6年間勤めていた職場を辞めた。
頑張っても評価がしてもらえず、なのに頑張るから仕事量が増やされ、状況はまったく改善されず、やがて体を壊した。
その時、家族に言われたのは「踏ん張れ」だった。
言い方は違えど「頑張れ」と言われている、と感じた。
なにかがプツンと切れたような気がした。
結局、その一ヶ月半後くらいに退職をした。
少しの間を起き、今、別の仕事に就いた。
「頑張ろう」。
そう思って入って、仕事内容を早く覚えようと頑張った。
けど、一人になる時間ができると
「なんで頑張ってるんだっけ?」
「これが頑張りたい仕事だったのかな?」
「自分は気持ちだけが焦って間違えてしまったのでは?」
「また同じことが起こるのでは?」
そんな風に考えてしまう。
誰しもが使う「頑張る」という言葉。
自分でも使ってきていたが、今は嫌いな言葉だ。
本音を言えば、もう頑張りたくない。
生きていることすら辛く感じる時があり、「生きるのを頑張る」ということすら放棄したくなる。
自分の人生の先に、希望はあるのだろうか?
感想1
読ませていただきました。頑張るという言葉、ほんとに多用されますよね。私もちょっと苦手です。なぜ自分が苦手なのかなと考えると、そこに社会の価値観が含まれているからじゃないかなと思いました。自分が頑張りたいと思うことは頑張れるのだけれど、そう思えないことも頑張らなければならんと思わされているような時があって、それは本当に嫌なことだなと思います。社会の価値観にはめると「できて当たり前」や「できない奴が悪い」などと何となく思われそうなことでも、自分なりに嫌な理由がちゃんとあるし、それは本来誰にも非難される筋合いはないというか、社会に跋扈している価値感や同調圧力の方がしょうもないことの方が多いような気がしています。ご家族から「踏ん張れ」と言われて何かがぷっつり切れてしまったのは、あなたの中に隠れている正当な理由とか、頑張ってきた心が、ないがしろにされたからなのではないかと思いました。それはその後頑張る気力を失わさせるに十分だとも感じます。そうした経過の中であなたの今の感覚があるとすれば、それは正常なこととも言えるなと思いました。あまり詳しいことは分からず的外れなことを言ってしまうかもしれませんが、私はそれでいいのではないかと思いました。本当の意味で自分が頑張りたいこと、頑張りたくないことを見つけるための身体になっているというか。もともとは身体を壊すほど頑張れる力があった方ですから、ご自身の心身の願いに耳を傾け、自分なりの世界を見つけられる方なのかなとも思いました。その入口に今いらっしゃるとも言えるのかなと。的外れだったらすみません。私と少し似ているなと勝手に感情移入して書いてしまいました。そして、頑張ってこられたあなたに本当にお疲れ様と言いたいです。また心の内にあるものを聴かせてほしいなと思いました。