経験談

生きづらさを感じる人が語る 経験談

経験談はそれぞれの投稿者の個人的な価値観や感じ方をそのまま掲載しています。一部、リアリティのある描写や強い価値観が含まれるため、読む人にとっては負担等を感じる場合もあります。各自の判断で閲覧してもらえるようにお願いします。

死ぬまで生きていたい

それほど気分も悪くはないが、良くもならない状態での診断結果は、
Category 2 『自分の力を発揮して夢を叶えたい けど、それができないなら生きる意味がない』と
Category 4 『○○の求める理想の子にならなくては・○○しろ けど、解放されるイメージも元気もないから死にたい(殺されたい)』でした。

だんだんと良くなるようには向かっていると思いたいのですが、十数年以上続いているので、最近は特に疲れが溜まるのが早いです。
元気づける自分そのものが、おおよそ1年前くらいから疲れていると認識しています。
小さい頃から変わっている子のまま、直すようにされても直ることがなく生きてきました。(成人してからわかりましたが、発達障害でした)
片方の親だけが頑張る環境、仲の悪い時期が長すぎる両親、どの時期の幼稚園や学校でもなにかと馬鹿にされたりからかいの対象になりやすい状況などもありましたが、
何よりも13~14歳頃に集中的ないじめにあい鬱病を発症したり、両親の喧嘩の場に強制的に参加させられたり、互いの悪口を聞いて伝達することになったり、
とにかくその時期によって安全な場所がなくなり、生きるために表情や状況への対応力、会話する方法など、色々なものが麻痺してしまったように思います。
20代のほとんどを就職も進学もうまくいかないまま過ごしつつ、ここ数年でやっと、表情はかえってきました。

今も病院や社会資源などを利用し、一旦は就職する道を探していますが、うまくいくかどうかの瀬戸際です。
身体暴力こそありませんが、無自覚にモラルハラスメントを行う人間(この人が家から離れていた時期もありました)と過ごしてきた状態もあったため、
その人間と離れてどう変化するか、特に『安心して暮らせるか』をできるかどうかを確かめたいです。
仕事を全くしていなかったわけではないのですが、対人関係で特に明らかな非がない部分で人の怒りに巻き込まれやすかったと思います。
そのため、次もそもそも就職できるかはわかりません。働き続けられるかどうかもわかりません。障害者枠であっても、体力的な心配だらけです。
私は働かなくても生きていられるなら、あまり働く必要がないのだと思います。(不向きな部分が多くなると思います)
それでも今は必要である場面が多いので、就職も含め、多少でも生きやすくなる方法を探ることを諦めたくないです。
でも、心も体も時々諦めそうです。

私が私のままで、ちゃんと生きていたいです。
死んだような生き方ではなく、自分が自分だとわかる生き方をしたいです。
生命としては、今も生きています。
もしかしたら本当にまた挫けるかもしれませんし、まだ、自分を心身ともに守り切れる手段が揃ってはいませんが、
生き延びてみようと思います。

断片的な情報にはなりましたが、このような文章を送れる場所を設けてくださり、ありがとうございました。

感想1

投稿された文章がとても整理されていて、きっと、これまでに自分自身の環境や状況についていろいろなことを考えてきた方なのだろうと思いました。
「私が私のままで、ちゃんと生きていたいです。/死んだような生き方ではなく、自分が自分だとわかる生き方をしたいです。」という文章が印象的でした。
私も、すべての人がその人のままで生きられることが当たり前の世の中を望んでいますが、それが難しい場合も数多くあることを知っています。
病院や社会資源などを活用されているということですが、投稿者さんが「安心して暮らせる」環境や状況はどのように作れるのだろうと思いました。投稿者さんにとって必要だと思う社会資源や関わりなどの方法があれば、聞いてみたいと思いました。

それから働くことは投稿者さんにとって必須ではないということが書かれていましたが、「私のままで、ちゃんと生きていたい」というとき、その生活にはどんな要素があるのかなと思いました。
たとえば、投稿者さんの思いや感覚を否定する必要ないことや、心地よさが感じられる状態、一人でいる時間、趣味の時間、だれか安心できる人といる時間…などいろいろ考えてみましたが、もし思いついていることがあれば、よければ教えてください。

また、「私が私のままで、ちゃんと生きていたいです」という思いはずっと昔から持っていたものなのか、それとも変遷があったのかも気になりました。…なんだか質問ばかりですみません。
投稿者さんにとって安心できる生活があり、それが続いていくことを願っています。

感想2

生きていたいという思いが強く伝わってくる文章でした。
これまでは、あなたが逃げて自分を守るか諦めるかどうするかなど選ぶような余地もなく(そりゃ当然か?)、暴力やハラスメントなどの犠牲になってきたのだと思いました。
そして書かれていた経験には、この社会に横たわる差別、構造的な不均衡、逃げ場の少なさ、学びの不十分さ、などが関係していて、この時こうなっていればよかったなどと簡単に言えるものでもないと思いました。とにかく、安全で安心できる生活の場を守られるべきだったのに、そうならなかったことは許しがたい気持ちです。
そのような経験の中でも、どこかで、生きることを肯定する力を育ててきたのかなと思いました。自分を一つの人格のある人として、自分(のやり方)で感じたり考えたり表したりする人として、存在していくことを赦す、やさしさのようなものを感じました。
このサイトが、これからのあなたの暮らしの中で、いつでも立ち寄ることができて、「死んだような生き方ではなく、自分が自分だとわかる生き方」の助けの一つとなる場として機能していけばと思いました。これからも色々な方法で、自分のことや生き方のことを探ったりできる場を一緒に作っていけたらいいのかなと思ったので、ぜひご参加ください。

お返事1

感想への返信

・安心して暮らせる状況について(生活の要素についてを含む)
趣味を生活の中心にしたいです。ですが私は体力や気力の都合もあり「やりたいこと」の量に対して「やりたいこと(趣味)の中でできること」がかなり限られています。
頼まれたことなどに対してこなそうとする意欲だけは一人前にありますが、こなした後にしばらく体調を崩します。
また、興味のあるなしにかかわらず、消耗が激しいことも判明しています。
(例:興味のあるものは止めどころより意欲が勝ち熱中しすぎて消耗、興味のないものはやらない、考えない、やらなければいけない興味のないものはただ早く終わらせるようにこなすため前者以上に消耗する)

そのため、現在では金銭を得て、(人にもよりますが)社会的承認を得るに必要とされている労働に割くキャパシティが(『快適に暮らす』にあたって)自分には本来ないものとみています。
端的に言うと、自分がやりたいことだけをしても安心して暮らせるのがごく普通であってほしいのです。
(正直、できるならば(労働などで)ごく当たり前とされる動き方くらいはしたかったのですが、私からしたら周囲の皆様がタフすぎるくらい動いているようにしか思えませんでした。6時間だとしても週5で出られる自信がありません。フルタイムはまさに遠すぎるくらいの地点に思えます。)
これは本当に個人的な事情になりますが、ちょうど返信を待っている期間に、日常的に使う靴や新しい場所候補で使う服、日常で使う衣類、長年使用していた電子機器などが次々と寿命を迎えたり壊れたり、限界を迎えているのですが、今ある自分の資金をやりくりをしていても本当に買い替えたいものがすぐに替えられません。とてもきついです。できることはやりましたので今後はできることだけからでもなんとかするしかないことはおおよそわかっています。

・「私が私のままで、ちゃんと生きていたいです」という思いの経緯
経緯は覚えていませんが、まあまあ酷い目にあってから成長するにつれ(16~現在より少し前)自分がバラバラなまま生きていることだけは現時点からわかりました。離人感とめまい、痛みやだるさが当たり前の日常でした。(痛みやだるさは今もあります)

絵を中心とした創作を物心ついたころから趣味にしているのですが、前述の時期から暗い創作は得意としないはずの私が、暗い創作を何も考えず作ったり、創作の中の自分(としたキャラクターのみ)を痛めつけることに躊躇いがない(自分で考えた創作、あるいは何かの作品のキャラクターに対しては絶対にそのような行動をしないし、考えても面白くないので絶対にやらないはずの)ことが増えていました。今思えばいわゆる自傷行為に入ると思います。
「現実の私」として「創作の私」を愛そうとしても、なぜかどのように描き替えても自分自身だけに優しさを向けられない、そういった現状は、自分がやりたい創作の阻害にもなっており、本当に困っています。創作でも現実でも「自分自身」を「認め」て「優しくする」ことができる手段があれば良いのですが…。(そのほうが私が心地良く、楽しいので)

とある時期に受けたカウンセリングでも似たような話が出たのですが、要は「非現実とされるような感覚のままぼんやりと過ごし、体が生きていることまで忘れたように生きるのは危ない」という話でした。
その通りだと思いますが、生きようとする、この現実を楽しもうとすると、どうして苦しいのでしょうか。苦しいより楽しいほうが絶対に幸せだと思うにもかかわらず、です。
まだこの状況は、ごくたまに前述のカウンセラーに確認を取りつつ、改善している途中です。

そして、現在やりたい趣味に関しても、今作っている創作には自分自身が深く関わるので、知らせる人、関わる人をとても選びます。(私が選びたいだけです)
その話が得意ではない友人には(創作の)趣味をしっかり話しづらいですし、オンライン上では不特定多数に見られる可能性、そもそも知らない人に関わり、自分や創作を開示すること自体にとても強い緊張があり、踏み出せずにいます。以前はある程度閉じた場所でのみ少しできたのですが、もうどこに行けばいいのか、行ってもどのように話したらいいのかがわからなくなってしまいました。
「自分を聞いて、わかってほしい」があまりにも蓄積されているのだとわかってはいますが、話してもいい相手や場所を選べずにいます。
いわゆる自意識過剰でもあり、相手へのこだわりがかなり強いようです。
(おそらくこれが現状における一番の困り事だと思います。相談する相手が全くいない、というようなきつさに近いです。)

総合すると、ものすごく周り(人や環境他)からの影響をかなり受けやすい、さらに気分次第で環境の捉え方ががらりと変わってしまう『文字通りの気分屋』である自分の(とりあえず死ぬまでの)幸せを、しっかり見つめて、できるだけ実行し、実現するという考えを持っています。
これは自分にとっての、健全な自己愛だと思います。判断し、実行する自分も幸せになるようにするからです。
(現状との兼ね合いで、かなり手こずってはいます。手こずっているからこそここに記述で来たとも言えます。)

・その他
このような場所にやっと自分のことを書けるようになるまで、本当にたくさんの時間が必要になりました。小さい頃、あるいは10代ともなると時間が長く感じますから、体感としては本当に長かったと思います。
自身の状況の説明はある程度まとまるようになりましたが、体感などは重苦しいまま生きています。
少しでも快適にするために、快適に過ごせることを増やしていくとどうなるか考えた結果、労働などの優先順位がかなり低くなりました。

書いている間はそう見えないかもしれませんが、私は簡単に自分自身を見失います。人によって、あるいは環境や出来事によって、自分の感覚をすぐに放してしまいます。そのため、自分に聴かせるのも含めて、できるだけ表現したい言葉で話したり、最近はぼんやりしすぎた時に体を軽く叩くことで、自分を認識しやすいようにすることにしました。(効果はぼちぼちです)
正直めんどうなので、そのようなことをしなくても自分自身がいるのが当たり前になればとても良いことだと思います。

詳細を含めて書いてみましたが、書き方からして、少しずつ文章がバラバラな形になっていると思います。感染力の強いコロナウイルスに感染してしまい、半月ほど脳が全く、あるいはほぼ動かなくなりました。ようやく改善してきた現時点で表現したいように書いたので、読みづらかったら読みたいところだけ読んでいただければありがたく存じます。

ご返信いただき、ありがとうございました。

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