私の人生の少し①
なんだか誰かに読んで欲しくて、アドバイスが欲しいとか相談とかではなくつらつらと書いたものをそうなんだ、と読んでいただきたくて綴ります。
保育園の頃からしっかりしてるねと言われる子でした。20歳になってからもしっかりしてるね、大人な考え方をするね、と。
幼い時、私が物心つく前から祖母はとても悪口を言う人でした。
そしてヒステリックを起こすタイプでした。
365日それを高校生まで続けられ、私は悪口を聞く、言われるのが普通の毎日で知らず知らずのうちにそれがストレスになっていたことに気づいたのは高校2年、祖母が施設に入ってからです。
私は祖母みたいになるのが嫌で悪口は言わない、言いたいことがある時は相手にはっきり言うことを心がけるようになりました。
私の親は愛だとかなんだとかを口にしないタイプで、保育園から小学生の時は共働きであまりコミュニケーションをとる機会はありませんでした。あまり覚えていませんが、褒めてもらえることも少なかったようにずっと感じています。
でも、やりたいことはやらせてもらっていたし、それこそお金は惜しみなく出してもらってオシャレが好きだった私は、好きな服も定期的に買ってもらっていましたし、お小遣いも沢山貰っていました。
声優になりたい夢を何も言わず地方から東京に出して貰えて、奨学金は借りたものの、電気代、光熱費、家賃、諸々お金を出して貰っていました。(決して家は裕福では無いのに、です。)
それが親としては私のことが大事というしるしであり、愛だったのだと思います。
でも現実で吐かれた言葉がずっと忘れられません。
小学生の時、辛くて泣いて癇癪をよく起こす子だった私は、母から『悲劇のヒロインぶるな!』と言われました。『みんな頑張って生きてるんだから、みんな辛いんだから、あんただけじゃないんだから』と言われた言葉がずっとずっと消えません。
ちょうど同じ時期に、私は気が強い子でもあり、兄がいることもあってか男の子と仲良くすることが多くありました。
それに関する悪口や悪口の伝書鳩、クラスの女の子たちほぼ全員から悪口を言われているような状態になっていました(でも別に普通に一緒に遊んだりしていたのでいじめられていたかというと微妙です)
それを知っても、伝えられても気丈に振る舞い「だから何?」と言えるような感じで生きていました。
ですがその裏で、なんだか辛くなって放課後の教室で1人泣いていた時もありました。
でも、そういう話を親にすると上のような感じの言葉が返ってくる、もしくは『電話してあげようか?』等の、私としては“そういうことじゃない”という言葉を聞かされるため言わないようにしていました。
時には、私にも非があるのでは?仕方ないのでは。と言われることもありました。
本人たちは悪気なく、私の話を聞いた上で判断して言葉を言っているのですが、幼い私はきっと『それは辛かったね、悲しかったね』と言って欲しかっただけなんだと思います。
中学に入って、心が不安定になる時期が増えました。私は勉強ができなくて、親はしっかり勉強をコツコツできるタイプだったのでそれも相まって兄と比較されることはなくとも、わたし的に少しできたことに関して言うと『そんなの当たり前だ』とよく言われた覚えがあります。逆に言えば、できなかったことを否定されたことはありません。
受験期に入ると本格的に心が不安定になって、死にたくなるようになりました。
それでもなんとか志望校に受かり、高校生になります。
高校生になって、自分の中身への自己肯定感が下がっていきます。(容姿は幸い悪くは無く、見た目への自己肯定感は自分で自分を褒めることにより何とか保っていました)
高校に入っても一向に勉強が出来ません。そして褒められないなら(否定された気持ちになるのが嫌で)やらない選択肢をとりました。幸い、声優になりたかったので志望は専門学校でしたし、留年もなかったのでなんとかなりました。
高校に入ってまた、ずっと消えない出来事があります。
高校三年生の文化祭と体育祭の前日、祖母が死にました。
祖父の時もそうでしたが、人間いつか死ぬと思って生きているので特に泣けるということはありませんでした。
それよりも、生きていた人間の死体が怖い方が勝るくらいでした。
でも、この時葬式前に私は泣きました。
私の人生の少し②
続きです。長くてすみません
でも、この時葬式前に私は泣きました。
高校の文化祭は劇をやったのですが、絵が描けるため色んなチームに駆り出され、劇のセリフが覚えられないと言われたので録音して流してそれに体を合わせて動かそうということになりました。声優になりたいことをクラスでも言っていたのでまたここで駆り出されることになります。そして録音されたものを編集してBGMやSEをつけることが出来るのも自分だけだと思い、それも自分でやりました。(昔からそういうのが好きでよく作っていたので)
同時にバイトもしていたので22時までバイトをして帰ってから編集作業、みんなへの確認、2、3時間寝て学校に行くというような日々を数日過ごしていました。
もうボロボロでした。文化祭前日、同じような状態で祖母の危篤を知らされましたが私は親(と言うより大の大人たちが)が悲しんでる姿なんて見たくもないし、そうじゃなくてもそんなことをしてる暇があったら作業がしたい気持ちの方が強すぎて、何よりバイト先にも迷惑をかけたくなかったので祖母のところに顔だけ出してすぐにバイト先へ行きました。
先にも書いたように人間いつか死ぬものですから、バイト先の店長に家族が大変な時は帰っていいんだよと言われても帰ることはありませんでした。
家に帰って死を知らされて、作業があった私は前日にして朝まで作業を進めました。
ギリギリで完成し、当日ナレーションと音響を担当していた私は学校に行って驚くことになります。
音響の相方が私が諸々の編集等をやったのが気に入らなかったらしく、飛ばれて1人で音響とナレーションを同時に担当することになったのです。
(これについては、相方の人には悪い事をしたと少し思いましたが、やるからにはクオリティを下げたくない一心だったので許して欲しかったです。)
色々ありましたが無事成功してお客さんにナレーションもとても上手かったと褒めて貰えて本当に嬉しく、家に帰って疲れきった身体のまま、バイトに行ったのかやることがあったのか、そこは覚えていませんがすぐに寝ることができなかった覚えがあります。
その日も朝方まで起きていました。
次の日、体育祭があり最後の体育祭だったため朝から参加したかったのですが『葬式には出ろ』とのことで参列することになります。
私は薄情なので「なぜ未来ある私の思い出を死者に奪われなきゃいけないのか」と思っていました。ぶっちゃけると、ストレスがかかった毎日の原因である祖母への思い入れがあまり良くなかったこともあります。決して嫌いだった訳ではありません。好きなところちゃんとあります。
そんなこんなでまだ疲れが残った身体でギリギリまで寝てたかった私は自転車で葬式場へ向かうことになります。
ギリギリに起きギリギリに準備し、学校への荷物諸々カバンに詰めて家を飛び出ました。(自転車だったのは学校へ行くため、帰りはちゃんと自力で帰れるようにするためです。家から自転車で30分という感じだったので)
さて葬式場に着きましたが駐車場が分からなく、親に電話します。
イマイチ言ってることが理解できなくてブチギレられました。
何とか自転車をとめて部屋向かうと、親から衝撃の一言がこぼれます。
『数珠持ってきた?』
私は親が私の喪服一式を持っていっていったのを知っていたため、当然数珠も持って行っているものだと思っていました。
そうして同じように言葉を紡いだら『いや、机の上に置いてあったよね?朝言ったでしょ?』
前にも書きましたが、私はギリギリまで寝ていてそんな会話をした記憶がありません。そして家を出たのもギリギリすぎて急いでいたので机の上の数珠に気づくこともありませんでした。
ここから家族から総攻撃をくらいます。
あまりの言いように私は言いました。
「あなた達がお葬式の準備やなんやらで疲れているのはよくわかる。でも私だって文化祭の作業やバイトや、そういうのを朝までやってたの知ってるよね。そんな言い方はないんじゃない?」
そうして私にとって最大限の譲歩と心遣いをして冷静に返したつもりが、ここからボロボロの私を貫く言葉を紡がれます。
『それは全部あんたがやりたくてやった事で、勝手に引き受けたこと。自分で出来ない量の仕事をやろうとする方が間違い』
私は文化祭の準備の時、陰ながら泣いていました。
心も体も疲れていたからです。
それでも人前に出る時は涙を見せないようにずっとニコニコ笑っていました。
そんなふうに頑張っていたつもりだったので深く深く傷つきました。
ポロポロ涙が止まらず、思わず部屋を飛び出しました。
『お前が悪い』『馬鹿だ』とも他の家族から言われました。
私は何が悪かったのかわからなく、それでも悲しいことだけは分かり、でも相談する相手がいませんでした。
私の学校はスマホの持ち込みが禁止で、表立ってスマホを取り出すことができません。
友達に電話なんてできませんでした。
でも唯一、ネットの知り合いで連絡先を交換してる子がいるのを思い出しその子は通信制に通っている子だったのでもしかしたらと思い、電話をして話を聞いてもらって「私の何がいけなかったんだろうか」そう聞きました。
『何も悪くないよ。悪いことしてないよ。頑張っててえらいよ。そんなこと言われて辛かったね』
やっと、私がずっと誰かに言って欲しかった言葉を貰えました。
「そうだよね、そうだよね……私頑張ったよね」
泣きながら確認するように言葉を紡いでいました。
最終的に話を聞いてもらって何とかメンタルを持ち直し、涙をふいて何事も無かったかのように会場に行き、家族とは一切口を聞かずに葬式を終えました。
その後、火葬は出なくていいと言われ、叔母さんが学校まで送ってくれるというので自転車を車に乗せて送ってもらいました。
ここからまた私にショックな出来事が起こります。
学校について早々に担任に会ったのです。
一言少し笑って言われたのが
『タイミング悪かったな!今さっき学年写真撮り終わったんだよ』
最後の体育祭。最後の学年写真。
悲しくなりました。
家族から責められ、学校に行ったらアルバムに残すようなものにも参加出来ず、悲しくて哀しくて、私は笑いました。
「そうなんですね!残念です笑」
笑うしかできませんでした。
その後友達と会った時も、朝の出来事を大したことないかのようにケラケラ笑いながら話しました。
心が張り裂けそうでした。
これが高校の頃の私の忘れられない出来事です。
このあと家族からの謝罪はありませんでした。
だいぶ後にこの話をしても『そんなこと言ったっけ。でも酷い対応したなとは思ってた。ごめん』こんな感じでした
そしてまたこの話をする泣きながらの喧嘩を最近何度か繰り返すのですが『だから謝ったじゃん、何して欲しいの?過去は変えられないじゃん!』と言われます。
わかってます。過去は変えられません。
言っても仕方ありません。
あの時の私はもう誰も救えません。
でも、もうずっと私は親から『辛かったよね、頑張ってるね』そんなことを1回きりでも大人になる前に聞けてたら良かったと思います。
昨日も大喧嘩しました。泣き叫びながらの喧嘩です。
親も親で頑張って生きているし、頑張って私を育ててくれて、やりたいことをやらせてくれたのだと思っています。
それ以上を求めてしまう私がいけないんだと思います。
それが情けなくて、生きてるのが恥ずかしくて死にたいと度々思ってしまいます。
家族といえど他人なので、分かり合えることは無いし、私は家族ととことん合わない性格なんだと思い知ります。
それに加え、私は結局声優にはなれず、バイトを3個掛け持ちして配信をしたりイラストを描いたり、動画を作ったりして収入を得ています。
家にお金を入れれるほどの財力なんてなく、本当に情けないです。
正社員のように毎日同じ職場に行くのが苦手で、なぜほかの人と同じように出来ないのか。本当に情けないです。
また、人を好きになることができません。
他人のいわゆる恋愛とかの好意を寄せられると怖いと思ってしまいます。
原因は分かりません。
人を好きになることも出来ず、仕事も出来ず、そんな私が生きてる意味が分かりません。
昨日も泣き叫びながらの喧嘩をしました。
きっと意図せず傷つける言葉を沢山吐きました。手紙で謝りましたが、謝るくらいなら最初から言わなきゃ良かった。
自分の弱いところが大嫌いです。
見る度に反吐が出ます。
こんな自分が生きて誰かを傷つけるくらいなら消えてなくなってくれた方がマシです。
でも結局それも自分のためなので、私はどこまでも自己中なんですよね。
自虐じゃないです
こじらせすぎですね、笑
以上でした!
なんか少しだけ穏やかな心になれたかもしれません笑
感想1
投稿ありがとうございます。
「なんだか誰かに読んで欲しくて、アドバイスが欲しいとか相談とかではなくつらつらと書いたものをそうなんだ、と読んでいただきたくて綴ります。」と書いてあったので、私も読ませてもらって個人的に感じたことや考えたことを書いてみたいと思います。
何度も読み返しながら思ったことを書いていったので、順序が行ったり来たりしています。読みづらかったらすみません。
まず、読んでいて、保育園のころから学生時代まで、エピソード的な記憶がしっかりあるのだなと印象的に感じました。個人的なことですが、私はとても忘れっぽくて、幼少期のこともあまり覚えていないし、すごく重要だったはずのことも含め、色々なことをすぐ忘れてしまいます。だからこそ、人によって記憶の精度や緻密さ、どんなふうに記憶されているか…ということにはかなりの違いがあるらしいと思っています。
あなたがこの経験談に書いたエピソードをよく覚えているのは、それはそれだけ重大な出来事だったということもあるかもしれないし、もともとあなたが色んなことをよく記憶しているタイプなのかもしれないし、何度も反芻するように思い出していたからなのかもしれない…と思いました。
「私は祖母みたいになるのが嫌で悪口は言わない、言いたいことがある時は相手にはっきり言うことを心がけるようになりました。」「それを知っても、伝えられても気丈に振る舞い「だから何?」と言えるような感じで生きていました。ですがその裏で、なんだか辛くなって放課後の教室で1人泣いていた時もありました。」という部分を読んでいて、あなたは自分がこうすべきだと思うことに背かず行動したい、自分がどのように振る舞うか自分で決めたいと感じている方なのかなと思いました。私自身も比較的そのタイプで、自分が納得のいかないことをやることはとても嫌だし負担に感じます。でも、世の中には、自分自身がどうしたいかという部分をあまり重視しない人も結構多いのではないかと最近感じていて不思議な感じがしています。
「正社員のように毎日同じ職場に行くのが苦手」という言葉にもとても共感しました。私も毎日同じ職場に行くのが苦手(毎日同じことをすること自体が苦手)で、今は日によって違う働き方をしています。「なぜほかの人と同じように出来ないのか」ということは、私もかなり悩んできましたが、なぜなら同じ職場に行くのが楽なタイプの人と私は単純に性質が違うからだと今は思っていて、それが悪いことだとも思っていません。あなたが書いている「バイトを3個掛け持ちして配信をしたりイラストを描いたり、動画を作ったりして収入を得ています。」ということも、あなたがやりやすい方法をカスタマイズしてきた結果なのだろうと感じました。
この経験談には、あなたの家族との関わり、家族に対する願いが中心に書かれているように思います。
最後の「わかってます。過去は変えられません。」から後のところを読んで、あなたが書いている「過去は変えられない」「言っても仕方ない」という言葉は、自分自身に対しても何度も言ってきた言葉なのかなと思いました。そういう言葉で納得したいとも思いつつ、なかなか納得することができなくて苦しんでいるのかなと想像しました。
親について前半に出てくるエピソードでの「そういう話を親にすると上のような感じの言葉が返ってくる、もしくは『電話してあげようか?』等の、私としては“そういうことじゃない”という言葉を聞かされるため言わないようにしていました。」という部分を読んで、あなたとあなたの親が重視しているポイントは折り合わないことがかなり多く、結果としてコミュニケーションのすれ違いがたくさん起きていたのかなと思いました。
この場面ではあなたはあなた自身のつらさに寄り添って考えてほしかったのかな?と想像しています(違っていたらすみません)。ただ、あなたの親は心情よりも具体的な問題解決を優先するタイプなのかなと想像しました。また、親が「愛だとかなんだとかを口にしないタイプ」でありつつ「やりたいことはやらせてもらっていたし、それこそお金は惜しみなく出してもらって」と書いてある部分からも同じ印象を持ちました。
人にとって重視する部分は実はかなり違う…ということは私もよく感じ、意外な気持ちになることは少なくありません。
「みんな頑張って生きてるんだから、みんな辛いんだから、あんただけじゃないんだから」という言葉は、もしかするとあなたの親自身にとっては、そう思うことで頑張れたり、納得できたりするものだったのかもしれませんが、言われたあなたにとっては、あなたの「辛い」という気持ちを否定する言葉にしかならなかったのかなと思います。
でも、あなたは友達ではなく、他でもない親に「辛かったよね、頑張ってるね」と言ってほしかったのだと思います。
経験談を読んでいて、あなたの中には「家族はわかりあえるはず」という思いや「家族は支え合うべきだ」という思いがあるのかなと思いました。後者については親からの支えということだけでなく、自分自身も支えるべきなのだろうという思いがあるのかなと思いました。たとえば、「家にお金を入れれるほどの財力なんてなく、本当に情けないです。」という言葉からもそれを感じました。
家族を尊ぶことを重んじ、家族は連携し支えあわなければならないという家族神話のような考えがこの社会にはあり、私たちは生きている中で少なからずそういう考えを取り込んでいると思います。
ただ、経験談の中にも「家族といえど他人なので、分かり合えることは無いし、私は家族ととことん合わない性格なんだと思い知ります。」と書いてある通り、実際のところ、家族といい関係でいることが難しい場合も少なくありません。家族と言えど自分ではない他者である以上、相性の良し悪しは如実に現れることがあり、いくら家族が特別な存在であるはずだと思っていたとしても、性質や考え方、感じ方、価値観などがマッチしないことはあるのだと思います。ただそれは”あなた”が「家族ととことん合わない性格」であるというより、”お互い”の性質が違ったということだと私は思います。
それはもちろんお互いの話だから「お互い様」で我慢すべきだということではなく、本来であれば、誰かが困っている、苦しんでいる状態があるなら、その当事者だけの問題にするのではなく、地域や社会の中で解決していくべきことだと思います。
ただ、「家族の中で解決すべき」「家族の責任は家族で追うべき」という考え方が強い場所ではそういう社会レベルでの連携が難しいという側面があるようにも思います。
私自身は親との折り合いがかなり悪く、現在は連絡は取らないように、関わらないようにすることで自分の生活を守るようにしています。私は自分が子どものころ、ちゃんと理解した上でサポートしてくれる大人がいたらよかったと思っています。
あなたの経験を読んでいても、もしあなたの生活の中に、あなたを支える違うタイプの大人がもっといたら、あなたの感じることもかなり違ったのではないかと思いました。
その当時に戻れるわけではないのは確かですが、この社会の中で、もう少しさまざまな性質を持ちさまざまな状況にある人をサポートすることが当たり前になれば、少しは生きやすくなるのではないかとも思います。