経験談

生きづらさを感じる人が語る 経験談

経験談はそれぞれの投稿者の個人的な価値観や感じ方をそのまま掲載しています。一部、リアリティのある描写や強い価値観が含まれるため、読む人にとっては負担等を感じる場合もあります。各自の判断で閲覧してもらえるようにお願いします。

迷子

22歳の大学生です。

私には子供の頃~思春期にかけての記憶があまりありません。覚えている記憶も朧気で、それらを繋げても穴だらけの記憶になってしまいます。日記などが残っていれば良かったのですが、完璧主義と三日坊主が共存しているような性格の私にとって、毎日満足のいく日記をつけることほど難しいことはありませんでした。
昔の写真は残っているのですが、そこに映る私は大抵無表情か貼り付けたような笑みを浮かべていて、お世辞にも可愛らしいと思える子供ではありません。子供らしい無邪気さが全く感じられないのです。変に大人びた達観した目をしています。自分の写真を見ているのに「この子は誰だろう」と全く知らない子供を見ている気分になります。じっとこちらを見据える目からは、私の思考まで読み取らんばかりの気迫と同時に、全てに興味を失った諦念もうかがえました。

物静かで仕事人間の父親と、世渡り上手で金銭管理の上手な母親のもとに生れました。
父は自分の意見を言うのが苦手で、予定していた段取りが少しでも崩れるとパニックを起こすような人です。言葉足らずで真意を伝えられず、他人を傷つけたり怒らせたりしてしまうことが多いです。診断こそ下りていませんが、発達障害もしくは境界知能なのではと疑っています。
母は先天性心疾患を患っています。幼少期から病気による行動制限が多く窮屈な思いをしており、その反動からか周囲(特に自分の母親、私にとっての祖母)に対して反抗的な態度を取り、生き急ぐような様子が見られます。かなりヒステリックで感情の昇降が激しく、機嫌の良いときはスキンシップなどもしてくるのですが、機嫌が悪いと物に当ったり私に暴力を振るったりしました。いつ母の地雷を踏むか分からないので、家の中ではいつも緊張状態が続いていました。笑顔で会話をしていても、心の中にはずっと暗雲が立ち込めていました。

母は私に「ちゃんとした子に育って欲しい」と思っていました。
というのも、持病のある母から生まれた私は先天性の難聴(一側聾)を患っていて、障害のある子供の苦労を母も知っているからこそ、周りに馬鹿にされない、引けを取らない立派な人になって欲しかったようです。
その期待が私にはとても重圧でした。

3歳から某幼児教育の教室に通い、小学校に上がる頃には自分の名前を漢字で書け、簡単な計算ならできるようになりました。そこから私の学生生活はずっと”優等生”として過ごすことになります。学校では優等生として期待され、何でもそつなくこなせるのが当たり前だと思われていました。しかし家では母に罵倒される毎日。母に決められた箇所まで学習ドリルが進んでいないと叩かれ、少しでも母に反抗的な態度を見せると蹴られ、正論で返答するとヒステリックを起こされて、土下座して「口答えして申し訳ありませんでした」と言うまで許されないなんてことは日常茶飯事でした。馬鹿、愚図、鈍間、優柔不断、つんぼ(聾者に対する差別用語)と罵られました。

習っていたピアノ教室の先生も母と同じタイプの人で、私がミスをすると指揮棒やボールペンで手の甲を叩きました。弾くときに手首が動いてしまう癖を矯正するために、手首にガムテープをぐるぐる巻きにされました。私は母やピアノの先生のような「指導方法」しか知らなかったので、それを本人たちに「愛情があってこそ、期待しているからこそ厳しくしている」と言われてしまえば、それに従うほかありませんでした。

学校にも家にも私の居場所はありませんでした。
優等生としての私も、馬鹿だなんだと罵られる私も、どちらも私であるけれど、どちらも本当の私ではない気がしていました。周囲の私への見方にすでにギャップがあるのに、それに加えて自己理解にも隔たりがあるのが息苦しかったのを覚えています。
いつしかその窮屈さに耐えられなくなり、日常的に離人症を起こすようになりました。指の爪や皮を噛んだり、大切にしていたぬいぐるみを傷つけたり、店で万引きを繰り返したりするようになりました。

中学生になり吹奏楽部に入ると、部活が楽しくて仕方ありませんでした。中学三年の夏の大会に向けて練習を重ね、見事関東大会まで勝ち進むことができたのは良い思い出です。
高校生になると軽音学部に入ってバンド活動を始めました。女子校ならではの独特な雰囲気が私には合い、男性や周囲に頼らず自立した学生生活を送る楽しさを学びました。進学校で授業についていくのが大変で、今までは自分が優等生だったのに、自分よりはるかに頭の良い子が大勢いる環境に放り込まれて、優等生としての挫折を経験しました。あのまま思い上がらずに現実の厳しさを知れたのは良い経験だったと思います。

一方、家での母からの扱いは、暴力から過干渉に変わっていきました。成長した私を暴力で支配するよりも精神的に支配する方が楽だと考えたのでしょう。
友人と遊びに行くにも、どこに誰とどんな交通手段で行くのか、電車なら帰りは何時の電車に乗って何時に家に帰ってくるのか、細かく聞かれました。遊んでいる最中にもひっきりなしに電話やメッセージが送られてきました。未成年の女子高生が外出するのを心配する親心だと言われればそれまでですが、母の様子から親心や心配は感じられず、束縛と「あんただけが楽しい思いをするのは許さない」という嫉妬のようなものしか感じられませんでした。だから私は友人と遊びに行くにも罪悪感と戦わなければならず、帰宅後にはいつも機嫌の悪い母が待っていると思うと、遊びに行く気も失せました。

一度、遊んでいる最中の母からの連絡に気付かず、返信が遅れてしまうことがありました。そのときは再度送られてきたメッセージに「具合悪い。たすけて」と書かれていました。私は顔面蒼白で急いで母に電話をかけました。すると電話に出た母は怒気を含んだ声で「なんで連絡返さないの?何してんの?遊びがそんなに忙しいの?」と詰問してきました。私が「具合が悪いんじゃないの?」と聞くと、母は鼻で笑って「嘘。こうでもしないとあんた連絡寄こさないと思って」と言いました。そのときの絶望感といったら、言葉にできません。
昔、母は持病の発作で、幼い私の目の前で倒れて救急搬送されたことがありました。三ヶ月間の入院で母と離ればなれにならなければいけなかった経験は、私にとって二度と繰り返したくないトラウマでした。母は、それを分かったうえであえてこの手段を取ったのです。我が母ながら人間の血が通っていないなと思います。

こんなことをされてきた私ですが、私は母から虐待を受けているという自覚は一切ありませんでした。これが普通なのだと信じていました。人よりちょっと心配性なだけだと思っていました。
しかし、大学生になりひとり暮らしを始めて(これも母の束縛から逃れるため、必死の思いで説得して掴み取ったひとり暮らしでした)、友人との会話のなかで出てくる他の母親たちと自分の母との違いに気付くことが増えました。他のお家の母親は子供を殴らないし、トラウマを逆手に取って子供を脅したりしないのか。でも私のお母さんの行動は全て私への愛情で・・・あれ?
ここでようやく、自分のされていたことが虐待なのではないかと疑いを持ちました。
それが確信に変わるまでに数ヶ月を要し、その過程でアダルトチルドレンや過干渉という言葉に出会い、私と同じように無自覚に苦しんできた人がたくさんいることを知りました。

これで母親のことを全力で憎み、絶縁し、開放されればどんなにいいか。
しかし、現実はそうはいきませんでした。こんなことをされてきたのに、それが虐待だったと気付いたのに、日常生活に虐待の後遺症が残っていて精神疾患にまでなったのに、私は母のことを嫌いになりきれません。母の作る料理が美味しいこと、大学の学費を払ってくれたこと、自殺未遂を繰り返してどうしようもなくなった私を実家に連れ帰るときに私を思って泣いてくれたことなどを思い出すと、母に対してどういう感情を向けたらいいのか分からなくなりました。

母は年齢もあって持病も徐々に悪化し、還暦を迎える前には死にたいと言っています。
つまり、あと5年で死ぬと決めているそうです。
私はあと5年で自立しなければなりません。母に心配かけないように立派に生きられるようにならなければいけません。
けれど、母が死んだあと家族写真のアルバムはどうしたらいいのか、母の荷物はどこまで処分したらいいのか、家の権利はどうするべきなのか、持病のために一般的な死亡保険に加入できなかった母に遺産はあるのか、実家にひとり残されるであろう父の面倒はどうしたらいいのか…
考えることがありすぎて、今からもうすでに疲れ切ってしまっています。
もはや母より先に死んでしまいたいと思っています。

他の、虐待のなかった「ふつう」の家庭では、親との別れをどう考えているのでしょうか。私にとっては虐待のある日々がふつうだったので、どうするのが正解なのかが分かりません。正解に沿う必要もないのかもしれませんが、私は誰かの言う正解に沿う生き方がいちばん楽なのです。

戻りたい過去などないし、今更人生をやり直せるとも思っていません。
でも、少しでも将来の不安を減らせたらいいなと思いながら、惰性で生きています。
今は大学の卒業論文の執筆に集中しているので、なんとか不安から目を逸らしごまかしながら生きています。
私は、どこで選択を間違えたのでしょうか。
もっと楽に、楽しく、あたたかく、安全で、やさしい生き方を知りたいです。

感想1

あなたが本来もっている考える力と考えざるを得ない環境の中で培われた感覚を感じ取りながら経験談を読ませて頂きました。特に地雷が落ちているような緊張を強いられる日常で、心を表現しない、期待しない…自分らしい表現を止めたあなたが写真の中にいたのではないでしょうか。今日が良くても明日がわからない、午前に家族の機嫌がよくても午後には怒られる…そんな日々は何が正解か分からず、何も表現しない方法で自分を守るしかないだろうと思います。幼少期から厳しい教育のもと、暴力がセットになったルールの中で常に重たいもので押し付けられているようなとても苦しく怖い日々を過ごされたのかなと推測します。そして常に優等生を求められたんですね。みんなよりも成績や振る舞いが良いというしんどさは周囲から理解されにくいって感じたことが私はあります。できるひとって良いよね!くらいにしか思っていないひとも多くいると思いますから。経験談にある「優等生としての私も、馬鹿だなんだと罵られる私も、どちらも私であるけれど、どちらも本当の私ではない気がしていました。」の部分を読んだ時に、心の中で「そうだと思います!!」と私は思わずあなたに言ってしまいました。これだけの経験をされるとその苦しさが、離人症のような症状となって出てきたのも自然なことだと思いますが、中学生時代の経験を読んで「あっそういう期間もあったんだ…」と少し安心しました。(あなたよりできる人たちの中にまぎれたのは良かったですね…)母親さんの関わりが暴力から過干渉に変わる中で「親心や心配は感じられず、嫉妬のようなものしか感じられなかった」と過干渉を受けていた当事者であるあなたが一方で冷静に関係性を捉えていたんですね。そこにはあなたが経験の中で培ってきた物事の本質的な見方があって、理解を深めながらここまで来たことにとても敬意を感じました。あなた個人の時間や感情、尊厳などの境界線を踏み越えられながらも子どもとして母親さんから感じてきた人としての一面にも目を向けているようにも思いました。母親さんとのこれからの関係性や父親さんのこと、そして何よりもあなた自身が生きていくことなど色々考えると、おっしゃる通り疲れてしまうだろうし、重たい気持になるのも無理はありません。普通はどうなんだろう?という問いもありましたね。これまでそういったことを誰かと深める機会もあまり無かったのではないかと推測すると、あなたのこれまでの経験を理解しながら一緒に考えるひととつながって欲しいと心から思います。もしもいまのあなたの周囲にそういう存在がいないようでしたら、匿名で無料で悩みや生き方についてお話することができる相談窓口もあります。よかったらそちらのポータルサイトものぞいてみてくださいね。「まもろうよこころ」https://www.mhlw.go.jp/mamorouyokokoro/
ぜひ死にトリでもまたお待ちしています。経験談の投稿ありがとうございました。

感想2

とても丁寧にこれまでのことや今感じていることを書いてくださったので、理解しやすく、うなずきながら読みました。近くで話を聞いていたのなら、「なるほど、そうなんだ」と何度も声をかけていたように思います。
最初に書いてくれたように、子ども時代のあなたが覚えていくことをやめたくらい、その頃のあなたは日々の現実から少しでも距離を取りたかったのだろうと推測しています。親から基本的な信頼を勝ち取ろうとして、必死に努力をしている姿を想像しました。子どもは自分だけでは生きていけない弱い存在です。だからこそ、大人に守られ、尊重される必要がありますし、そのことによって育ちも保障されていくのだろうと思います。ところが、あなたの子ども時代には生活の基盤となる家庭の中にそうした機会がほとんどなかったのだろうと思いました。ただ、そのよう環境でも、中学校で部活を楽しみ、高校でも友達と楽しい時間を過ごし、大学では家から出て一人暮らしを勝ち取るなどのエピソードから、自分が感じることや考えること、存在を譲り渡すものかという底力のような強い意志を感じています。
ただ、そうしたあなたがあなたらしく生きようとする意志が時にはあなたの立場を悪くしたり、より強い葛藤や軋轢を生みだしたり、あるいはあなた自身の気持ちや価値が引き裂かれることもあるため、まさにタイトルに書いてくれた「迷子」につながっているように感じました。強い力で手を引かれた子どもが、何度も何度もそれを振りほどき、自分の行きたい道を行こうとして、迷子になり、どこに向かってどのように進んだらよいかわからない…そんな状態なのかな?と勝手ながら想像していました。そうであれば、気力も希望もとうに尽き果てて、惰性で生きているのも当然だろうし、誰かに手を引いてもらった方が楽だと思うのも自然だろうと思います。
あなたの経験談を改めて読んでみて、最初から最後までとても理にかなっていて、まっとうだと感じます。だから、うまく言えませんが、そのままでいいと思いました。不安でいたたまれないのなら、焦ってもいいし、気力がないのなら惰性で生きてもいいし、意味もわからず何かで気を紛らわせてもいいし、頑張っても頑張らなくてもどちらでいいのではないかと思いました。感じる不安は簡単に消えるものではないと思いますが、その不安にはそれ相応の意味や重みがあるものだと思うので、不安なんだということを認めてみたら何か違うことを感じたり、見えることがあるかもしれないと思っています。
ただし、一人で抱えるにはずいぶんと重いものだと思いますので、今回の経験談のように誰かにぜひ迷子宣言をしてもらいたいと思いました。死にトリはいつでも待っています。

一覧へ戻る