経験談はそれぞれの投稿者の個人的な価値観や感じ方をそのまま掲載しています。一部、リアリティのある描写や強い価値観が含まれるため、読む人にとっては負担等を感じる場合もあります。各自の判断で閲覧してもらえるようにお願いします。
生きづらいと言っていいですか
病気でもなく大学にも通って、ご飯を食べて寝て、毎日それなりに、なんとなく生きれている。私を取りまく環境は比較的良好だし、優しい人もたくさんいる。
それなのに、どうしても生きづらいと感じてしまう。朝起きると不快感が心に広がる。緊張すると体が震える。誰かとご飯を食べる時は手が震えてうまく食べれない。髪を切りに行くのも少し怖い。人とうまく話せない、会話に入れない。挙げるとキリがないくらい、苦手がいっぱい。だけど、なんとかやれてるから「私は大丈夫なんだ」と言い聞かせることができるのと同時に、どうもすっきりしない辛さを感じながら生きている。毎日ふとしたときに「死にたいなあ」と思う。生きづらいって言っていいのかな。
感想1
自分を取りまく関係も良好で、健康で進学もして生活できていて、毎日それなりに生きていられるのに、なぜだかわからないけど漠然と「生きづらい」という気持ちを抱えながら生きていることが私自身ととても重なり、勝手ながらにとても近しい感覚を覚えていました。
「なんとなく生きれている」、私自身も感じてきたこの言葉に、生きられている現状とは裏腹に確かな違和感・生きづらさを感じる原因が集約されているように私には感じられました。
勉学や仕事、対人関係(やその他諸々)などなど、生きているとさまざまな営みがありますが、それを「なんとなくでも」できてしまっていると社会的にだったり、周囲との比較などで「この人はこういう環境に身を置けて、周りにも恵まれているわけだから生きづらさは感じにくいだろうな」と思わされる息苦しさのようなものが漂っているように私には思えます。
実際は個人の個性や特性、得手不得手や感情の機微や軋轢など、いろいろなものを受け取りながら生きているはずなのに、「なんとなく生きれている」という言葉と周りからの見え方によって、全てを「それでも生きられる人」として捉えられ、その人個人の絶対的な感覚や気持ちを置き去りにされてしまっていることになっているように思えて私はなりません。すべてが「できているか」「できていないか」の二極で語られるべきではないと思いますし、ましてやそれが他者からの相対的な評価でなくてもいいはずです。
あなた自身が「挙げるとキリがないくらい、苦手がいっぱい」と感じている気持ちを大切にしてほしいと個人的には思います。それは「なんとなく生きれてる」とあなたが感じている中でも何かしらの無理を利かせていたり、合わせようと懸命にがんばったり向き合ってきたから故の感覚な気がしますし、もしかしたらその違和感の中に今のあなたの生きづらさに対する答え(とまではいかなくても)やヒントが隠れているのかもしれないと私は思いました。
今の自分がどんな人間であったとしても、現状がどんなものであってもそれは他の誰でもない、相対的ではないあなただけの絶対的な感覚だと私は思うので、「生きづらいと言っていいですか」と感じたあなたのその気持ちを大切にまずは声高に叫んでほしい、そう私は思いました。
投稿ありがとうございました。
感想2
生きづらいと言っていい。と私は思いました。
すっきりしない辛さがあるということは、慢性的なダメージが蓄積しているのかもしれないな、と推測しました。
「私は大丈夫なんだ」と言い聞かせているのですね。その行動に共感を覚えました。私は自分自身に「私は弱っていない、大丈夫だ」と声をかけることがあるからです。魔法をかけるというか、心に化粧をする感じです。この方法は、「状況や感情を胡麻化している」ということなのか、いや「胡麻化しているとは少し違う感じ」なんだよな、「大丈夫ではない」という方向に気持ちや思考が引っ張られると、先が見えなくなってしまってキツイんだよな、と自問自答しながらという感じです。あ、自問自答って自分を手当てしてることなのかもと今、思いました。
もしかしたらですが、あなたも日頃から自分自身と対話している方かもしれないなと想像しました。投稿ありがとうございました。
感想1
自分を取りまく関係も良好で、健康で進学もして生活できていて、毎日それなりに生きていられるのに、なぜだかわからないけど漠然と「生きづらい」という気持ちを抱えながら生きていることが私自身ととても重なり、勝手ながらにとても近しい感覚を覚えていました。
「なんとなく生きれている」、私自身も感じてきたこの言葉に、生きられている現状とは裏腹に確かな違和感・生きづらさを感じる原因が集約されているように私には感じられました。
勉学や仕事、対人関係(やその他諸々)などなど、生きているとさまざまな営みがありますが、それを「なんとなくでも」できてしまっていると社会的にだったり、周囲との比較などで「この人はこういう環境に身を置けて、周りにも恵まれているわけだから生きづらさは感じにくいだろうな」と思わされる息苦しさのようなものが漂っているように私には思えます。
実際は個人の個性や特性、得手不得手や感情の機微や軋轢など、いろいろなものを受け取りながら生きているはずなのに、「なんとなく生きれている」という言葉と周りからの見え方によって、全てを「それでも生きられる人」として捉えられ、その人個人の絶対的な感覚や気持ちを置き去りにされてしまっていることになっているように思えて私はなりません。すべてが「できているか」「できていないか」の二極で語られるべきではないと思いますし、ましてやそれが他者からの相対的な評価でなくてもいいはずです。
あなた自身が「挙げるとキリがないくらい、苦手がいっぱい」と感じている気持ちを大切にしてほしいと個人的には思います。それは「なんとなく生きれてる」とあなたが感じている中でも何かしらの無理を利かせていたり、合わせようと懸命にがんばったり向き合ってきたから故の感覚な気がしますし、もしかしたらその違和感の中に今のあなたの生きづらさに対する答え(とまではいかなくても)やヒントが隠れているのかもしれないと私は思いました。
今の自分がどんな人間であったとしても、現状がどんなものであってもそれは他の誰でもない、相対的ではないあなただけの絶対的な感覚だと私は思うので、「生きづらいと言っていいですか」と感じたあなたのその気持ちを大切にまずは声高に叫んでほしい、そう私は思いました。
投稿ありがとうございました。