経験談

生きづらさを感じる人が語る 経験談

経験談はそれぞれの投稿者の個人的な価値観や感じ方をそのまま掲載しています。一部、リアリティのある描写や強い価値観が含まれるため、読む人にとっては負担等を感じる場合もあります。各自の判断で閲覧してもらえるようにお願いします。

愛情とか、生きるのが正しいとか分からない

私は、公務員で心臓の弱い父と人付き合いの苦手な看護師の母、そして大人しい兄たちという家庭環境で育ちました。両親は私たちきょうだいに良くしてくれていたけれど、父は「人付き合いの大切さ」「礼儀正しさ」を、母は「男尊女卑」に厳しかったです。母からはことある事に「女の子なんだから」と言われ育ってきました。兄たちは「男の子だから」と見過ごされていることが、私は女の子だからと許されませんでした。
地域の伝統行事に参加しなければならないとき、同級生の同性は参加しないのになぜ私は参加しなければならないのか。それは父が地域の役員だからでした。そのときに、私は父の顔を立てるために行くのかと思いました。
また、学校では先生から優等生として認められ、嬉しいけれど窮屈なときもありました。同級生は許されるのに、私がすると「そんな子だと思わなかった」と言われ、罪悪感と閉塞感を覚えました。
中学で不登校になったとき、父が激怒しました。父からすれば、子どもを立派に育てなければという気持ちがあったのだと思います。父は「学校に行かせるのが親の義務だから、行け」と言いました。それが私には「親の義務のために、私は行きたくない気持ちを殺して行かないといけないの?」という疑問と不信感を抱かせました。そのときは担任の先生が助けてくれて、行くことができました。私はその先生を信頼していましたが、3年生の頃に父が重い病気で入院し、私が学校で不安定になっていると段々、「かまって欲しくてやってるの?大袈裟だなあ」という鬱陶しそうな態度になっていきました。後日、事情を知った先生が謝ってくれたのですが、私は先生のことを信頼できなくなっていました。
父はその後、病気で亡くなりました。入院中、意識が錯乱している父は子どものように家に帰りたがっていました。喉に管を通して苦しそうにしていて「殺してくれ」と言ったときもありました。私はショックと混乱で、頭がぐちゃぐちゃになって、思わず怒ってしまいました。その罪悪感と、死にたい人を生かすなんてこっちのエゴなんじゃないかと思うようになり、死ぬことが悪いことなのか、生きることが善いことなのか分からなくなりました。
今までの経験から、人から好かれること、期待に応えること、信頼すること、愛されること、分かり合うこと、生きること、すべてがまやかしに思えて、常識とか恩義とか愛情とか、そんなものが何になるのと冷めた自分がいます。自由にさせてほしいと思ってしまいます。だけど、誰かこんな私の気持ちをわかって欲しいと願う自分もいます。わからなくても、認めて欲しいと思ってしまいます。よろしければ感想ください。ここまで読んでくださり、ありがとうございました。

感想1

経験談の投稿ありがとうございます。読んでいて、あなたが育った環境では礼儀、作法や習慣のようなものが「個」のそれぞれのあり方よりも重んじられ、窮屈な状態が続いていたのだろうと感じました。「女の子なんだから」「男の子だから」「父が地域の役員だから」「学校に行かせるのが親の義務だから」など、さまざまな「理由」が書かれていましたが、その理由の先を問うてはいけないような、暗黙のルールが強くあったのだと思います。
その中であなたが持った「『親の義務のために、私は行きたくない気持ちを殺して行かないといけないの?』という疑問と不信感」は至極真っ当なものだと感じます。

また、父親さんの入院中の様子と、その後の死のことを読み、それこそ「正解がこうだから」ということでは解決できないような、どうしたらいいのかどう捉えたらいいのかわからないことに、あなたが混乱しながらも立ち会ってきたのだと思いました。

「今までの経験から、人から好かれること、期待に応えること、信頼すること、愛されること、分かり合うこと、生きること、すべてがまやかしに思えて、常識とか恩義とか愛情とか、そんなものが何になるのと冷めた自分がいます。」という文章を読んで、私もかなり似た気持ちを持っていると思いました。ただ一方で、「期待に応えたから愛される」というような因果関係以外にも信頼関係の方法はあるかもしれないと思うこともあります。
あなたはこれまで期待に応えるために努力をしなければいけなくて、それ以外の選択肢が見つからないような状況だったのかなと想像しています。でも実際には、それ以外のやり方も人生にはありうると私は思います。例えば、私がいま思いつくのは、(人からどう思われるかではなく)自分が疑問に感じることを追究することや、自分にとって楽しめるもの、居心地がいい場所を探す、気持ちよく生活できる手順を探してみる…みたいなことです。
すべてがまやかしに思える、というのも、様々なことを受け取って考えてきたからこそではないかとも思います。人生とはなにか、愛とはなにかを考えてきた哲学思想家もこれまでの地球には少なからずいるので、そういう人たちがどう考えてきたのかを読んでみるのも一つのアプローチかな?と思いました。(ちょっと脱線していたらすみません…)

「自由にさせてほしいと思ってしまいます。」というのは当然の、あなたにあるべき権利だと思います。あなたはいまどんなふうに暮らしているでしょうか。ここ数日は、どんなことを感じて、考えていたでしょうか。また、感じていることや考えていることを教えてもらえたらうれしいです。

感想2

経験談を通して「あなた」(本当はお名前で書きたいくらいなのですがわからないので)の存在について考えながら読ませてもらいました。中盤あたりであなたのことを“意思や権利をもったあなた”として理解しているひとは周りにいるのかな…と感じながら読み進め、最後まで読んでもそういった存在が私には見当たりませんでした。
あなたは女性のらしさや役割を求められることへの違和感、学校から受ける評価への罪悪感、親への不信感…を感じてきました。それらを感じるあなたがもつセンサーの精度がとても真っ当なものだと思いました。何度も「これはおかしくないか?」とセンサーが鳴っては周囲の決めつけや価値観、規範や風習などに押し込められ続け、自分でセンサーを切ってみたものの、あなたのこころの核心では社会に蔓延る価値観やジェンダー規範などにどこかで見切りをつけているのかなと私は感じました。
規範、常識、風習の前に、あなたが感じている気持ち、意志、希望といったものを大切にされた経験を重ねることができて初めて、信じたい、わかり合いたい、生きたいという意思が自分の中から湧き出てくるんだと思います。
これまでの経験でそれらをまやかしと感じて、自由を渇望するあなたのこころをとても人間らしく、センスがあるな…って私は感じました。
私も思い返してみると親から世間体という言葉を何度聞いたかわかりません。違和感でしかありませんでしたが、それに異を唱えると家庭の空気は一変しました。だからあなたのまやかしという感覚を見て何だかわかるわかるって嬉しくなったのが正直な気持ちです。
死にトリにはまやかしの同調圧力へのセンサーが鳴りまくってるひともきっとたくさんいると思います。ぜひ、これからもここに参加して欲しいです。
投稿ありがとうございました。

お返事1

お返事、ご感想ありがとうございます。
拝読しまして、ここ数日の思ったことや感じたことを伝えさせていただきたいです。

感想1さんと感想2さんのお二方をまとめて、伝えさせていただきたいと思います。

感想1さん、感想2さん、私の拙い文章をお読みくださり、ありがとうございました。
感想をいただいて、お二方は的確に私の伝えたいことを読み取ってくださり、私は「常識」「規範」「風習」に苦しんできたのだなと自覚できました。
そして、お二方とも私のような感覚をお持ちだということでとても嬉しく感じました。
なぜなら、ずっと「こんな私」(普通に適応できない私)は変なんだと思っていたからです。
当たり前のことに疑問や不信感を持ってしまう。みんなは当たり前に受け入れて、すんなりとできることが、私には時間がかかったり、苦しかったりしてしまう。
そんな自分が悪いんだとばかり思って、息苦しさを感じていました。
私は昔から国語が好きなのですが、国語が好きなのは自由だからです。どんな意見もどんな解釈もどんな感じ方も、国語の前なら許されるという感覚がありました。
そして今も、国語、ひいては文学と言われるものが好きです。
自由で、面白く愉快で、型にハマっていない考え方や捉え方、新しい発見があって楽しいです。
感想1さんのおっしゃるように、愛や生死感を考えておられる哲学者の方の本を読んでみようかなと思います。自分の心地いいものや場所に囲まれて、好きに生きていっていいのだなと、胸のつっかえが取れたようです。
素敵な助言をありがとうございます。
また、感想2さんが「人間らしく、センスがある」とおっしゃってくださって、自分の感覚を誰かに初めて認められたようで、とても嬉しく、心がムズムズするってこういうことなのだなと思いました。
そして、今思うのは、現実って実在があるようでまやかしなのかもしれないということです。
誰かの言葉も、あのときの記憶も、「今ここ」を過ぎてしまえば、あやふやになっていくもので、私が握りしめている気持ちがまやかしを作っているような感じもしています。
そう考えると、自分の中で素敵なまやかしを増やしていければ、もっと楽になれるのかもしれません。
「死にたい」という気持ちを認めながら、自分の好きなものに触れて、いつか運命(というと大袈裟ですが、寿命みたいなもの)が来たときに、死を素直に受け入れようと思いました。
まるで、親友が会いに来てくれたときみたいに。

長くなりましたが、ここまでお読みくださり、ありがとうございました。
「死にたい」気持ちに、明るく向き合えたような気がします。
また変化がありましたら、投稿したいです。
ありがとうございました。

一覧へ戻る