経験談

生きづらさを感じる人が語る 経験談

経験談はそれぞれの投稿者の個人的な価値観や感じ方をそのまま掲載しています。一部、リアリティのある描写や強い価値観が含まれるため、読む人にとっては負担等を感じる場合もあります。各自の判断で閲覧してもらえるようにお願いします。

馬車馬の人生

私は今大学3年生で、就職活動の真っ最中だ。数々のエントリーシートを書き、少しずつ面接を受け始め、「内定もらってるんですか?」と面接官に聞かれ……ふと我に返ったとき、「このまま社会に出て、自分は幸せになれるんだろうか」と自然と疑問が湧いた。競走社会の波に乗り、幸せになる資格が自分にあるのか。生き続けていけるのか。
幼少期から、家庭内での両親の揉め事や、障害を抱えた妹への兼ね合いから常に「良い自分でいなければいけない」という意識はあったと思う。が、それを本格的に意識したのは今になってからだ。
私が「人生が辛い」「自分が幸せに生きられるか分からない」と思うようになったのは高校時代から。誰もが一流大学を目指すような高校で、ギリギリ滑り込んで入学した自分はあっという間に落ちこぼれ、周囲との落差に悩んだり、落ち込んだりする日々が続いた。模試の度にお腹が痛くなったり、食欲がなくなったり、今思えば身体への影響も既に出ていたと思う。周囲に自分の気持ちを偽って接することも多かった。笑顔が上手くなった。
高校を卒業し、1年間浪人してなんとか希望する大学に進学できたものの、コロナ禍での孤独感やサークルでの人間関係に悩み、1年生の終わりにうつ病(自律神経失調症)を発症した。深夜3時にパニックを起こし部屋の中を歩き回ったこともある。コンビニまでの買い物が、とてつもなく長く感じたこともある。思うように歩けなかったからだ。春休み中だったので実家に戻って静養することでなんとか回復したが、そこから心療内科に通院してもう1年半になる。
発症当初のような激しい落ち込みは減ったものの、時折身体が全く動かなくなる。胸が痛む。食欲が無くなる。眠れなくなる。こうした症状は当然就活にも影響を与え、予定していたイベントに参加できなかったり情報収集のタイミングを逃したこともあった。薬で症状を鎮めているこんな状態で、果たして社会に出て満足に働けるのか。いつまで薬に頼り続けなければいけないのか。
心療内科の先生や親と話し、自分の完璧主義な性格や1人で抱え込んでしまうところ、必要以上にネガティブになってしまうところ、人と比べてしまうところを改善しなければ治るものも治らないと言われた。自分がいちばんよくわかっている。
しかし治らない。治しようがない。今までの人生で培った価値観はそう簡単に揺らいではくれない。何をしていてももっと優秀な人の影がちらつき、もっと努力している人の姿が浮かび、より完成度の高いものに近づきたいと考えてしまう。
そうやって自分の身をボロボロにしても、悲しんだり心配したりしてくれるのは自分の親だけだろうと思う。友達も先輩も先生も、他人の口から出る言葉は全部社交辞令だとしか思えないからだ。他人が腹の底で何を考えているかなんて分からない。
でも妹のこともあり、高齢にもなってきた親に、これ以上負担をかけたくない。浪人して余分な時間とお金を使わせたぶん、早く自立して安心させたい。大学進学で一人暮らしを選んだのは、純粋に、だんだん症状がひどくなる妹と一緒にいるのが辛かったからだ。

だけど、自分を気にかけてくれる親がいなくなったら、それ以上生きている意味が無い。なら何のために今、神経をすり減らして就活してるんだろう。テキトーに就職してテキトーに生きて、親と同時に死ぬ人生の何がいけないんだろう。

死にたい。というより、今の自分を取り巻く苦しみから解放されるには死ぬしかない。

感想1

就職活動の真っ最中で「頑張る」ことを押し付ける社会がリアルに感じられるようになって不安が増しているようにも感じました。馬馬車の人生というタイトルからもそう感じたのかもしれません。幼少期に過ごした環境で培ってきた価値観はあなた自身がよくわかっているけれど、周囲、社会との折り合いに苦労してきたこれまでだったのかなと感じました。家族の中で意識してきた「良い自分」がもしも「聞き分けが良い自分」だとすると相当色々なものを我慢してきたのではないでしょうか。例えば本来の自分を出す機会がかなり少なかったと仮定すると周囲が喜ぶ自分、求める自分でなければ必要とされなくなるのではないか?と感じてしまい、自動的により良い自分を演じるようになるでしょう。それは本来の自分ではないので見えないところでしんどくなっていき、さらに本当の自分がわからなくなると思います。高校で体調に出たり、笑顔が上手くなった様子からもそうなのかな…と想像しました。大学はコロナ禍もあってどういう自分で過ごすと良いのか、どの道を自分として進むと良いのか迷子のようになっているのかもしれません。笑顔でいなければならないあなたではなく、あなたの本質を理解して一緒に考える存在はいますか?
いまあなたのことを気にかけているのは親さんだと思いますが、それでも気をつかって自分は見せられないのではないかと思います。「テキトーに生きる人生…できるものならそうしたいよ!」って聞こえてきそうです。もしも私がそう聞いたらいまよりテキトーに生きる方法を話し合いたいです。あなたの考え、気持ちをもっと知りたいと思いました。よかったらまた死にトリに来て交流してみませんか?いまの状況から解放されるひとつのきっかけになるかもしれません。経験談の投稿ありがとうございました。

感想2

常に、気を張り詰めてギリギリのところを歩んできた様子を想像しながら、読みました。自分の気持ちややりたいことは後回しにして、家族や周囲の期待やあるべき姿を読み取り、頑張っていたのではないかと思います。ひょっとしたら、自分の気持ちとか、やりたいことについてあまり考えることもなかったのかもしれません。
ただ、タイトルが「馬車馬の人生」なので、今となっては自分が誰か何かのために心身に鞭を打って進んできたことに気付いたのだろうと思います。私は、気付いてよかったと思う気持ちと同時に、気づいたことによって見えてきたことがあり、それが今のあなたの苦しさにつながっているのかもしれないと思っていました。見方を変えると、転換期を迎えているのかもしれないと思いました。きっと、生まれて初めて自分の体や心に耳を傾けているのだろうと思ったからです。動けなくなるのも、体調が悪くなるのも、当然のことだと思いました。可能なら、せっかくなので、自分の心や体に耳を傾けてほしいと願いました。
これまで当たり前だと思っていたことが、違うかもしれないと思ったり、これまでわからなかったことに気づいたりすることは動揺もあると思います。今まで信じていたことを信じられなくなったり、何を信じていいかわからないこともあると思います。でも、私はあなたの転換期を応援したい気持ちになりました。ようやく自分で自分の存在に気づいたのですから、これから見えてくる生き方や世の中の景色があるはずです。そして、これまで馬車馬のように頑張ってきたことも何かの資本になっているはずだと思います。無理をしたかもしれませんが、それも大切な経験であなたを構成していると思うのです。
私は、あなたが抱いた疑問「このまま社会に出て、自分は幸せになれるんだろうか」について、一緒に考えてみたいと思いました。「このままの社会で、私たちは幸せになれるのだろうか?」と問いかけられている気がしたからです。そう感じたあなたの声をもう少し聞きたいです。どうぞ、また、死にトリに来てください。

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