幼い頃は、母親と姉と僕の3人暮らしでした。
母が思春期の姉を叱りつけるのを毎日見てきたので、生まれつき臆病である僕は、母に怒られないように、いい子を演じました。
怒られることは見放されること、と思ったからです。とはいっても子供ですから、怒られることの1つや2つはあります。怒られる度に絶望したように泣いていました。
そうして生きていくうちに、完璧主義で自意識過剰な性格が身につきました。
学校ではただ大人しく授業を受けて、できないことからは徹底的に逃げました。周囲は僕をどう見ているんだろうと不安を抱えていて、いつも下を向いて歩いていました。
母や教員に言われるままに、高校卒業後は就職したのですが、強烈な不安が襲ってきたのです。
(上手くできないかもしれない)
(どうしよう)(助けて)
1人で涙を流していたのでした。
よりによって接客対応の仕事。不安と緊張で頭が真っ白です。初めてミスをしたとき、大号泣をしてしまいました。自分の完璧が崩れた瞬間です。
今になって思えば、自分が僕を責めるようになったのは、このときからですね。
相手が「別にいいよ」という場面でも、ダメな所を見せた自分が許せないのです。こうなると、他人がどう思おうが関係なしに、自責の念に囚われます。
このことを相談できる人はいません。家族はみんな、こちらが相談したところで「気にするな」と言うような、サッパリした性格です。
それに、家族は僕にあまり関心がないと思わせる出来事がありました。
僕が20代半ばの頃に、勤めていた会社で無理がたたり、自律神経失調症からの抑うつ状態になり、出社拒否して、部屋に引きこもっていた時期があります。
飲まず食わずで無気力なある日は、大晦日でした。まもなく新年を迎えようとした時は、まっ暗な部屋で死ぬように横たわっていた僕をよそに、すぐ隣の部屋で、母と姉はテレビ番組を見て、年末年始のカウントダウンで盛り上がっていたのです。
とてもショックでした。
何かひと声かけて欲しかった。
この1件で家族に対する信頼が無くなり、僕のことは決して理解できないだろうと確信せずにいられませんでした。
その後、職場を転々とするも、実家と職場を往復するだけの退屈な日々。現実逃避以外にやりたいことがなく、友人や恋人の1人もつくる気が起きません。
何をするのも、落ち込んでは立ち直るのも、自分1人でするしかありません。
僕は空っぽな人間で、空白を埋めようと新しいことを始めることがあります。しかし、期待と不安と緊張がつきまとい、上手くいかないと自分を責めます。そんな日は、反すう思考が止められずに頭痛がして、夜も眠れません。それから距離をおき、長続きしないのです。
習慣や人間関係もリセットしてしまいます。
理想としては、人並みにつながりを持って、それなりに楽しい人生にしようと思っています。
しかし現実は、最低限で事務的なつながりしか持てず、空虚な人生を過ごしています。
自分を変えようとすると、自分が絶対的な力で阻止してきます。
(自分は何者でもない人間だ)
(自分は人として決定的に何かが欠けている)
(別に自分がいなくても変わらない)
(自分がいない方が良いこともある)
(何をしても無意味だ)
(傷つくぐらいなら何もしないでおこう)
(自分は家族のペット的存在として生まれたようなもの)
(自分は会社に都合よく使われる駒が似合ってる)
(他人は自分のことを何とも思っていない)
(病院に行って薬をもらおうが、同じことの繰り返しだ)
(自分は無であるべきだ)
(全ては自分を守るためだ)
(…)
前を向くと、無理やり後ろを振り向かされる気分です。
そんなことが、これまでに何回も繰り返されています。
大人になってからは、他人に傷つけられるようなことはほとんどありません。代わりに、自我に苦しめられています。そんな僕を止めてくれたり、慰めてくれる人はいません。
生まれつきの臆病さで、自分の人生を終わらせることができません。
いつからこんなふうになってしまったのだろう
疲れたな
本当に苦しいな
今は死を待ちながら生きています。
自我なんて亡くなってしまえばいいのに、と思います。
他にも思うところはありますが、長くなってしまうので、自我に苦しんでいることと、サポートする人がいないという部分を書きました。
死ぬまで語ることはないだろうと思っていましたが、偶然ここに行き着いて、書くことにしました。
募金箱にお金を入れて寄付するように、こういう場所に記録することで、何かの役に立てられたらいいなと思ったからです。
ちなみに、つらチェックをやってみたところ、まさにその通りの結果でした。確かに殺されたいという願望はあります。
↓
あなたのセルフケアポイントと傷つき体験から抜けたい願望のギャップは14点でした。
『○○の求める理想の子にならなくては・○○しろ けど、解放されるイメージも元気もないから死にたい(殺されたい)』と表現することができます。
常識への強迫性は9点でした。
感想1
募金箱に寄付するように、経験談を書いて送ってくれるという例えが何だか興味深く感じました。とてもまじめに書いているのだろうと思いますが、深刻さの中にも本質的な要素も垣間見えて、ただそれでいて、そうした例えをしてくれる人は珍しいので、私としては、ちょっとくすっと笑ってしまうような嬉しさがありました。死にトリが置いた募金箱に共感してくれたという連帯感を感じたからだと思います。
言い換えると感じることや気持ちを入れる募金箱なのかもしれません。世の中はどこかお金が最も大切なように感じてしまう節がありますが、本当は一人ひとりが感じることや考えることが大事だと思っています。それを率直に出し合って、自分や自分以外の人のことを理解して、必要なら交渉をしてという関係性を紡ぐことで、社会のあり方や必要な仕組みを知恵を出し合いながら作っていくことが大切なのだろうと思います。でも、実際には自分の気持ちは出さない方が得だ、出すと損をするのだと暗黙に学んでしまうことがあります。あなたの子ども時代に見えていた風景を読み、まさにそのような状況で自分の感じること、自分の気持ちを封印して、周囲の反応に細心の注意を払う不安と緊張の土台を作っていったのだろうと思うと、自己否定の感情があふれてくることも、周囲への失望や不信があることも、自然なことだろうと思います。
タイトルには「自我に苦しむ」とありますが、強く共感するところがあります。死にトリに訪れる人たちは、自分らしさや自我があり、譲れないものがあるからこそ、死にたい気持ちが強くなるように思うのです。何となく、器用にやり過ごすことができず、自分の気持ちに本質的に耳を傾けてしまうからこそ、苦しみを感じることができると私は思っています。自我のせいで苦しく、なくしたいと感じるかもしれませんが、その自我は私たちが少しでも息をしやすい社会にするために必要なものだと思っています。一人で抱えるのは苦しいことですが、こうしてつながることによって一人の自我は何かの社会の一部となり、知らないうちにどこかで誰かの何かを支える要素につながっていくことと思っています。
今回の経験談は本の序章なのかなと感じました。せっかくなので、まだまだ自分の思いを書いてほしいと思います。あなた自身も誰かに話を聞いてほしいという思いがあると書いていましたが、こうして自分の思いを書き記して、発信することも自分の話を聞いてもらうことと同じような効果があると私は思っています。そして、書くことで自分に向けるまなざしにも変化があるように思いました。よかったら、また書いて送ってください。死にトリ以外にも発信の場はあると思います。あなたの自我が少しでも穏やかに過ごせることを願っています。