経験談

生きづらさを感じる人が語る 経験談

経験談はそれぞれの投稿者の個人的な価値観や感じ方をそのまま掲載しています。一部、リアリティのある描写や強い価値観が含まれるため、読む人にとっては負担等を感じる場合もあります。各自の判断で閲覧してもらえるようにお願いします。

どうしようもなく息が詰まる

人生の中で死にたいと最初に感じたのは小学生の頃でした。
クラスメイトに嫌なことを毎日言われ、元々表情の変化が薄かった私はほとんど鉄面皮になってしまいました。その影響か今もあまり表情をはっきりと出すのは得意ではありません。
嫌なことを言われても『学校は行くもの』だったのでずっと行っていましたが、それでも習い事の帰り道にマンションの10階だし飛び降りれば死ねるかな、と考えてみたり。
息が詰まる感覚、身体からのSOSも無視してひたすら誰にも言わず耐え続けて最終的にようやく言えたころには季節は冬になっていました。母に言うのが怖かったというのもありますが、その当時は「自分が言っておおっぴらになったらそのクラスメイトが家族にいっぱい怒られてしまうだろう」というところを心配していました。自分はそのくらい我慢強くなれてしまうような人間なんだというのはようやく最近自覚してきたように感じられます。
家の中は完全に安心というわけではありません。別に暴力があったりしたというわけではないのですが、家族の誰も部屋の扉を閉めない家だったので私が少し一人でゆっくりしたいと自室の扉を閉めようとすると何故?という顔をされたりしました。ノックもなしに開けられることが何度かあったのでそれは嫌だと主張するのも扉を閉めるのも諦めました。
中学生の頃にも死にたい気持ちは変わりなく持ち続けていました。どうせ生きていても何もできない、祖父母と母にも迷惑を掛けているんじゃないかと思うたびに息が詰まりました。(補足ですが私の家庭には父が居ません)
詳細はあまり覚えていないのですがその頃母に「育て方を間違えた」と面と向かって言われたときに私にもっと衝動性が備わっていたら本当に死んでいたかもしれません。
この時期に友人が困っていることなどを色々聞いて人を助けられる人になりたい、と思いそこからカウンセラーになりたいという夢を持ちました。
高校生になっても死にたい気持ちはふと湧き上がってきて、そのたびに息が詰まりました。周りにも色んな環境の人が居る、自分だけがつらいわけじゃないと自分に言いながら何となく生きていました。
大学生になってから、自身の夢を叶えるために心理学を専攻して頑張ってきましたが、就活に向けて徐々に準備を進める3回生のころから死にたい、息が詰まるという回数が増えました。でも死ねないのです。単に痛いのが嫌いだからというのもあるでしょうが、それ以上に死ねない理由がぎりぎりで私を繋ぎとめています。
ただそれでも「自分は母に迷惑を掛けて生きている。」「私なんていなければいい。」と思う気持ちは頭から離れません。
4回生になって就活をきっちりやらねばならない、でも出来ない、身体がちゃんと向き合ってくれない、とほとんど毎日のように息が詰まっています。このままでは溺れてしまうのではないかと思うほどに。でも、それでも身体と心を無理にでも動かして生きていかなければならないのです。いつ沈んでしまうか分からない。
正直に言うと、悔悟と反省ばかりの人生だったように思います。
母に言わせれば「あんたの人生は薄っぺらい」らしいし母から見た私は「気遣いが全然出来てないし、幼稚園児と変わらない(ほどに幼稚)」らしいですが、それでも頑張って生きてきました。何とかやってきました。やってきたつもりです。母から知恵遅れと言われたことが一度だけありましたが、それでも頑張ってきました。
でもこの大事な時期に頑張れないのです。いつもだらけていて、やらなければならないことは後回し、忘れ物こそあまりしないもののぱっと言われたことがすぐ脳内で消えてしまったりそもそも意味のある言葉として聞き取れなかったり。
自分はどうしようもない人間です。死んでしまえばいいのに、と思いながら生きています。誰かに見守られてよく頑張ったねと言ってもらえるような幸せな終わりなど必要ありません。ただ、ゲームやテレビの電源を切るように終わりたいのです。それで十分です。
苦しくて辛いですが誰しもがこの程度は抱えている、と思います。
希死念慮はお酒とエナジードリンク、時々煙草で誤魔化し騙し騙しやっていますが、自分の弱さを直視するともうあのころ浅はかにも、傲慢にも思い描いていた夢は叶えられないような気がしています。
一生苦しむくらいなら、もうここで終わりたい。溺れ続けて苦しい。
どうせこの心に空いた穴は埋まらないし満たされない。

乱文失礼しました。気持ちを纏める、言語化するというのがあまり得意ではなかったので相当に見づらいものになったかと思います。それでも私の拙い言葉を最後まで見てくださった方。本当にありがとうございました。

感想1

タイトルにあり、文中にも繰り返し出てくる「息が詰まる」という感覚がひしひしと伝わってきて、読んでいる私自身も、気づいたら呼吸の仕方がわからないような感じがしました。体感の滲み出るような文章だと思いました。また、私自身の死にたい気持ちと「息が詰まる」「息ができない」という感覚(比喩としてでもあるけれど、実際の体の感覚でもあると私は思っています)は密接に繋がっていると感じてきたので、どこか共感しながら読みました。
投稿者さんがこれまで過ごしてきた環境は、投稿者さんにとって安全や安心を感じられる場ではなかったのだろうと思いました。その中でも「学校は行くもの」「自分が言っておおっぴらになったらそのクラスメイトが家族にいっぱい怒られてしまうだろう」「祖父母と母にも迷惑を掛けているんじゃないか(迷惑をかけないようにしなければいけない)」「就活をきっちりやらねばならない」など、様々な思いで日々を続けてきたのだと読み取りました。その思いには、おそらくこの社会の中で言われる「○○であるべき」という考えが少なからず含まれていて、もしかするとそういう内面化せざるを得なかったメッセージにも苦しめられている部分があるのではないかと思いました。まずは投稿者さんに、なにか労りの言葉をかけたいような気持ちになりました。
「育て方を間違った」という言葉は、実際のところは母親さん自身の中にある期待の問題なのだろうと私は思うのですがが、そう言われると、まるで言われた側が間違っているかのように感じられそうで、苦しい言葉だと思いました。
本当であれば、それぞれの人の困りごとは抱え込んで解決しなければいけないものではなく、助け合いながら生きるべきだからこそ社会というあり方が必要なのだと私は思います。ただ、自己責任、自助努力という言葉が飛び交う中で、いまの社会のやり方に相性が悪い人は(そして実は相性がいい気がしている人であっても)重い荷を背負わされてしまっている状況があるように思います。
「苦しくて辛いですが誰しもがこの程度は抱えている、と思います。」と書いてあり、そう思うことでなんとか自分を奮い立たせようとしているのかなと思いました。でも、誰しもが抱えているなら、誰しもが助け合えるほうがいいだろうと思うし、投稿者さんが書いている「苦しくて辛い」という感覚はまずなによりも優先されていいはずなのに、と思いました。
投稿者さんが気を張らなくても過ごせる時間はどこかにあるでしょうか。また、どんなところであれば、すこし楽な気持ちでいられるのか、もし思いついたら聞いてみたいです。

感想2

全文を読んで、「どうしようもなく息が詰まる」というタイトルが、実にすべてを凝縮していると思える経験談でした。読みながら、どうしてそこまで耐え続けることができるのだろう、どうしてそこまで耐える道を選ぶしかなかったのだろう…?というのを考えてみたのですが、今のところキレイな仮説は提出できなさそうです。

ただ、母から言われている言葉から想像するに、あなたがSOSを出そうと思えるような関係性ではなかったのだろうとは思いました。
とくに、「育て方を間違えた」「あんたの人生は薄っぺらい」「気遣いが全然出来てないし、幼稚園児と変わらない(ほどに幼稚)」という言葉は残酷で、自分が言われていなくて字面で見ているだけなのに、少しショックを感じたくらいです。ここまで耐えて頑張ってきたあなたが、母という大きな存在にそれを言われたことを想像すると、それこそ息が詰まるようなイメージが湧きます。どうしてそんなに尊厳を傷つけられなきゃいけないの…?と問いたくなります。
どれもこれも、「なんであなた(母)がそれを決めつけるんだよ…」と、私としては異議を申し立てたいです。

また、頑張りってなんなのだろう…?というのもぐるぐる考えています。就活は、一般的に考えれば、必要なことに見えるのかもしれません。でも私の周りは就活から逃げて、違う形で就職したり、時に稼いで時に人や制度に頼りながらマイペースに暮らしている人が結構います(自分も大いに逃げてきました)。いわゆる「普通」「こうあらなくてはならない」と思われる道に真っすぐ食らいつくのも一つの努力なのかもしれませんが、自分らしくいられる道を探してみるのも、休むべきときだと感じたら一度休息するのも、私は努力だと思うのです。

もう一つ、心に空いた穴というものについても考えてみています。埋まらないし満たされない、というのは感覚的にはたぶんわかります(自分にもそういう渦のようなものがあるので、それのもっと大きく深いものをイメージしています)。あくまで私の場合はですが、この渦とは一生のお付き合いになるのだろうと覚悟しています。
そういった穴を抱えてしまった人に対して、生きていればいいこともあるよとか、頑張れとかは言えないなと思います。でも、どうにか死とは違う形で、穴に支配されるような人生からは逃れられないのだろうか…と願ってしまう自分もいます。
経験談の投稿、ありがとうございました。私が一人とりとめなく考えている感想になってしまい、失礼しました。

お返事1

感想をいただいてじっくりと読み返して、「すごく優しい言葉をいただけた」と思いましたし、顔も見えないし現実世界で会ったこともないであろう自身にそのような有難い言葉を掛けていただいたことに嬉しさを感じました。
自分は自分自身の想いを言語化することがとても苦手なので正直に言うと「こんな殴り書きのような文章を体験談として送っていいものか…」とかなり悩みましたが、送って良かったと思います。

感想1への返信
自分が気を張らなくていい、落ち着く時間は趣味の時間で、特に小説を書いているときや音楽を聴いているときです。自分の「好き」や「こうしてみたい」を表現するためにもその2つが一番使いやすいと感じています。
自分が家族に対してあまり安心感を抱いていないのは家族が「まとも」だからだと思います。(これは個人の、というか子どもの視点から見た親や祖父母への気持ちですが)
母と祖父、そして親戚の数人が教員免許を持っていたり祖母が少しだけ保育士をしていたことがあったり、自分から見ると「まともですごい」人たちばかりだと感じます。
だからこそ余計に変わり者の自分が無力だとかどうしようもないだとかそんな風に考えてしまうのかもしれません。
重ねて言いますが言語化が苦手なので、ストレスなどは一人で抱え込んで爆発させてしまうタイプです。
そんな感じなので今後の人生において人を頼れるようになることが課題であり必要なタスクと思っています。流石に誰かに話すときには全部曝け出さなければならないという極端なことは考えていませんが、口下手とは一生向き合って折り合いをつけていかないとなと考えています。

感想2への返信
自分が耐え続けられているのは身も蓋もないことを言うと性格なのかな、と思います。
典型的な日本人らしい性格というかそれよりも多少強迫的な部分はあるかもしれません。
人に迷惑を掛けたくない、安定した人間でいたいという思いがそうさせているのではないかと自己分析しています。
母は「正論をよく言い自分の意見をハッキリと人に伝える人」で「その場の雰囲気がシビアになりすぎないようになあなあにしたり主張や意見を言うのが苦手な自分」と性格が合わないというのもありますが、そもそも子どもが苦手なのに自分を産んだと自分に言うようなある意味冷たい人でもあります。(勿論祖父母が居るとはいえ母子家庭の状態で自分にお金を掛け手を掛け育ててくれたことには感謝していますし、母が働いている会社ではきっとそのはっきり言う性格はプラスに働いているのではと思っています)
自分が中々出せないSOSでもそれを(病気をしたときやいじめられたときに振り絞って)出したときには受け取ってくれたので気にしすぎな自分の性格と母の性格がミスマッチなだけだろう、と言い聞かせています。それでも色々と言われて悲しく感じた気持ちを全ては拭いきれませんが。
自分の周りにも就活以外のルートを通って幸せに生きている人は確かにいます。ですが、自分の面倒くさがりな性格では多数一般のルートから逸れて違うルートを開拓して生きることは出来ず諦めてしまうでしょうし、立ち止まると動けなくなるのを自覚しているのでとにかく動き続けるしかないという思いに背を押され続けています。けれど歩く速度が調整できるように完全に立ち止まる必要もないのかな、と考えられるようになったので疲れたときは少し緩める、が出来るようになっていきたいと思っています。

近況として特に言えるようなことはないですが、日々死にたいという思いとは戦っています。
今日は「死にたい」とあまり考えなかったなという日もあれば何をしていても纏わりつくように「死にたい」が離れない日もあります。
少しいいことがあったとしても「少しいいことがあった」ことを上手く感じられないこともあります。
鬱々とする日々はまだ普通には過ごせず、焦燥と無気力のうねりを乗り越えることに精一杯です。
それでも「死ねないから生きる」、それでいいと思えるようになることが最終目標です。

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