経験談はそれぞれの投稿者の個人的な価値観や感じ方をそのまま掲載しています。一部、リアリティのある描写や強い価値観が含まれるため、読む人にとっては負担等を感じる場合もあります。各自の判断で閲覧してもらえるようにお願いします。
私は地元の人間の大半が嫌いです。上手く言葉で表せないんですけど、とにかく独特でした。なんかおかしいんですよね。そんな人間達やコミュニティに幼い頃から馴染むことができず、理由をつけて仲間外れにされたり、ずっといじめられ続けました。私の地元は郷土愛が強い人ばかりなようで、地元から出ずに生活してる人、一旦出たけど戻ってきた人が多いです。いわゆる”陽キャ”の人がそんな感じです。そいつらには「人生が充実している者特有の陰湿さ」があり、未だにSNS上で本人達にしかわからない内輪ネタで学生時代浮いていた子をバカにしたりしています。正直、いつまでたってもガキ臭い愚か者の集まりとしか思えません。そいつらだけではなく、比較的私と仲が良かった?子たちも日によって態度が変わったり、言い間違いなどの揚げ足取りをしたり、集団でしつこくからかってきたりと、とにかくめんどくさくて一緒にいるのが苦痛な子達ばかりでした。あと、自分の嫌いなものを声高に主張する人が結構多くて、その度に心が痛んで苦しかったです。
ここまで一方的に文句を垂れ流してしまったのですが、一方の私は発達障害持ちです。診断がついたのはほんの数年前です。きっといじめられたのもその特性が大きな原因の1つなんだと思います。だって実際周りの顰蹙を買うような言動をたくさんしてしまったから。自覚してないところで相手に嫌な思いさせてることだってきっとたくさんあるはずです。だからいじめられたり避けられたんだと思います。実際言われました。「自分が悪いところあったんでしょうね」って。
でも、考え方が少し変わった出来事がありました。抱え込んだまま持て余した膨大なトラウマを話す機会が訪れた時のことです。私の受けたいじめの内容を話すと、「同級生の子達クセ強すぎるね…」って言ってもらえたんです。その瞬間、(環境が悪かったって部分もあったのかな)と、自分の中に新たな視点が生まれました。それまでずっと、相手があんなことをしてくるのは自分が悪いから、自分に原因があるからだ、と自分を責め続けていたからです。それからは、地元と地元の人間達を恨むことができるようになりました。そんな私も地元から出られていないのにね。でもいつかは、こんなクソみたいな街から出てってやるからな。
ここまで散々地元をこき下ろしてきました。
でも私は発達障害者。結局どこに行ってもいじめられてたような気もします。「おかしい」「独特」だって向こうからしたらこっちのセリフだよ!って思うでしょう。陽キャの同級生への文句だって、世間的にはきっと勝ち組を羨み妬む負け犬の遠吠えにしか見えないはずです。
でも、確かにあの場所は私にとってはおかしかった。居心地は悪かった。人間性に問題があると感じられる人ばかりだった。
もう、わかんなくなってきちゃいましたね
悪いのは、結局誰なんでしょうか
感想1
「悪いのは誰?」というタイトルに興味を惹かれて経験談を読みました。
自分が悪いと思って縮こまっていたあなたの気持ちが、そうじゃないかもという視点を手に入れたことで、力を取り戻しつつある印象を受けました。
嫌いなものを嫌いだと思えることは、大切なことだと私は感じています。好き嫌いの感覚は、好き=それに近づく方が幸せに生きられる、嫌い=逃げたり拒んだりした方が安全に生きられる、という、自分の信じてあげるべきセンサーのように私は思っています。
だから自分を傷つけた人たちを嫌うのは自然な感情だと思いますし、それをこれまで押さえつけていたのだとしたら、あなたの心身には随分負担がかかっていたように思います。
あなたの地元はあまり都会ではない感じなのかな、と私はイメージしています。というのも私自身、地元から出ない人や一旦出て戻ってくる人が多く、ちょっと陽キャっぽい雰囲気の土地を二か所経験していて、片方は地方都市、もう片方は人口一万人程度の町だったからです。(私は人間関係が希薄なので、遠巻きにその空気を見聞きしているだけすが)
郷土愛が強いというよりは、身内のノリで生きてきたから、他のところで上手くやれないだけなのかなあ…なんて私は思ったりします。私は傷つけられたことがあるわけじゃないので、それを嫌いとまでは思いませんが、合わないとは感じるし、あなたも単に合わないのだろうと(つまりあなたが悪いわけじゃないと)感じています。
そもそも、どんな非や至らないところがあったにしても、いじめていい理由にはならないとも私は思います。
自分で受け止めきれない苦しい経験があったとき、何を悪者に設定するかは、大きなポイントである気がしています。私は、自分が悪い→自分が悪くないかも?と気づいてから、結構人生が前向きな方に変わりました。一時は、恨みが暴走して苦しいときもありましたし、今も時々ありますが、誰が悪いのかは別として、「自分が悪いわけではない」という感覚が、人の回復にとって大切だと感じています。
だから、私は「悪いのは誰?」の問いには、「あなたではない」とだけ言い切りたいと思います。
私はほどほどに、自分を傷つけてきた人を恨んだり、でもそんなことしかできない可哀想な人だと同情してみたり、だとしたら社会がただ哀しいのかなあなんて思ったり、全部神様が悪いだろと神様のせいにしてみたり、色んな意味づけを行ったり来たりして生きています。
「でも、確かにあの場所は私にとってはおかしかった。居心地は悪かった。」という言葉は、すごくすっと私の中に入ってきました。
人間は自分を責めたり周りを責めたり、何かしらの絶対的正しさを求めたがる生き物だと思うのですが、「自分にとって」どうだったのかを、自分は一番大切にしてあげよう、と思いました。
感想2
文章を読んで、否応なく身を置かれる「地元」で、長い間人間関係に違和感を感じてきたこと、またご自身の苦しさの原因は一体誰にあるのかと、ずっと問い続けているあなたの姿を想像しました。
確かに、地元の雰囲気って言葉にするのが難しい気がします。感想を書いている私の地元は地方都市の田舎なのですが、文章の中で語られていた描写には思わず共感してしまう部分が多々ありました。「郷土愛が強い人」というのは、言い得て妙だなと感じています。また、「自分の嫌いなものを声高に主張する人が結構多くて、その度に心が痛んで苦しかったです」との部分は、当時の自分の息苦しさを代弁してもらったように感じて、勝手ながら救われたような気持ちになりました。昔馴染みの付き合いが「いいこと」のように語られる風潮も、居心地の悪さを感じている人にとってはさらに疲弊するように感じます。
嫌だと思っても離れることが難しいコミュニティの中で、キャラクターで優劣や上下関係ができてしまったり、わずかでも馴染めないと途端に槍玉にあげられてしまったり・・あらためて集団の力の怖さを感じるとともに、その中を生き抜いてきたあなたの苦労を労いたい気持ちになっています。
ご自身の特性にも触れ、長い間「自分が悪いから」「自分に原因があるから」という気持ちの中で苦しんでこられたことも、胸が詰まるような思いで読みました。そんな中で、他者の一言から、パラダイムシフトのように自分の経験を捉え直し、新しい視点が生まれたことには少しだけ安心した気持ちになりました。一方で、悪いのは誰?というタイトルに、今もなお「やっぱり自分が悪いのかもしれない」という拭えない疑念とともに揺れているのかなと想像しています。(あなたの気持ちと違ったことを言っていたらすみません)
「誰が悪いのか」とジャッジしようとすることは、それぞれの「事実」とするものがある中でなかなかに難しく、果てしない問いのように私は感じました。それでも、あなたが傷ついてきたこと、苦しいと感じてきたことは、誰も否定できない「事実」だと私は感じました。なので、終盤の「でも、確かにあの場所は私にとってはおかしかった。居心地は悪かった。人間性に問題があると感じられる人ばかりだった」という部分は、大手を振って後押ししたい気持ちでいます。
なかなかモヤモヤが晴れない中でもあると思いますが、またよかったらお話を聞かせて下さい。経験談への投稿ありがとうございました。
感想1
「悪いのは誰?」というタイトルに興味を惹かれて経験談を読みました。
自分が悪いと思って縮こまっていたあなたの気持ちが、そうじゃないかもという視点を手に入れたことで、力を取り戻しつつある印象を受けました。
嫌いなものを嫌いだと思えることは、大切なことだと私は感じています。好き嫌いの感覚は、好き=それに近づく方が幸せに生きられる、嫌い=逃げたり拒んだりした方が安全に生きられる、という、自分の信じてあげるべきセンサーのように私は思っています。
だから自分を傷つけた人たちを嫌うのは自然な感情だと思いますし、それをこれまで押さえつけていたのだとしたら、あなたの心身には随分負担がかかっていたように思います。
あなたの地元はあまり都会ではない感じなのかな、と私はイメージしています。というのも私自身、地元から出ない人や一旦出て戻ってくる人が多く、ちょっと陽キャっぽい雰囲気の土地を二か所経験していて、片方は地方都市、もう片方は人口一万人程度の町だったからです。(私は人間関係が希薄なので、遠巻きにその空気を見聞きしているだけすが)
郷土愛が強いというよりは、身内のノリで生きてきたから、他のところで上手くやれないだけなのかなあ…なんて私は思ったりします。私は傷つけられたことがあるわけじゃないので、それを嫌いとまでは思いませんが、合わないとは感じるし、あなたも単に合わないのだろうと(つまりあなたが悪いわけじゃないと)感じています。
そもそも、どんな非や至らないところがあったにしても、いじめていい理由にはならないとも私は思います。
自分で受け止めきれない苦しい経験があったとき、何を悪者に設定するかは、大きなポイントである気がしています。私は、自分が悪い→自分が悪くないかも?と気づいてから、結構人生が前向きな方に変わりました。一時は、恨みが暴走して苦しいときもありましたし、今も時々ありますが、誰が悪いのかは別として、「自分が悪いわけではない」という感覚が、人の回復にとって大切だと感じています。
だから、私は「悪いのは誰?」の問いには、「あなたではない」とだけ言い切りたいと思います。
私はほどほどに、自分を傷つけてきた人を恨んだり、でもそんなことしかできない可哀想な人だと同情してみたり、だとしたら社会がただ哀しいのかなあなんて思ったり、全部神様が悪いだろと神様のせいにしてみたり、色んな意味づけを行ったり来たりして生きています。
「でも、確かにあの場所は私にとってはおかしかった。居心地は悪かった。」という言葉は、すごくすっと私の中に入ってきました。
人間は自分を責めたり周りを責めたり、何かしらの絶対的正しさを求めたがる生き物だと思うのですが、「自分にとって」どうだったのかを、自分は一番大切にしてあげよう、と思いました。