経験談

生きづらさを感じる人が語る 経験談

経験談はそれぞれの投稿者の個人的な価値観や感じ方をそのまま掲載しています。一部、リアリティのある描写や強い価値観が含まれるため、読む人にとっては負担等を感じる場合もあります。各自の判断で閲覧してもらえるようにお願いします。

頭を廻る罵倒

中学生くらいから少しずつ、すべてが辛くなってきた。
朝起きれない、息が苦しいような、胸が痛むような、理由がわからない苦しさ。
それが毎日積み重なって、そしたらどんどん、次の日が来る夜と眠るという行為が怖くなって、いつの間にか学校を休みがちになった。

両親にはあまり受け入れてもらえなかった。
「なんで学校に行けないの?」
「お金こんなにかけてもこれか。お前コスパ悪いな。」
「グズ。」
「私の時なんて引きずられて学校に行かされたんだから。」
そうだね、ごめんなさい。
当時は私の家はお金も余裕もなく、両親もぴりぴりしていることが多かった。
だから、私のことまで見る余裕はなかったのかもしれない。確かに両親からの愛も私からの両親への愛はあった。でもそれと同じくらい苦しさもあった。

飼っていた最愛のペットが死んだとき。
「お前のせいで死んだようなものだ。」と言われて、つらかった。
明日は学校を休んでペットを埋葬したいと電話で伝えると「だめだ。お前そう言って学校休む気だろう?」その時も休みがちだったから、そういわれるのは仕方ないのかもしれない。でも辛かった。苦しかった。欲を言うなら、慰めてほしかった。
学生時代はずっと何かに飢えていたように思う。

両親の過去の色んな言葉たちがその時からよく頭を廻るようになった。
「お前がいるとお金がかかる。」
「お前がいないときの光熱費はこんなに安い。」
「たばこをやめてほしい?じゃああんたがでてけば?」
あの時の私はどうすればよかったんだろう。
今でも頭を廻る両親の言葉たちは、いつの間にか私自身から私への罵倒となって頭を埋めつくしていく。
高校から大学、大学を中退、そして故郷を離れて今はパートナーと二人暮らしをしている。メンタルクリニックにも大人になってやっと通えるようになった。結局パートナーにおくってもらっているが。
息をしていても、ご飯を食べていても、何かをしてもしなくても、今まで迷惑をかけた分の罪を感じている。
さらに最近はお金を稼げなくなり、自分に価値がないと思うようになった。だって、お金も稼がず、家にいてたまに家事をする人間。ああ、またずっと頭の中でいろんな言葉が飛び交って、まわって、ねむれなくて、もうどうすればいいのかわからなくなる。
しんだほうがいいな。自分のことを殺してしまいたいな。そう思って、苦しくなって、でも死ぬという楽になりたい選択肢へ逃げている自分が嫌で嫌で、死ぬことは赦されることじゃないんだと思って、でもしにたい。いきなきゃ。こうやってずっと何をしてても思考がループしていく。泣いてたってしょうがない。動かなければ何もかわらない。でもでもでも、誰か助けてくれと思ってしまう。他力本願。ここまで自分を責めたって、何にもならない。くるしいよ。誰だって苦しみたくて苦しんでるわけじゃないのに。本当に苦しいのに。誰か信じて。

感想1

経験談の投稿ありがとうございます。
親からのメッセージが、呪いのように心を束縛しているイメージが浮かびました。一言でいうと「コストに見合った存在か」というような、親の指標から自分を眺める眼差しが、あなたをとらえて離さない・・・そんな状態を想像しています。

経験談に書かれていた親からの言葉は、読んでいるだけでも苦しさを感じるくらい、人の心を傷つける質のものだと私は思いました。「そんなこと言うなんてひどすぎる…!」と怒りたい気持ちになったし、私の周りの人たちも、概ねそういった反応をすると思います。
それをつらい中学生時代に、信頼したい大人から言われたのですから、ダメージは相当なものだろうと感じています。

迷惑っていったい何なのでしょうね・・・。おそらく親の言葉や物の見方を借りるような形で、あなたは自分を罵倒しているかと思うのですが、あなたの親の言っていることは横暴で公平性を欠いていると私は思います。でも、横暴で公平性を欠いていることは、あなたも頭ではわかっている部分があると私は勝手ながら感じています。
なぜなら、私にも、自分を理不尽に罵倒する自分がいるからです。その罵倒や自己否定の言葉は、冷静に考えればまったく筋が通っていないと私は知っているのですが、それを知っていても、罵倒する時は止められません。
本当は「そうじゃない、許してほしい、助けてほしい」と思っている自分もいるはずなのに、浴びせられ続けたメッセージの方に負けてしまうのは・・・何なのでしょう。もしこれまで浴びせられたメッセージが、毒素のように心身に蓄積してしまうのだとしたら、どうしたらそれを排出したり浄化できるのか・・・ぐるぐる考えていますが、まだ明確な答えは出ません。

でもとりあえず、罵倒をこうやって外に出してくれたら一緒に考えることはできるので、またよかったら書きに来てください。

感想2

頭の中の罵倒はまだ続いているのでしょうか。最後に「誰か信じて」とありましたが、あなたの文章からは切実な苦しみが伝わってきて、何の疑いもなく、本当に苦しいことがわかりました。そして、あなたが努力不足でもないし、何も悪いことをしていないし、むしろ心身を休める必要があるのにもかかわらず、いつも罵倒に苛まれていることを心から理不尽だと思います。子どもの頃から呪いのように言われ続けたことについて、どれをとってもとても理にかなったこととは思えず、言いがかりのような言葉だと私には思えました。両親も苦しく余裕がなかったこととはいえ、受ける筋合いのない言葉だと思います。しかし、子どものあなたにとっては、いくら現実的ではないような言葉でも、重くのしかかり、脳裏に刻み込まれて行ったのだろうと思います。それは単に頭の中に響くだけではなく、あなたの中に罪悪感や強い自己否定を植え付けていき、言われていないときでも、時間がたった後でもあなたを苦しめているように感じています。
あなたの頭の中の罵倒の力はとても強く、気休め程度にしかならないかもしれませんが、全力で労いの気持ちを伝えたいですし、罵倒の言葉たちには、お引き取り願いたいと強く訴えたい気持ちです。慰めや労いの言葉や気持ちはいくら伝えても足りないぐらいですが、それよりも私はこれまで一人で抱えてきた強さと今、こうして自分に起こったことを書き記し、伝えようとする力に敬意をお伝えしたいです。
あなたは弱いだけの存在ではないし、親から理不尽に罵倒されるだけの存在ではありません。理不尽に耐え、そして生き延びて、そしてその理不尽さに圧倒されながらも、必死に抵抗して、こうして自分の気持ちを表現して、発信できる力があることを経験談は証明しています。私は確かにその力を受け取りました。今まで一人で頭の中に居座る罵倒と戦ってきたのだろうと思いますが、私たちも罵倒の存在を共有したので、罵倒は間違いなく弱体化したと私は思っています。これからも、こうして気持ちを伝えることで罵倒の存在感は弱くなると私は信じています。苦しみはそんなに簡単になくなるわけではないと思いますが、こうしてつながることで少しずつ穏やかさを取り戻していけたらと思います。
必要な時にはいつでも死にトリに声を届けてください。

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