだった子には振られ、勉強も運動もできない、外見も良くない、若干チック症(変な癖)と外見的にも内面的にもかなりコンプレックスが多かったです。しかし根は明るいので、そこそこ友人はいました。私の悪い癖なのですが、そういった友人と自分を比べ、「自分はダメな人間だ」「どこまでいっても落ちこぼれだ」と、とことん自己嫌悪に陥いります。友人達と比べ全てのジャンルで圧倒的に劣っている自身の現状に苦しみ、このころから隠れてリストカットをするようになりました。

地元はド田舎だったため、大学で都会に出れば人生変わると思い勉強して進学しましたが、勉強しても頭は悪いので学費の高い私立のFラン大学にしか行けませんでした。

しかし大学時代の特に後半は地獄でした。
知り合いが1人もいない土地を選んだのは自分ですが、人見知りが激しく、大学はクラスはない上、サークルなども放課後はバイトのため入っておらず4年間で本当に1人も友達ができませんでした。地元の友人達はそれぞれキャンパスライフを楽しんでいる様子をSNSで見るのが苦しくて仕方なかったです。
大学時代の4年間が人生で一番後悔しています。
しかし、大学1.2年のころはバイト先で初めての彼女ができ、それほど深くは病んでいませんでした。後から考えてみれば、彼女のことだけ考えるようにし、自分の苦しい現状を直視せず現実から逃げていたのだと思います。

しかし2年生の後半にその彼女にも振られ、また孤独になり、直視していなかった現実を真正面から受け、潰されそうになりました。
なぜこうも自分ばかり辛い思いをしなければいけないのか、周りの友人と自分は何が違うのか。貧乏な家庭で育ち、お金もないため高い私立の学費は、将来の借金を覚悟して全て奨学金でまかない、そうまでして入ったFラン大学では友達もできず、キャンパスライフすら楽しめない。21の時にまたリストカットを始め、この頃から自殺観望が芽生えました。
自殺しようとは思ったのですが、あと一歩踏み出せず失敗して終わりました。そして母に電話して泣きながら死にたいと伝えました。
それから珍しく母と1時間電話し、まだ学生で社会人も経験していないから、とりあえず卒業して1年間は社会人をやってみて、1年後にまだ同じ気持ちならその時は本当に死ぬと母には伝えました。
しかし私は相変わらず落ちこぼれなので、就活も苦労しました。人見知りでろくに目も見れず緊張しがちなので何社受けても一次面接すら突破できませんでした。結果1社だけ受かりそこに営業として就職しましたが、給料の低いベンチャーのブラック企業でした。

社会人1年目もやはり私は落ちこぼれな上、環境も悪く辛い日々でした。
人見知りで人と接するのが苦手なくせに、文系大卒の男というだけで深く考えず営業職を選びましたが、仕事は自分には全く向いておらず何も上手くできませんでした。その上会社はブラックなので残業や休日出勤もある中で給料はとても低かったです。しんどいのは自分がまだ未熟だし、周りも同じように働いているからと頑張りましたが、自分でも気付かない内に限界だったみたいで、髪は白髪だらけになり、胃腸炎で高熱を出し寝込みました。自覚していませんでしたが、軽いうつ病でした。その後会社の上司や社長と揉め半ば強引に辞めました。
この時すでに今の妻と一緒に同棲していたので踏みとどまりましたが、もし独りだったなら間違いなくこの時に自殺していたと断言できます。

その後2度職を変え現在に至ります。
周りの友人は新卒から働いている会社でそれなりに立場のある人間になり収入も増えていく中、私だけ妻と子もいるのに年収は底辺レベルです。年収という明確な数値で友人と比べてしまいどんどん負の感情に陥ってしまいます。
年収を上げる努力をしろと周りは言いますが、今まで何をやっても、何度努力しても報われず失敗だけの人生だったので、そういった活力すら無くなってしまいました。
幼少期からなぜこんなにも自分ばかり辛い思いをしなければならないのか、なぜ自分ばかりこんなにも惨めなのか、なぜ自分はこんなにも生きるのが苦手なのかと考え毎日苦しいです。前世でよっぽど何か悪いことをしたんだろうなとそんなバカげたことさえ本気で考えてしまいます。
私は学生生活や社会人になってからの仕事や収入など決して高望みはしていません。ただ一般的な普通な人間になりたいだけなのに。
なぜみんなが当たり前にできていることが私はできないのか、自分が一番自分を許せません。
一番仲の良い友人が一番私の理想の人生を送っているため、なおさら比較して苦しんでしまい定期的に手首以外の身体中を刃物で傷付ける自傷行為をしてしまいます。正直私の心の闇は過去の部分が多く、もうどうしようもない上に、落ちこぼれな自分の将来にもこれからも何も期待できないため、早く死んでこの人生を終わらせてしまいたいです。よく来世に期待するといった表現がされますが、私は本気で来世に期待しています。未だに定期的に病んで、動悸が激しくなったり自傷行為をしたくなる衝動が抑えられなくなります。
私みたいな人間が夫や父になる資格はなく、早く死んで保険金を残してあげる方がよっぽど妻と子のためになると本気で思っています。

もちろん大学時代に友達ができず楽しめなかったことや、現状収入が低いことは私の努力や勇気が足りなかったのもあると十分理解しています。それでも自分の人生を今後自分が豊かにしていけると思えません。

私の心情は妻も知っていますが、妻はある程度裕福な家庭で育ち、勉強等苦労はしながらも努力して結果が報われてきている人生なので、なかなか私の気持ちは理解してもらえません。
過去のことなんか考えても何も変えれないのだから、これからのことを考えるべきと正論ばかり言われます。そんなことは言われなくても私が一番分かっているのですが、過去が原因で自分に自信が持てず、将来を向いて歩けない人間もいます。何度か過去のことは忘れて未来に向けて努力したことはありますが、全て上手くいかず、やはり自分はダメな人間なんだと自分を精神的に追い込むだけでした。

貧しい家庭とクズな父親の元で過ごし友達の家庭が羨ましかった幼少期、コンプレックスと激しい自己嫌悪で心を病み始めた中高時代、地元の友人を羨ましく思い、孤独の中自分の人生を振り返り、明確に死を意識し始め自殺未遂すらした大学時代、29歳大卒で都会で働きながらも年収はその年齢の平均を150万以上も下回る給料しかもらえない情けない自分、努力しても報われたことがないため、そういった活力すらなくなってしまった現状、他にもまだたくさん要因はありますが、とにかく死にたいです。惨めで耐えられません。自分が嫌いすぎるあまり、写真に写った自分すら見れません。自分を殺したくて仕方ないです。

今後10年、20年と生きなければならないと考えると絶望しかなく、8年付き合って年々大きくなるこの希死念慮を飼い慣らせる気もしません。
子どもがまだ小さいことと、自分の家系が複雑で入る墓もないこと、自殺で保険金を残すには3年の保険免責期間を過ぎてなければならないことなど、そういった身の回りのことを全て整理して35歳までには死のうと思っています。

長文読んでいただいてありがとうございます。
同じような人に共感してもらえたら嬉しいです。

感想1

投稿読ませていただきました。

以前の投稿も読ませていただいたのですが、両方の内容に一貫性があると感じたためか、あなたの苦しみの根源のようなものとその重みをずっしりと感じた私がいます。
一方で、今回の投稿は以前の投稿より具体的な(詳細な)内容が多く書かれているようにも感じられ、あなたがより深く自身の「人生を振り返って」いるのかと感じられました。それは単に時間が経ったからなのか、あるいは「言語化」することで「気持ちを整理」することができてきたからなのか、はたまた、苦しさに急き立てられて一気に出てきたということなのか、ほかに違った理由があるだろうか…などと、勝手ながら想像を膨らませています。わずかながらに感じるあなたの気持ちの変化がどういったものだろうと思いながら、いま感想を書いています。

あなたの小学生の頃の「家庭環境」は過酷な環境だったのだなと感じました。父親さんの「ギャンブル」や「暴言」、そこから生じる「ケンカ」を見させられる日々はあなたの心を傷つけただろうなと想像します。そうした環境にいては、周りの家族を羨ましく思う気持ちや父親さんを「憎い」と思う気持ちが(今も)生じても、何もおかしいことではないと私は思いました(ちなみに私の父もあなたの父と似たところがあり、私は父を憎んではいないのですが、亡くなってもお墓参りに行くことはないだろうなと思っています)。
そして、あなたにとって小学校から大学までの学校生活もまた苦痛が多い日々であり、「自己嫌悪」や劣等感でいっぱいだったのかなと感じました。あなたが言うように「家庭環境ならまだしも」というところだったのかもしれませんが、学校にも居場所がなく、安心して自分のままでいられる機会があなたにはなかったのかなと想像しています。そこに「孤独」が加わったのが「大学時代の後半」の時期であったのかなと思い、あなたにとってその時期はもはや自分を認めてくれる存在などこの世(現世)にいないかのような「地獄」だったのだろうと読んでいて感じました。そうして社会人となったあなたは「自分を殺したくて仕方ない」ほど自身を嫌って苦しんでいるように見受けられますが、「傍から見れば一見幸せそう」であることもあってか、周りからなかなかその苦しみや傷を理解されず、もしかしたらあなたもそれをどのように表現したり受け止めたりしたらいいかともがいているのかなとも感じます。そのやり場のない気持ちをここに書きに来てくれたのかなと思いました。

冒頭に一貫性があると書きましたが、あなたの経験談を読んでいると、誰かや何かと「比べる」という視点・枠組みが一貫してあなたにあるように私には感じられました。それはあなたが過酷な家庭環境にいたことで周りの家族と自身を「比べる」ことが習慣化したから、あるいは、「比べる」ことが自身を保つための処世術だったからなのかなと私は考えました。その習慣や処世術が学校での日々で強化され、さらに、社会人になっても強化され続けたことで、今もずっしりとあなたの中に君臨しているように私には見えています。そもそもこの社会は誰かと「比べる」よう要請されることが多く-たとえばSNSは常に誰かと自分の違いを見るように促しますし、テストの点数や友達の数など、数字で優劣があるかのように感じさせられることが多いと思います-それだけで苦しいと感じることがあると私は思っています。あなたにとって習慣や処世術に過ぎなかった「比べる」ことが、そうした社会システムと合致したことで、いつの間にかあなたを苦しめる大きな重石のようになっているのかと私には思えました。
これは考えすぎかもしれませんが、社会人としての「年収」の低さなどをもとにあなたが自身を「落ち込ぼれ」「情けない」と認識(評価)しているのは、幼い時に父親の「ギャンブル」をする姿や「お金」のことで両親がケンカをしている様子を見てきた経験=「お金」に振り回される世界で過ごしてきた経験と、なんらかの関係があるのかななどと考えた私もいます(またまたちなみにですが、私も父の「ギャンブル」に振り回され続け、私が大人になってからは私の稼ぎの少なさを周りと比べてみろと言われることがありました)。

このように見てみると、あなたが様々な尺度で誰かや何かと「比べる」ようになったのは、あなたが生き延びるために必要だった視点・枠組みだったのかなと感じますが、一方でそれはこの社会では強化され続けるものでもあって、過度に強化され過ぎると(個人の「努力」や「勇気」でなんとかするものであるというメッセージが社会にあることも相まって)人を苦しめるものとなってしまうのだろうと思いました。そうだとすると、私は過度に「比べる」ことを求めない社会であってほしいなと感じます。どういうことかというと、あなたが書いてくれた中で言うと、たとえば「奨学金」は教育費が無料の国・社会もあるので(実態を見たことがあるわけではないのでわかりませんが)そうした社会では少なくとも進学において家の「お金」の問題で誰かと「比べる」ことが過度に生まれることはないのではないかと考えたりしたのです。「年収」が低いことで「情けない」と思うのも、学歴主義やジェンダーの問題=大卒の男性はこのくらい稼ぐべきという誰が決めたのかよくわからないメッセージがあふれる社会だからであり、そうしたことと関係のない社会の姿もこの世界にはあるのではないかと私は考えます(日本は「勝ち組」「負け組」などという言葉があるように根深い学歴主義社会であると感じますし、ジェンダーギャップ指数が低いことは有名かと思います)。押しつけがましいかもしれませんが、、私にはあなたの「比べる」視点・枠組みはあなたの幼少期の傷から身に着けたものでありつつも、社会のメッセージを浴び続けてきたことで過度に膨らませられたものだと考えてみてほしいなと感じました。そして、あなたの「過去が原因で自分に自信が持てず、将来を向いて歩けない人間もいます」という吐露に見られるような、人間の弱さを分かち合える社会、多様な価値観があり、固定された「普通」などに縛られない社会であってほしいと感じています。
少しずれた感想になってしまったかもしれません(申し訳ないです)。ただ、あなたの投稿に一貫性があったように(その影響を受けてか)私の感想もある意味で一貫性があるものとなったような気がします。すなわち、あなたが過度に「比べる」ことになったのは過去の傷と、社会がそういうシステムであるためであって、あなたのせいではないこと。でもそれがあなたをきっと苦しめているとも思うため、あなた自身の傷や違う社会の在り方、いろいろな価値観や考え方・声に触れてみてほしいということだったと思います。もしかしたら余計なお世話できれいごとかもしれず、何かがすぐ解決するような話ではないのですが、似たような父のもとで育った身としてあなたの苦しみに思いを馳せつつ、率直に感じたことを感想として書かせていただきました。またよければ書きに来てください。投稿ありがとうございました。

感想2

周囲と比較する眼差しを自分に向けてしまうことが生きづらさのポイントのように感じつつ、それは自分でもコントロールできないものなのだろうな…という感覚を強く抱きました。
そういう感覚があるのは、私自身も比較する眼差しに苦しめられた時期があり、そこから抜けられたのは自分の力ではなく環境(関わる人)の力だったと感じているからです。また、私は10年以上希死念慮と付き合っていて、徐々に飼いならす(まさにこの表現を自分でも使うことがあったので、そこに惹きつけられてこの経験談を読みました)ことが出来たと自分では思っているのですが、それは「比較する」眼差しから解放されたのが大きかったのかもしれないとふと気づきました。(自慢?のように見えたらすみません…そういう意図ではなく、あなたに起こっている問題が、あなたの力の問題ではないという説を提唱したくて、その根拠として書いています)
「クズな親の血を引いている」「あらゆる分野で能力の低い」といった表現には、あなたが自分に刺してきた刃の鋭さ、その傷の深さを感じ、それが精神的なリストカットであるイメージも浮かびました。あなたが、どうしていいかわからない、自分にはどうにもできない状況の中で、痛みに一時的に集中することが、自分を守るための方法だったのかな…とも私は感じました。

現状収入が低いことは努力や勇気の不足の側面があるとあなたは書いていましたが、私は収入というのはほとんど巡り合わせの問題でしかないと思っています。例えば、(実際に見ていたわけではないですが)バブルの時代は、努力や勇気がなくとも就職でき、生きていくのに十分な収入を得られました。今の時代で私の周りを眺めても、努力をして仕事のパフォーマンスの高い人よりも、ただ年齢が高いというだけの人が収入が高いことが全然あるし、社会の理不尽をなくすべく生きる人の努力はほとんど金銭につながらず、無邪気に無自覚に弱者から搾取できる人の方が裕福になれます。(仕事ができる=偉いとは思いませんし、どんな人にも安心して生活できる保障があるべきだと私は考えますが、収入は努力とさして比例しないのだとはとにかく感じています)
このような一般論を並べたところで、あなたの抱える自己否定感が慰められるわけではないだろう(むしろさらに絶望的な気分になるかも…)と想像はしているのですが、収入=努力の問題じゃないとはどうしても主張したくて、書いてしまいました。

「過去のことをいつまでも考えても仕方ない、これからのことを考えよう」というような言葉は世間で言われがちですが、私はこの言葉は的外れだと考えています。
過去を引きずる引きずらないは、意識で変わる問題ではなく、過去のつらい感情を何かしらの形で放出できたかの問題だ、というのが私の説です。放出法は、仕事にエネルギーを向ける形、恋人に気持ちを受け止めてもらう形、親に怒りをぶつける形などいくつかの方向性があるのだとは思いますが、私は「自分が悪いわけじゃなかったのだ」と人生を意味づけし直すというのも一つの(私的には一番おすすめの)形だと感じています。そうすると、ネガティブな気持ちが自分の中に行き場なく留まり続ける状態から、時に激しい怒りや涙やらとなり、誰かにそれを伝える中で何かが浄化されていった経験が私にはあります。私には、あなたがどれほど泣いても怒っても足りないくらいに、これまで苦しみを自分の中に蓄え続け、それがまだ癒されずにいるように感じました。
また、あなたが人生を振り返って言葉にする作業をこうやって試みているのは、気持ちを誰かとシェアしたり違う見方を知ったりすることで、自分の人生に価値があるという側面をつかみ取ろうとしている行為にも私は思いました。実際にあなたの(誰しもの)人生に、誰かにとっての価値はあると私は思っているし、今ここにある私の言葉があなたの語りによって生まれたのは一つの事実で、それは私にとっては意味のあることでした。
自分が何か優れているとか、役に立ったという話よりも、ただ自分が存在することが誰かの何かを動かすことができるのが、私は人の価値だと思っています。
死にトリがこうやって存在し続けられていること自体、死にトリを使ってくれる人の存在あってのことです。だから、利用してくれてありがとうございます、と伝えて、この感想を終わらせてもらいます。自分の語りたいことばかり語る長文失礼しました。

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