私は小学生から中学生までいじめを受けながら学生時代のほとんどを過ごしました。
小学校に入学すると同級生に女の子は一人しかおらず、あとは全員男の子という人数のバランスが悪いクラスでした。
小学3年生になる前の話だったと思います。
唯一の同級生の女の子が転校してしまうことになりました。
それまではクラスの男の子から嫌な事をされても、その女の子がいたから耐える事ができました。
私は心の拠り所だった存在を失うことになりました。
下の学年や上の学年にも女の子は勿論いましたし、お話をする機会もありました。
しかし、本来いた筈の「同い年の女の子」がいないという事は私にとって生きづらさを形成するベースになったと思います。
私はコミュニケーション能力がとても低いと人生の様々な場面で痛感してきました。
その代表的な例が中学校への進学でした。
それまでの同級生に女の子がいなかった環境とは打って変わって、今度は男の子も女の子もバランスよくクラスに割り振られます。
それまでクラスに男子しかいなかった環境から急に増えた女子という環境に対して戸惑い、どう振る舞えばいいか分からず結局私は孤立してしまいました。
最初は孤立だけで済んでいましたが、途中からそこにからかいや少し暴力的な部分が混ざるようになってきました。
私は連続していじめを受けてしまい、小学校に続いて中学校でも登校拒否をしてしまいました。
幸いにも高校はいじめには遭わず、比較的穏やかな高校生活を過ごす事ができました。
でも、幼少期や児童期に経験した事は成人してからも影のように付いて回ります。
ふとしたときに思い出すこともあれば、眠りについた後の夢の中に当時のいじめをしてきた人が浮かび上がることもあります。
それだけではなく、社会人として働き始めた後だってその経験は消える事はありません。
私は未だに人に向かって挨拶をすることがとても苦手です。
新卒で入社した会社に挨拶をしても無視をする先輩がおり、何度も挨拶をしてみましたが挨拶は返ってきませんでした。
気がつくと挨拶をすることが怖くなっていました。
その後、一緒に働く人に対して怯えてしまい挨拶すら緊張して声が出せないこと…
それを指摘されたことがありました。
職場の先輩や同僚に
「何だ、そんなことでうじうじしているの?」
「挨拶くらいすぐ終わるんだから一言話せばいいだけじゃない」
「自分に自信がなさすぎるんじゃない?」
こんな言葉を様々な人からいろんな場面で掛けられてきました。
皆さんのいう「そんなこと」を気にしてしまいます。
「自信」がどうすれば身につくのか、分かりません。
皆さんが軽々と過ごしている日常すら、私には苦しくてたまらないものになります。
人によって物事の捉え方は違います。
育ってきた環境によっては誰かが言う「そんなこと」は高い壁にもなり得ます。
思いを言葉にする前に
思いを行動に起こす前に
一呼吸を置いて「私と目の前にいる相手は違う」ということを感じて欲しいと思います。
近頃、いじめに関わる話がニュースや新聞に上がる度にこんな意見がよく聞かれるようになりました。
「いじめを受けた被害者だけがカウンセリングを勧められたり、転校や引っ越しでその場から逃げなければならないのはおかしい。加害者こそカウンセリングを受けて心の問題を解消したり、何らかの措置を受けるべきだ」
私もいじめの渦中にいた頃は「どうして私ばかり」と被害者意識が強くなっていました。
でもこの意見を知って、もしかしたらいじめを行ってきた人も何かしらの生きづらさを抱えていた人たちだったのではないか?と感じました。
小学生から中学生にかけて受けたいじめの実行者も。
社会人になってから挨拶を無視したり、心無い言葉を浴びせかけてきた人も。
そう考えると、メンタルケアが必要な人はもっと多いのでしょうね。
社会人になってから、そのことを強く感じました。
スーパーに買い物に行くと偶然目が合った知らない人に体当たりされたことがありました。
幸い怪我もなく買い物を済ませて帰る事ができました。
しばらく経ってからニュースで「ぶつかりおじさん」という存在を知りました。
私にぶつかってきた方は女性だったので「ぶつかりおばちゃん」かな?
私ってこういう場面でもターゲットになっちゃうのか~と後から心の中で苦笑いしました。
でも、このぶつかりおばちゃんだって生きづらかったのかな?と思う事ができました。
もちろん、自分が生きづらいからと言って人に体当たりはいけません。
でも、人の態度や行動の背景を落ち着いて考えてみると少しだけ気持ちが楽になるという事を知りました。
ぶつかりおばちゃん、身をもって教えてくれてありがとう。
感想1
投稿を読ませてもらいました。いじめの経験にしても、職場で感じる違いにしても、ぶつかりおばちゃんの件にしても(!)、一歩引いて「生きづらさ」という視点から捉えているような書きぶりが印象的でした。そして、いわゆる被害者・加害者の立場に置かれてしまう人が、もし生きづらさという点で近しいものを抱えているのだとしたら、どうしてそんな形で表出されてしまうのだろうというやるせなさも感じていました。
投稿を読んで、自分に生きづらさを押し付けてくる人(加害者という言葉は個人的に強く感じたので……)の生きづらさについて考えてみたくなりました。もちろん、そういう人の振る舞いを正当化するつもりはありません。ただ、『人の態度や行動の背景を落ち着いて考えてみると少しだけ気持ちが楽になる』という投稿者さんの言葉を見て、自分も少しその考えにあやかってみたい気持ちになりました。
学校や会社、スーパーも、広く公共的な空間として捉えるとすると、いじめの実行者やぶつかりおばちゃんは、そこで自分の居場所を得るため、誇示するために、他者に悪意を差し向けているのだろうか……と投稿者さんの話を読みながら考えていました。挨拶を無視する先輩に関しては自発的に悪意を向けるのとは少し違うような気もしましたが、会社の中での立ち位置というより、先輩後輩という関係性の中で、自分の優位性をふりかざしていると考えられるかなと思いました。居場所にしろ、優位性にしろ、他者を傷つけることによって獲得しようとするのはふつうのことではないと思うので、それくらいに切羽詰まっていることのあらわれなのかもしれません(だからといって正当化していいわけではありませんが……)。投稿の中で、挨拶にまつわる「自信のなさ」について書かれていましたが、それも、いじめ等の形で他者から生きづらさ(自信のなさ)を押しつけられてきた後遺症のように自分には思えました。
卵が先か鶏が先かみたいな話になりそうですが、「挨拶」を「そんなこと」だと思えるのは、挨拶を返してもらえるという場に対する信頼があってのことだと思いますし、場に対する信頼があるからこそ自信が身につくものだと自分は思っています。場に対する信頼を投稿者さんはこれまでの経験で何度も壊されてきたのではないかと思います。そうすると、自信がつかないというのもそうですし、場に対する不信感が募ってますます自信がつきにくい構造になっていくのではないかと思いました。
それから、もし自分が誰かから挨拶への恐怖感をこぼされたとしたら……と投稿を読んで想像していたのですが、この場は相手にとって安心できない空間だったのかな……と反省モードに入りそうな気がします。なので、自分もたぶん「そんなこと」と思えない側っぽい……という気づきがありました。それと同時に、傷ついてきた後遺症が、個人の問題としてでなく、場との摩擦の問題として、そして場全体で向き合うものと捉えられるようになったらいいなあと、「そんなこと」と思えない側として思いました。
最後になりますが、経験談の投稿ありがとうございました。よろしければ、またお待ちしています。