経験談

生きづらさを感じる人が語る 経験談

経験談はそれぞれの投稿者の個人的な価値観や感じ方をそのまま掲載しています。一部、リアリティのある描写や強い価値観が含まれるため、読む人にとっては負担等を感じる場合もあります。各自の判断で閲覧してもらえるようにお願いします。

希死念慮と過ごしている

ずっと漠然と死にたいと思い続けている。
一日でも、一分一秒でもいいから早く死にたい。
だけどなにか行動を起こすわけでもなくて、漠然と日々を過ごしている。
楽しいと思うことはある。
推しだっているし、好きなものだってある。
だから無気力になることはない。
特別に辛い出来事があるわけでも、多分ない。
だけど、いつだってふとした瞬間に死にたいと思ってしまう。

家族もいる。友人もいる。
みんな私に愛を向けてくれていると思う。大切にされていると思う。
思うけど、それが正しく受け取れない。
周りにいる人達は全員素敵な人たちだ。
だからこそ疑ってるわけでもないのに受け取れないのが本当に申し訳なくて、つらい。
でも私は自分のことが大嫌いで、この世に存在する価値なんてないと思っているから、やっぱり与えられた愛を大切にできない。

自分のことが嫌いな理由のひとつに、産みの母親に捨てられたという経験が大きく作用しているんだろうなと思う。
家族で暮らしていたアパートの一室に、下の兄弟と閉じ込められていた、らしい。
3歳だとかそこらの記憶だから、自分の記憶は曖昧だ。
部屋の窓から助けを求めた記憶はふんわりとあって、祖母から聞いた話とも一致している。
ただ、祖母は母のことが嫌いだったから私に伝わっている話に誇張された部分もあるだろうな、と思うけれど。
事実その頃の記憶を最後に母は私の人生に一欠けらも存在していない。
産みの親にも不要とされる私が、誰かに必要とされるわけがないじゃん。
勿論すべての母親がこどもを大事にするわけではないということはわかっているけれど、それでもそう思ってしまう。
実質一度そこで死にかけているようなものだし、数年前に病気で死にかけもした。
だからいまの人生は二度目の延長戦である。
その時に死ねていればよかったのにな。

前述の通り私には推しがいる。
ひとりやふたりじゃない。
アイドルにも、実況者にも、二次元にも、たくさん。
だからほとんど毎日【いいこと・楽しいこと】は起きる。
彼らを消費して娯楽を得ている。
だけど死にたいと思う。
同じく前述の通り、家族や友人もいる。
家族仲はいい。
家族揃ってテーマパークにだって行くし、父と二人だけで出かけることだってある。
兄弟と出かけることだってある。
定期的に遊ぶ友人も数人いる。
直接会えなくてもSNSやSkypeで頻繁にやりとりを交わすような友人達だ。
プレゼントのやり取りに添えられた手紙で、その度に大好きだよと伝えてくれる友人だっている。私も好きだ。
彼らに大きな迷惑をかけてしまうまえに、消えてなくなりたい。
いや、恐らくもう既にかけているのだけれど。
私はうまく返答もできない。
グループラインでは頻繁に私の書き込みを最後にやりとりが止まる。
自分の書く内容が悪い自覚はあるから、そうなってしまうとただただ申し訳ない。
楽しそうなやりとりを邪魔したくないから、ここ最近はグループラインを開く事すらできなくなってしまった。
読むくらいはすればいいのに、それすらできない。
自分が蚊帳の外だと疎外感を感じて一丁前にダメージを受けるからだ。
そんな自分にも嫌気がさす。

なんで生きているんだろう。
楽しいことはあるけれど、それが永遠でないことも知っている。
明るい未来だって、想像できない。
自分は一生誰かと添い遂げることはないだろうし、そういった願望もない。
いまの政治を鑑みてより良い未来があるとも思えない。
そういったことを踏まえて、やっぱり考えてしまうのだ。
いま、これを入力しながらも。
早く死にたい。

感想1

タイトルの希死念慮と「過ごしている」という表現に興味を惹かれました。たとえば「抱えている」「感じている」などいろいろな表現があると思うのですが、自分にとってはどうだろう?と思うと私自身と希死念慮の付き合いを考えても希死念慮と過ごしているという言葉はしっくりくるかも、という感じがしました。
それから、本文を読んでいって、ほかにもあなたの言葉のこまかな表現になるほど…と思うことが何度もあって、きっとあなたは言葉への感受性がとても高い方なのだろうなと思いました。

向けてくれているはずの「愛」を「正しく受け取れない」という部分もあなたの実感からでた言葉なのだろうなと感じました。「自分を嫌いである」というあなたの気持ちと、向けられている「愛」の間に大きなギャップがあるのだと思います。私にはなにが正しいかといったことはあまりよくわからないですが、あなたが「できることなら周囲の人たちの思いを受け取りたいのに」という願いや祈りのようなものが込められた言葉のようにも感じました。

あなたを産んだ母親さんにどういう状況や背景があったのかわかりませんが、「アパートの一室に、下の兄弟と閉じ込められていた」という状況はとても切迫したものだったと思います。その状況の中で3歳のあなたは、本来であればケアされるべき日々をそうはされないまま、なんとか生き延びてきたのだろうと思います。私は子育ての経験がないのですが、周囲を見ているととても大変で、それが親だけに押し付けられがちな状況の中で、親が子を大切にできない場面がものすごくたくさんあることを感じています。もちろん、だからといって子どもが我慢しなければいけないということではもちろんなくて、むしろ本当ならもっと社会の中で親に限らず、家族に限らず、子どもが大切にされる状況が必要だと感じています。
ただ実際にあなたの幼少期はそのようなものではなく、また祖母さんと母親さんの関係もよくなかった中では、あなたは祖母さんからいろいろと聞かされることもあったのかなと思いますし、その中で「産みの親にも不要とされる私が、誰かに必要とされるわけがないじゃん。」という認識が幾重にもあなたにかぶさっていったのかなと想像しています。
あなた自身も書いているとおり、私はその認識の裏には「親であれば子どもを大切にするはず」とか「大切なら子どもを閉じ込めたままにしないはず」といったイメージがあるのかなと思いました。私は、やはりそれらについては、「そういう場合もあれば違う場合もある」と思っています。でも、何度も繰り返された認識は頭で考えれば違う意見を言うことができたとしても、自分では変えることが難しいということもあるなと思います。(私もあなたの状況とはまた違うのですが、幼少期から感じてきた罪悪感みたいな認識があり、それは今も頭から消えないです。)

それらの認識を前提にする人間関係は、いつもたくさんのことに気をつけなければいけないし、安心して過ごすこともとても難しくなってしまうだろうと思います。好きな人たちの愛を「受け取りたい」という気持ちや「迷惑をかけたくない」という気持ちは、その人たちを大切にしたい、尊重していたいという意識の中で感じているものでもあるのかなぁと思いました。グループラインもあなたはあなたの書き込みが問題のあるものだったのか、大丈夫だったかをずっと気にかけてきたのだと思いますし、それはとても疲れることなのではないかと思いました。楽しいもの、好きなもの、大切なものはあなたの支えにもなりつつ、それらに誠実であろうとすると、自分自身の振る舞いが一層難しくなってしまうというスパイラルもあるのかなぁと想像しています。

私も国内や国外の政治の状況を見ていても、しんどいことが日々いろいろとあって、未来への期待を持てないと感じることはかなり多いです。一方で、私も好きな作品を消費することで楽しみを獲得しているタイプなので、そういうものの「明日になったら見られる」「来週公開」みたいな小さな未来に助けられていると感じることもあります。
あなたが希死念慮と過ごしている日々のことも、身近な人には言いづらい場合もあるのでしょうか。私は相手の反応に気づかなくて嫌な気持ちにさせてしまうことの多い方なので、無神経な表現や不躾な感想になっていたらすみません。私はあなたが考えてきたことの積み重ねが垣間見えるこの経験談を読めてうれしかったです。死にたい気持ちの中で、死にトリに投稿してくれてありがとうございました。

感想2

経験談の投稿ありがとうございます。淡々と書かれている印象をまず抱きましたが、その中にも深い孤独感(物理的に孤独ということではなく、抱く感覚や感情が周囲との繋がりからは隔絶されているような…)や、過去の経験による影響がじんわりとあなた自身を蝕んでいっている、そんなイメージが浮かんできました。「漠然と死にたい」という感情がずっとつきまといながらも、それでもなお生きるあなたの複雑な心情が表現されているなと思います。
日常生活を送る中には、楽しさを感じられる時間や推し、家族や友人との繋がりが確かに存在していて、それでもそれが永遠ではないことをふと気づかされるたびに、「死にたい」という気持ちが顔を出してくるのかなと感じました。“漠然とした死にたさ”と“確かにある心の支え”を両立した状態で生きていくことは、いつそのバランスが崩れるか分からない不安定さもあるよなと私は思います。何となくですが、推し含めて楽しいと感じられる時間もあって、身近な人との繋がりもあるのに、それでも“死にたい”と思ってしまうことへの負い目もずっとあなたの中にあるのではないでしょうか。(全然違っていたらすみません)
産みの母親から捨てられたというあなたの経験は、自分の存在や価値を否定してしまうのに十分なことだと私は感じました。本来得られるはずの心の安心や愛される土台がどこか欠けてしまうと、愛情を注いでくれたり、大切にされていても「正しく受け取れない」のは自然なことであって、あなたが悪いわけでもないし周囲の人に対して申し訳なく思いすぎる必要はないということを伝えたいです。あなたとは状況は異なりますが、私も親との関係性で心の土台がだいぶ脆いので、自己否定することで心の安定を図っているところもありますし、自分を保つためにはそうするしかなかったところがあるので、もしかしたらあなたもそういった部分があったりするかもしれないなと勝手ではありますが考えていました。
あなたの文章から、出口の見えない暗闇の中にいるような感覚はありながらも、その中で小さな光を探しているところもあるのではないかなと想像しています。無理に生きたい・生きなきゃと思う必要はないと私は思っていますし、あなたの「早く死にたい」という思いも静かに受け止めたいなと思いつつ、こうして心の内を言葉にしてくれたことは、何かしらの変化を求めてのことだったりするのかなとも思い、死にトリに投稿しようと思ったのはどうしてなのかなと気になりました。
私も長いこと死にたい気持ちを抱えながら今日も生きているという状態ですが、特に理由がなくてもふと死にたい気持ちが強まる時もありますし、きっとこの抱く死にたさは消えてなくなることはないのだろうと思うこともあります。自分の抱く感情(矛盾している状態も含めて)の取り扱いは本当に難しいなとあなたの経験談を読んで改めて感じているところです。何だか一方的に自分の感じたままに感想を書いてしまい感想らしい感想にもなっていないかもしれませんが、また少しでも何か自分についてお話したいと思った時や聞いてほしいなと感じた時は、いつでも死にトリに声を届けてほしいです。お待ちしています。

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