経験談

生きづらさを感じる人が語る 経験談

経験談はそれぞれの投稿者の個人的な価値観や感じ方をそのまま掲載しています。一部、リアリティのある描写や強い価値観が含まれるため、読む人にとっては負担等を感じる場合もあります。各自の判断で閲覧してもらえるようにお願いします。

今の私は

こんにちは、少し前にも経験談を投稿した者です。
あの時の自分と、今の自分を比べてみて
様々な変化した部分と変わらない部分を整理するために書いています。
相変わらず精神疾患での悩みや、感覚過敏での困りごとは後を絶ちません。
それでも「今どうしてそれに悩んでいるのか」、
「どうすれば少しでもその悩みを解消できるか」を紙に書き出したり
するようになってからじわじわと悩みの種が小さくなっていくようになりました。

ここで思ったのは「自分をほんとうの意味で助けられるのは自分だけ」ではないかということです。
何故なら、私が「助けてほしい」と一口に誰かに求めたとしても
どう助ければいいのかが相手にはわからなかったり、
私が求めた通りに「助けて」もらえるとは限らないから。
だったら、少しでも自分で自分を助けられるように、
「現状確認」して「問題を文字にする」ことは
決して無駄にはならないと強く思うのです。
こんなのじゃ何をしても変わらないと嘆く気持ちも、
過去を悔やんで境遇を憎む気持ちも未だに心の端に巣食ってはいます。
だから、助けを待つ間に少しでも「自分はどうしたいのか」
「どうすればこの辛さから抜け出せるのか」を考えるようになりました。
そうすることで、もしかしたら、自分のなかで渦巻いて言葉にならない
「生きづらさへの対処法やヒント」にもなるかもしれません。

これが数年前の私では考えられないほど変化した部分です。
対して変わらない部分は、書ききれないほどにあります。
良くも悪くも変わらない「自分」が出来てきたのだとも感じます。
生きることはつらいことでありしんどいこと、
だという認識も変わりはないです。

前回の体験談での、
>私はこの生きていくつらさは誰にでも形を変えて
のし掛かっているものだと強く感じます。
だからこそ人を、私自身を、嫌いにはなれません。

という部分については
私なりの持論から来ています。
人(他人や相手)を嫌うことはとても簡単です。
相手と自分を比べて嫌いになったり、
自分よりも評価されている誰かを妬んで嫌いになったり、
漠然と相手の第一印象で嫌うこともできる。
自分を嫌うことも簡単にできてしまう。
ただ、私はその相手への「嫌い」という感情は
嫌う相手を見ているようで見ていない色眼鏡ではないかと思いました。
例えるなら、「その相手は苦労なんてしていない」
「他人は恵まれている、悩みなんてない」といったものです。
嫌うことは悪いことではないし、心の動きのひとつで
自分の意思で制限できるものではありません。
それなら、「嫌いになる」そのスイッチの前に
ひとつ注意書きをした看板を立ててみたら
どうなるのか?と考えてみたんです。

簡単に「嫌う」のはなぜなのか、
じゃあ嫌いになる前に一呼吸置くにはどうすればいいのか、
そもそも嫌いになりたいのか。
きっと、この問いと持論から来ているのだと思います。
ここまで読んでくださり、ありがとうございました。

感想1

読んで感じたこととしてはまず、あなたの丁寧な思索を覗かせてもらったような感覚がしました。
これだけ考えて、考えをまとめるためには、時間もエネルギーも必要だったのではないでしょうか。こんな風につくり上げたものを、無料で見てもいいんですか…?とちょっと思うくらい、手をかけて練り上げられたものに感じました。

私”も”なんてどれほど簡単に言っていいかはわからないですが、私も自分の生きづらさや苦しみを、考えて言葉にすることで主に対処してきました。
現状確認して問題を文字にすることは、価値あることだと経験から思っています。でも私は一方で「こんなに一人で考え続けるのは嫌だ…周りにもっと好き勝手に弱音を吐きたかった」という気持ちも抱えています。
あなたがどう感じているかはわかりませんが、考えて言語化することは生き抜く術として有効でありながらも(一番の長所は、一人でもできることだと思います)、自分の心身に負担がかかるというリスクもあるというのが私の感触です。
だから、ここまで言語化したあなたに尊敬の拍手を送りたいと同時に、感情をありのまま出してしまうのも時に大切にしてほしいとも、伝えたくなっています。

「自分をほんとうの意味で助けられるのは自分だけ」は、「自分を助けるためにはいろんな人の力を借りることが大切」とセットで真理だと私は考えています。
誰かが自分をいくら手助けしようとしてくれて、例えば溺れている私に浮き輪を投げてくれていても、私に掴む気がなければ助かりません。また「助けて」と言わなければ、遠目では楽しく泳いでいるように見えるかもしれませんし、泳げる人に手を引いてもらわないと戻れないのだとしたら、浮き輪じゃダメなんだと伝えた方が話は早いでしょう。
ただ、私が一つ思うのは、「もしかして溺れてる?大丈夫?」と気にかけてくれたり、「もうすぐ行くから待っててね」と励ましてくれたりしないと、自分で自分を助ける意志もなくなってしまうのではないか、ということです。
だから私は、自分を助けることは自分でやるから、「自分を助けるんだ」という私の意志がくじけないように応援されたいし、周りにその応援をできる存在でありたいと思っています。

人を嫌うことについての話も興味深く読み、頷きました。
私たちが相手のことを、好き/嫌いと思うことも、良い/悪いの評価を下すことも、相手の問題ではなく「自分の色眼鏡」の問題だと私も思います。(だから嫌いと言われたり、悪いと言われても気にしないようにしたいと思うのですが、なかなかそこまではたどり着けません…)
あなたの言っているように、嫌いになる感情自体は悪いものでもなければ、自分の意思で制限できるものではないですが、「この気持ちはどこからきているのかな」と立ち止まってみんなが考えるようになれば、世界は随分とやさしくなる気はします。とはいえ、理論的にはそう思っても、嫌いだと思った人に対して攻撃や非難する気持ちを抱いてしまい、時に態度にもにじみ出てしまう私ですが・・・まだまだ修行というか、余裕が足りないのかな、とは思っています。

経験談の投稿、ありがとうございました。

感想2

文章を読んで、あなたが考えて積み重ねてきたことを教えてもらっている気がしました。そういうふうに考えて「持論」を持つに至るまでには、きっと様々な経験があったことだろうと思います。その中で、あなたが自分の中にある感情や思い、認識を一つ一つ確かめていることを感じました。

「助ける」ということについての考えに共感する部分がたくさんありました。
あなたが書いてくださっているのは、他者と共有することの難しさのことでもあるし、その中で自分の納得のいく考え方を探っていく過程のことでもある感じがしました。
「現状確認」して「問題を文字にする」ことがあなたを助けてきたように、私自身にとっても言葉にすることが自分の助けになってきたと感じています。言語化する力や、現状を把握する方法は人によって異なるので、万人に有効かはわからないですが、少なくともあなたにとって言葉で確認し、そこから思考を整理したり、広げたりするやり方はとても合っているものなのだろうと思いますし、その力を使って、自分自身のやり方を確立してきたのだろうと感じました。
「ほんとうの意味で助けられる」ということもまた、万人共通の意味になることがあるのかはわからないものの、「ほんとうの意味で助けられる」ということを自分自身で感じたり、予感したりする瞬間は大事であるような気がします。
また一方で、こうやって言葉にすることは、もしかするとあなた以外のだれかのヒントにもなる可能性も含んでいると思います。「助けてほしい」という言葉がなかなか他者に伝わり切らないように、言葉は不十分なものですが、過去の人間たちが使ってきた言葉という道具に私たちが助けられて思考しているように、共有するための機能も確かに持っていると改めて感じました。そういう言葉や考えることの両面を、あなたの経験談から教えてもらっている感じがします。

「嫌う」ついてあなたが書いてくれているのは、留保すること、結論を出さないでいるという試みだと思いました。反射的に様々な感覚が湧いてくる中で、「一呼吸置く」こと、「嫌う」に対しても問いを持つこと、それは簡単ではないとも感じつつ、いつもそうしていられないこともあるのではないか、反射的に判断してしまうことがあってもいいのではないか、それ自体もあとから振り返って自分自身に訂正したっていいし…(しなくてもいいし…)などとも思いつつ、私もそんなふうに留保を持っていたいとも思いました。

あなたが自分自身の「今」を観測し記録することで、自分自身を理解しようとし続けている感じがします。あなたの未来に、未来のあなたの「今」のこともまた教えてほしいと思いました。

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