経験談はそれぞれの投稿者の個人的な価値観や感じ方をそのまま掲載しています。一部、リアリティのある描写や強い価値観が含まれるため、読む人にとっては負担等を感じる場合もあります。各自の判断で閲覧してもらえるようにお願いします。
小さい頃から漠然と「誰にも必要とされていない」と感じでいた。
虐待されていたわけではないし、どちらかというと恵まれた環境だったと思う。
でも、例えば家族で遠出する時、「捨てられるのではないか」と不安で、車の中では眠れなかった。兄弟はすやすや寝ているのに。
兄が私にひどいことを言っても、助けてもらえなかった。兄も歳の近いいとこから、同じように揶揄われていたのよ、と説明された。
困ったことがあっても、上手に親に伝えられなかった。きっと愛想のない子に映っていたのだろうな。
親の仕事の都合で転校を繰り返した。クラスに馴染めずに苦しかった。
同級生から突然無視された時も、親には言えなかったな。学校の先生にも言えなかった。
私が困る姿を、ニヤニヤしながら見ていたアイツらは今とびきり不幸になっていればいいのに。
そのうち父親が精神を患って、自殺未遂をはかった。母親はパニクって、取り乱してたな。
あれよあれよという間に、別居、離婚と事は運び、なんでもかんでも事後報告。
家族に見捨てられた父親はその後自殺に成功してしまって、あの世に旅立った。私の誕生日の1週間前だった。
当時はその事実を誰にも言えなかった代わりに、毎日ヘラヘラして、同級生を心の中でバカにしてた。ぬくぬく育ちやがって、って。
そんな私に友達なんかできるわけもなく、周りの人たちが眩しく見えて、妬ましかった。
当時は「妬み」とは気づいてなかったけど。
その当時から、親に対して、なぜ生んだのか、とずっと怒っていた。
誰の1番にもなれず、親からも愛されていないと感じていた。
それは私の感度の問題だったのか、親との関係性の問題だったのか。
その後、絶対に子どもは持つまい!と思っていたのに、出産の「リミット」に怯えて、子どもを持ってしまった。2人も。罪深いことだ。
子どもはかわいい。ところもある。
が、私が過去に置いてきた様々な感情をもう一度私の元にもたらす存在でもある、と痛感している。
今、それがとても苦しい。
でも、私がここで頑張らないと、子どもたちが将来同じ思いを味わってしまうのではないか。
そう思って毎日踏ん張ってきた。
が、昨日その気持ちが折れる音が聞こえた。
誰か助けて。
感想2
経験談の投稿ありがとうございます。
あなたに根づいている(とわたしは感じました)自分を責める感情と、冷静に「でも、私が悪いわけではないのかも?」と感じる思考とが、せめぎ合っている印象を受けました。
そして、せめぎ合いながらもなんとかバランスをとってきた中、気持ちが折れてしまったけれど、どうにか自分を持ち直そうと、ここに発信しにきてくれたように感じています。
小さい頃から漠然と必要とされてないと感じていたと書いてありましたが、きっとそう感じてしまうような周りの小さな言動があったのではないかな…とわたしは推測しました。(実際に家族があなたのことをどう思っていたかは別として、あなたが孤独感を抱いてしまうくらいには、ケアが不十分だったり雑だったのではないか、という推測です)
転校を繰り返す、父親が精神を患う、ばたばたと別居・離婚が進んでいく・・・といった環境を考えると、親にはあなたの様子や気持ちを見るだけの余裕がなかったのかもしれないとも思いました。
とはいえ大人にどんな事情があろうと、子どもののびのびとした成長には、見守ってくれる存在がいることが大切だと思うし、それを得られなかったことは「そんなの酷いよ…!」と叫んでいいことだとわたしは思います。
親に怒りを抱くことも、周りを妬んでしまうのも自然な感情だとわたしは感じるし、それは「ぬくぬく育ちたかった」という願いなのかな、とも思いました。
そういった願いは、孤独によって妬みや怒りに変質していくけれど、もともとは流せなかった涙で、悲しみなのではないか?とわたしは考えたりしています。(これは自分自身が怒りの塊になってしまったことから、自己分析して導き出した仮説です)
あなたの子どもに対する思い、吐き出していた気持ちは、とても率直で切実なものに感じました。
世の中では「子どもの面倒は親が見るもの」といった親へのプレッシャーがあると思いますが(仕組み的にも子育てのサポートは不十分だと感じます)、子どもは社会全体で育てるものだとわたしは考えています。実際に自分自身、子どもに関わる仕事をしてきましたが、どの子どもたちも大切な存在だと思いましたし、これからもできる限り、成長を応援・サポートしたいと思っています。(逆に、自分の子どもを持つことには関心も意欲もあまりないです)
だから、わたしがここでそんな理想を言っても綺麗ごとに映るかもしれませんが、あなただけで背負わなくていいし、つらいときは何かに頼っていい、とは伝えたいです。
またいつでも死にトリを訪れてください。
感想1
気持ちが折れる音が聞こえてから、数週間たっていますが、その後に折れた気持ちがどうなっているのか気になっています。ここまで自らに起こったことを捉えて、そのことによって湧き上がっている気持ちに気づき、こうして表現していることに強いパワーを感じながら読み進めました。
冒頭に「どちらかというと恵まれた環境」とありましたが、私にはかなり過酷な環境であったように思えました。あなたがうっすらと感じてきた「誰にも必要とされていない」という感覚が真実を物語っているのではないかと私は感じています。大切なのはどんなことがあったかというより、どう感じたのかということであり、小さいころからあなたの感じていること、気持ちを誰かに伝え、そして受け止められる機会が必要だったのだろうと感じています。おそらく、何度も転校したことで苦しかったことや、兄にひどいことを言われて嫌だったこと、そして学校で突然無視された時の悲しさや、突然の父の自殺未遂、母の動揺、離婚、そして父の死と次から次に気持ちが揺さぶられることが起こったときも、あなたは周囲に言わずに(周囲に言ってもいい方向にいくようなイメージができなかったのかもしれません)一人で我慢をして苦しさを押し込め、心の中で自分自身に語りかけることで、何とかやり過ごしてきたのだろうと思いました。
その繰り返しの中で、じわじわとダメージがあなたの中に蓄積していったことは無理もないと思いました。そして、音を立てて気持ちが折れてしまったことはショックな出来事だと思う一方で、どこか「もう、これ以上我慢しなくていいよ」と声をかけたくなるような、どこかホッとした気持ちも抱きました。そして、最後の「誰か助けて」という一文とともにこうして死にトリに気持ちを届けてくれたことにあなたの底力も感じました。私の勝手なイメージでは折れたのはあなたの気持ちを覆っていた硬い殻で、その中からあなたがずっと守ってきた柔らかい気持ちが細いながらも残っている様子が浮かびました。何かが折れたのかもしれませんが、それと同時に新しいものが生まれたように感じたのです。それは、苦しいながらにあなたが蓄積してきた経験の賜物に他ならないと思います(子ども時代のしんどい気持ちを抱えながら子育てをすることは並大抵のことではないと思っているので、それを日々続けているあなたに最大の敬意を表したい気持ちです)。そして、こうして伝えてくれたからこそ生まれたものだとも感じています。直接助けることはできないのですが、こうしてつながり、受け止めることはお互いの力になると私は思っています。あなたを含めてこの経験談を読んだ人たちやサイトを訪れる人たちがそれぞれ自分自身を助けることを、お互いに支え合えるようなつながりをこれからも作っていきたいと思います。そのつながりのつなぎ目としてこうして投稿をしてくれたことに感謝します。