経験談

生きづらさを感じる人が語る 経験談

経験談はそれぞれの投稿者の個人的な価値観や感じ方をそのまま掲載しています。一部、リアリティのある描写や強い価値観が含まれるため、読む人にとっては負担等を感じる場合もあります。各自の判断で閲覧してもらえるようにお願いします。

どこにいても自分じゃない

もう何もしたくありません。
特に何かに疲れた訳ではないはずなのですが、話すことも、笑うことも、好きなことすらする気力がありません。

周りはもっと頑張っているし、学校が求める生徒像もこんな生徒じゃない。親の求める自分ももっとしっかりしているはずなのに、何にも応えられない自分に嫌気しか差しません。
「自己嫌悪」という言葉しか浮かびません。

勉強は好きじゃないけどやらないといけない。行きたい大学もやりたいこともあるのに、今生きたくなくて仕方がない。

世間に求められる自分でいることが苦痛になってきた気がします。

家族のことで悩みが2つ。
まず、自分の本心を見せられないことです。勉強している姿すら見せることに抵抗があります。
なぜかはわからないのですが、そのせいでリビングではスマホやゲームばかりして叱られます。
決して毒親だとかそういうことはありません。でも、どうしてもヘラヘラしている自分しか見せられません。もちろん死にたいだなんて言えません。

もう1つは成人式の振り袖を着たくないことを伝えられないことです。これも本心を伝えられないことに似ていますが…
あと3年後のことですが、母と曾祖母は振り袖を着てほしいそうです。一方で自分は女性らしい格好が苦手で、普段着はほぼズボン、髪はツーブロックのベリーショート、メイクは嫌いといったざまです。(その上自分の性別すらわかっていない、恋愛感情もよくわかりません。)
一生に一回、親孝行という言葉をよく聞きます。その通りだと思うからこそ、「着ないことはおかしいのではないか」「今までに何も親孝行できなかったのにその上振り袖じゃなかったら自分の存在価値すらないのではないか」と葛藤しています。まだ先のことなので、これから考えも変わるかもしれませんが、そんな先のことを考えて自己嫌悪に陥る自分が嫌いです。

随分読みづらいし、話がそれてしまいましたが、今思っていることをできるだけありのままに綴りました。こうして書き込むこともできなくなるほど無気力になる前に、少しでも自分の気持ちを吐き出せたのはよかったかなと思います。

でも、こうして書き込んだところで、嫌いな現実から逃避できるわけではないし、時間は過ぎていく。
人生ってしんどい。

感想1

投稿のタイトルにとても興味があって読ませてもらいました。
私は「自分」って何だろう?どう感じているのが「自分」なんだろう?と感じることが良くあるからです。読めば読むほどにどこにいても自分じゃないと感じる理由がとても伝わってきて、そりゃそう思うよ…と心の中でつぶやいてしまいました。
ひとの気力や感情ってそう簡単に自分でコントロールできるものではなくて、自然と笑ったり、怒ったり、逆に笑えなくなったり、泣けなくなったり、自然とツーって涙が流れたり、何も感じなくなったり・・・そういうものかなって私は思います。そして自分で気づいていなくてもそれにはちゃんと理由があるのだと思います。理由の大きい要因に我慢や抑圧状態があります。“世間に求められる自分でいることが苦痛になってきた気がします。”まさにこのひと言がそれを表している様に私は思いました。ずっと本来の自分じゃない人間の演じ続けた結果、あなたの感情にも影響してきたのかなって私は思いました。さらに「自分」という感覚は人間の土台部分です。土台がグラグラしている時は、その上に乗っかっている日常生活(やりたいこととか)がちょっと難しくなるというイメージです。
セクシャリティは明確に性別があるわけではなく、グラデーションだって以前に学んだことがあります。誰もがそのグラデーションのどこかに位置しているのだと思います。ただ、社会的に作られた性(ジェンダー)による女性らしさとか男性らしさという暗黙のメッセージに傷つけられたり、揺さぶられたり強制されたりして理不尽な思いをするのが今の社会ですね…。
ただ、あなたのアイデンティティやセクシャリティはあなたがあなた自身にちゃんと教えてくれているんだなって思いました。それが唯一確かな「自分」だと私は思います。身につけるもの、イベント、恋愛や人間関係、家族関係…それらは社会のメッセージや実態が無いようなジェンダーの規範に紛れていて、○○しないのは自分がおかしいのではないか?とことあるごとに思わされます。でもそれは自分ではない…。まさに迷いや葛藤の連続かもしれません。
そんな時は自分を感じたり、確認したり、取り戻すためにこうやって言葉にして語ることがとても大事だと思います。死にトリは自分が感じたことを色々な形で表現できる場ですし、それがまた誰かの心に届くこともあります。
ここにいると自分でいられるかも…そんな時間をあなたが少しでも手に入れられることを私は願っています。
投稿ありがとうございました。

感想2

投稿読みました。タイトルにある「どこにいても自分じゃない」という言葉からも文中からもあなたの抱えている苦悩が切実に伝わってくる感覚になっています。
自分が自分らしくいるということの難しさやそもそも”自分らしさ”ってなんだろうと私はよく考えています。この社会で生きていると、自分を出すことを疎ましく思われ、どちらかというと周囲が望んだり求めてくる像に合わせながら生きていく方が何かと利点が大きい場合のほうが多いように感じますし、なんなら”そうあるべき”と目には見えない圧というのか風潮が強いようにも感じ、それが生活の中で周囲の反応等からもあなたが感じ取って生きている状況は、苦痛に感じるのも真っ当な感覚だと私は思いました。もしかすると、求められる像に合わせて生きなくてもいいのではないかと頭では思っていても、今さら自分を出して生きていくことへのリスクを考えてしまったり、それが周囲への裏切りに繋がってしまうかもしれない怖さも考えてしまっているのかなと想像していました。
私自身もどちらかというと、親の求める像に合わせてずっと生きているので「何も応えられない自分へ嫌気が差す」感覚や自分の本心を見せられないという部分は勝手ながら共感と、改めて長く抑圧状態にあると刷り込まれた感覚を元に戻すというのか、本来あるべき姿(そもそもそれがどういうものなのかも分からなかったりしますが…)を取り戻すのには時間がかかるものなのだとあなたの文章を読んで痛感しているところです。
ただ、少なからずこうして迷いや葛藤も含めて言葉にして送ってくれたことを考えるとあなたはしっかり自分がある人(出せないだけで)なのだと私は感じましたし、あなたの抱く感覚や思いは表では取り繕ったにしても、自分の中で押し殺す必要はないということを伝えたくなりました。
ちなみに私も、生物学的には女ですが、女性らしい格好が好きではなく、メイクも嫌いなので仕事の時もすっぴんですし、髪もツーブロショートなので2つ目の悩みを読んで、他人事とは思えませんでした。親にはずっと「女らしさ」を求められてきたので、もちろん成人式も振袖を着ることが当たり前であるように振る舞われ、事前の着付けまで行きましたがどうしても振袖姿の自分を見るのも嫌で仕方なく、他の事情もありましたが成人式当日は仕事を理由に参加はしませんでした。散々親や祖母には「勿体ない」「人生で一度きりなのに」「女の子なのに」と言われ、当時は精神的にくるものもありましたが、後悔は全くしていません。だからあなたもというわけではないのですが、一生に一回のことだからこそ自分の気持ちを優先してもいいと思いますし、自分が決めていいことだと私は思います。親孝行もしたいのであれば、成人式に振袖を着るという以外の方法もたくさんあると思いますよ。
思っていることを書いたところで…というのは私もしんどい時はよく思うことでもあり、嫌いな現実から逃避できるわけではないというのも強く頷ける部分ではあるのですが、もし自分の思いや考えを言葉にすることで多少でも心が軽くなるのであれば、これからも必要な時に死にトリを活用してほしいなと思いました。そしてせめて、あなたにとってありのままの自分でいられる場所として死にトリがあれるといいなと思っています。経験談の投稿ありがとうございました。

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