経験談

生きづらさを感じる人が語る 経験談

経験談はそれぞれの投稿者の個人的な価値観や感じ方をそのまま掲載しています。一部、リアリティのある描写や強い価値観が含まれるため、読む人にとっては負担等を感じる場合もあります。各自の判断で閲覧してもらえるようにお願いします。

自分の考える事全てが信用ならない

受験勉強真っ只中の時期にもなって将来の焦りと単純に勉強不足からの追い込みで消えてしまいたくなっている。

高校生になってから人付き合いが苦手な私は学校での話し相手がほとんどいなくなってしまった。(家族には恵まれているし比較的気楽に過ごせるが、心の内を晒すような踏み込んだ話題は勇気が出ずに話せない)
最初は友達がいなくて学校生活がつまらない……さみしいよぉ……ぐらいに考えていたけれど、人と話せない現状に納得するために「みんな私には興味がない」「そもそも私がいると気まずい空気になるだろうし居ないほうがみんな幸せだ」なんてだんだんと歪んだ認識を抱き始めてしまった。
何に対しても面倒くさがりで、学生なのに真面目に勉強をしない。そのくせ神経質で回避の傾向もあって傷つくのをとても恐れる。自己愛には溢れているのに自己受容をまるっきりしない。ちょっとした勘違いから場違いな行動をするたびに「今すぐにでも死ね!」なんて自分に頭の中で命令してしまう。ほんとうに極端過ぎる自分に呆れる。

そんな生活を変えようと高一の秋頃、部活に入ってみるものの、途中から入ったことでの周りからの遅れのコンプレックス、自分には全く関係のない部員の愚痴への疲労、挙句には定期演奏会のための協賛金集めで個人経営店へ広告の電話が掛けられず、一度軽くあしらわれてから怖くなってしまい部活も半ば飛ぶ形で辞めてしまった。そこでも最後までひとりぼっちのままだった。きちんとした手順も踏まず部活は辞めるし、協賛金集めもロクにできないし、どれだけ社会不適合なんだ……とこれまた自信を無くした。

去年までSNSで趣味のイラストを投稿したり日々の思ったことを吐き出していた。人付き合いが絶望的に苦手な私にとってそこは刺激的な世界だった。世の中には色んな人がいて、落ち込んでいたら明るい言葉をかけてくれて、井の中の蛙だったかもしれないがそれに心を救われていた。
けれどSNS依存とネガティブな情報の多さ、そして急にやってくる人付き合いを断ち切りたい願望に負けてしまいそれも消してしまった。唯一の吐き出せる場所が無くなってから自分が目立つことへの恐怖心が増してしまった気がする。

最近になって本当に人との関わり方が分からなくなってしまった。受験はメンタルがどうしても必要になってくる。落ち込んでばかりで学校では常に緊張するし授業中もぼーっとネガティブなことを考えてるだけだし帰宅後も疲れてなかなか勉強に集中できない。(というか机に向かったら指の皮を剥ぐ作業ばかりしている……)
三年生になってから行事はもちろん、二学期に入ってからはちょくちょく通常授業の欠席も増えてきた。生活習慣が崩れて食事を欠かしたり夜に風呂を入らず朝ギリギリで慌てて入ったり。時間管理もできないのに受験になんて勝てる訳がそもそも無いよなぁと
現実逃避でスマホばかり触るし今までの極端な考え方のツケが回ってきたのか、死ぬことへ救いを求めてしまっている。ラックにネクタイを括り付けて、それでも勇気は出ないから寝転がる形で首をしばしば絞めるようになった。頭がクラクラする感覚が癖になってやっている節があるが、衝動的な時は死んでやる!と思いながらやってみる。しかし家族の事を考えると悲しいしシンプルに苦しくて毎回途中で辞める。まあそれでいいんだろうけどさ

体育の授業中、誰かに手伝ってもらわないといけないテストがあって「私なんてこの場に居ないほうがいいんだ……」なんてアホみたいな考えから手伝ってくれる相手も探さずいつものようにぼーっと突っ立っていたら「◯◯ちゃん一緒にやろっか」と話しかけてくれる優しい子がいた。
そのあとその子から「いつも思うんだけど◯◯ちゃん一人でずっと立っているけれど、もっと自分から話しかけた方がいいよ。いつまでも受け身なままでいたら進まないし周りも困っちゃうだろうし。話しかけてくれたらみんな快く引き受けてくれると思うからさ」とごもっともな指摘をうけた。捻くれている私はそれを聞いて人前で初めて泣き出してしまった。
そのあとその指摘をくれた子が授業が終わってから私が聞いていないと思ったのだろうか、私の愚痴を話していた。ズバズバと遠慮しない正論にまたこっそり泣いてしまったが「優しいんだから周りに頼ればいいのに……」なんてことも話していて本当に情けなくなってしまった。
それから体育の授業がある日は休んでしまっているし今日の人生最後の遠足もサボってしまった。

本当に逃げてばっかりの人生だ。
そして最近になって、私の歪んだ考えは人の善意さえも踏みにじりかねないものだったのか!と気付き始めた。他人のため、なんて建前で自分というただひとつの大切なものを必死に守って、周りへの迷惑なんてお構い無しに自己中心的な態度を取り、結果として自分の人生の可能性をただ潰していくだけのものであった。
家族は本当に優しい。そしてきっと学校の先生や生徒も勝手に距離を置いているだけで私が思う以上に優しい人たちばかりだ。
世の中には家族からの愛情を注がれず苦しみながら生きている人が沢山いる。私はそこで悩む必要はなかった。幸せなやつだった。ただただ自分から勝手に歪んでしまっただけであり。

今まで大切育ててくれた分、大学受験では期待に応えたい。(まあそれも現実的でないような学力ではあるけれど……)それを無下にしてしまうような事をするんだったら早めに死んでしまった方がマシだと思う。

何も無い私だからこそ、優しさだけは手放したくないと考えていたが、この「優しさ」の正体はどうも傷付きたくない故に出来たもののような気がする。人が怖いから丁寧に接するだけでそこに愛は多分ない。そもそも自分すら受け入れられないのに他人を受け入れられる訳が無い。
否定と指摘の違いも分からないようじゃ、この先の成長なんて望めない。幼い頃の恥ずかしい記憶ですら反芻して自己嫌悪に陥ってしまう。今に集中することがまったくできていない。
未熟な自分にひたすら絶望する日々を送っている。助けを求めるのもかまってちゃんだと思われそうで怖い。そもそも人に話しかけることすら心臓がドクドクする。スクールカウンセリングに一度行ってみたけれどもう一度行くのは何が思われそうで怖い。ほ〜ら、怖い怖いばっかでなにもしない。理想と現状のギャップに勝手に苦しくなる。これの繰り返しで説明の付く人生じゃないか。
たとえ大学生になれてもこんな思考を変えない限りどうしようもない人間からは変われないんだろうな。地獄のモラトリアムが終わったらどうなるのやら。考えたくないしやっぱり今は消えたい気持ちばかりがぐるぐるしている。迷惑を掛けたくない。迷惑な人になりたくない。けれどよくよく考えたら神経質な私が他人の悪意のない言動で落ち込む時、これは相手から迷惑を掛けられたと考えていいのか?他人の愚痴ですら落ち込む私は愚痴すら吐けない。そもそも生きてる限り迷惑は掛けて掛けられての繰り返しかもしれない。迷惑を掛けない方法は無いと考えたら今までの思考全部が馬鹿らしくて笑えてしまう。もうこれ以上考えない能力が欲しい。

感想1

「もうこれ以上考えない能力が欲しい。」という最後の一文に、心から私もそれが欲しい…ととても共感しました。
経験談のタイトルは「自分の考える事全てが信用ならない」でしたが、私はあなたの語りが率直で信頼できるものだと感じています。私自身が気持ちを隠して理屈ばかり語っちゃう人なので、本当はこうありたいなあ…と素直に好ましく思いました。

あなたの一つの個性として、ネガティブな気持ちを強く感じやすく、つらい記憶が残りやすいタイプというのはあるかもしれないと思いました。これは生まれもった個性の問題だと私は思っていて、私も完全にそのタイプです。これは神経質で傷つきやすいというデメリットはありますが、他人の痛みを細やかに想像したり配慮できるという強みにもなり得ると感じています。メンタルが強い人=鈍い・忘れっぽい人だと私は周りを見て感じてきましたし、そういった人は安定してパフォーマンスを発揮できる強みはあれど、時に無自覚に周りを傷つける部分があります。だからどちらの個性が良い悪いはなく、自分の個性を知って、力を発揮しやすい環境を整えることが大切なのだと私は思います。
でも今の学校や仕事は、メンタルが強い人向きの(傷つきやすい人にとって非常に過酷な)環境になっていると私は感じています。10代の未熟で傷つきやすい者同士が集まった集団にいることも、評価にさらされプレッシャーをかけられることも、神経質な人が力を発揮しづらい環境だと思います。本来はただ「環境が合わない」だけのことが「自分はダメなんだ」という自己評価になっていると私は感じるので、なんだかとっても理不尽に思ってしまいます。私は中学の途中から学校に行くのをやめて、大人多め・プレッシャーの少ない・こじんまりした場所に移ってからのびのびできるようになって、やっと成長できた実感があります。だから本来はもっと学校以外の選択肢が、学校に行くことと同等にあってほしいと感じます。

また、あなたの「面倒くさがり」「真面目に勉強しない」についても、私は「世間に洗脳されることができない」という個性だと感じています。私は広い世界を知るほどに、学校の勉強が人生にとって些細なことだと体感してきましたし、それをみんなが頑張れる方が変てこなことに思います。だからあなたのその在り方は、私には自然なものに見えます。
よい(と言われる)大学に行くことも、あなたにとっては重要に見えるかと思いますが、私は無理に頑張ることなく、少しでも自分らしくいられる場所にいるのを優先してほしいと伝えたくなります。

考えることが自分を苦しめるのは、「一人で」考えているからかも?と私は思います。
いろんな人と語って一緒に考える経験を積むと、一人だけでも考える力がつきますが、それこそ未熟な自分で考えていると(誰もが経験を積む前は未熟です)、どつぼにはまってしまいやすいです。でもそう感じてか無意識でかはわかりませんが、経験談を送る行為は一つの現状を変えるきっかけになりえることだと思うので、そこにあなたの力を私は感じました。
死にトリは、個人の悩みをみんなのものとして一緒に考えることをいつもしたいと思っています。私はこの経験談を、あなた個人の未熟さの話ではなく、生きづらい社会が子どもを苦しめている話と読み解きました。
死にトリがあなたの役に立ちそうなら、またいつでも書きにきてください。

感想2

投稿を読ませてもらいました。まず、受験勉強お疲れ様です。自分を振り返ると、受験の手前にいるというだけで(たいして勉強をしていたわけでもないのに)凄まじいストレスを抱えていたので、その頃のことを考えながら、あなたが置かれている状況の大変さを想像しています。
最初に私は「自分の考える事全てが信用ならない」というタイトルに共感しました。文章から、あなたが自分自身の行動や思考、感情などに対して合格か不合格か、いいかよくないか、それらがどういう意味を持つか……などの判断をつねに突きつけ続けているような印象を受けました。私もどちらかというとそういう傾向があり、もはや癖のようなもので、そうしていないと不安になってしまう感じがあるのですが、あなたも似たような状況があるのかなぁ?と想像しました。

学校という大きめの集団で楽しく負担なくやっていくのって、なんだかかなり難しいことのように私は感じています。というのは私自身が多くの人と関わるのが苦手なタイプということではあるのですが、そんな中で「うまくやる」ことを求められること自体がきついなぁと学生時代には感じていましたし、大人になった今振り返ってもそう思います。
「みんな私には興味がない」「そもそも私がいると気まずい空気になるだろうし居ないほうがみんな幸せだ」という思考は、苦しい気持ちも感じつつ、学校に行くしかないという中であなたなりに折り合いをつけなければいけなかったからでてきた認識なのかなと思いました。

SNSも難しいですよね。私も創作をしたり他の人の創作物をみるのが好きでSNSをやっていますが、いろんな情報が目に入ってきて、心理的に巻き込まれないでいるのはとても難しくて、インターネットの人間関係もとても大変だ……と感じています。(個人的には、最近は発信もほとんどやめてしまいました。)

家でも「比較的気楽」とはあっても、他のところで感じている負担や苦痛をほぐしたり相談したりできる場所でもないのかなぁと思います。その中で受験勉強のストレスも重なってきたら、焦りもするだろうし、自分を責めるのをやめられなくなってしまうことも無理もないと思いました。
おそらくもともとたくさん考えるタイプの人なのではないかと思います。そこにストレスが過重になっていけば、ひとり反省会状態になったり、「ぐるぐる」が止まらなくなってしまうということもありそうです。タイトルの「自分の考える事全てが信用ならない」という感覚も、まさにそういう中で自分の思考に対しても安心できないような状況からきているのかなぁと思いました。私も思考が止まらなくなりがちなタイプなので、「もうこれ以上考えない能力が欲しい」というのも自分にとってすごく切実なテーマで、「わかる…」と思いました。個人的には、ゆっくり息を吸って吐きながら呼吸を頭の中で数える「数息観」という瞑想をやってみたり、歌ってみたり(歌詞によって思考を上書きするイメージ)、部屋を掃除してみたり、とにかく好きな漫画を読み続けたり、いろいろ試しつつ生活していますが、必勝法?みたいなものはいまだに見つかっていません。なんだかあまり役に立てなくてすみません。
スイッチみたいに思考を止められたらいいけれど、なかなかそうもいかない中で、あなたにとってちょっとでも楽になる過ごし方があるといいなと思っています。投稿ありがとうございます。こうやって言葉にすること、それを自分の外側に置いてみることにもなにか意味がありそうであれば、死にトリをまた活用してみてください。

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