経験談

生きづらさを感じる人が語る 経験談

経験談はそれぞれの投稿者の個人的な価値観や感じ方をそのまま掲載しています。一部、リアリティのある描写や強い価値観が含まれるため、読む人にとっては負担等を感じる場合もあります。各自の判断で閲覧してもらえるようにお願いします。

もしも神様がいるのなら。

なんだかなぁ…と思うことばかり。ようやく生活を立て直したばかりじゃないか。新生活を始めたばかりじゃないか。
ここ2年ばかりは散々だった。トラウマとなる出来事があって、それを発端にしてPTSDを発症し、時を同じくして就職して、なのに精神科に通い始めて、通院から1ヶ月で休職して、さらに入院することになり、3ヶ月閉鎖病棟で過ごし、退職した。せっかく就職したのに結局実働3か月半、在籍半年で退職せざるを得なくなった。
介護職だった。介護の仕事がしたい、福祉の業界で生きてみたいと思って就活して新卒で就職した職場。職場の雰囲気は悪くなかった…と思ってるけど、対外的に見るとそうでもなかったんだと思う。私の配属課は正社員はリーダーと私の2人だけが女性で後の6人は全員男性、私の前にも女性の正社員は配属されたらしいけど何人も2~3ヶ月で辞めちゃって結局定着せず。新卒の女性が配属されるって聞いた時点で心配してたんだって私が辞めるとなった時に他の課の先輩が言ってた。
それでも私はパートさんや他の課の先輩方にたくさん助けられて、利用者さんにもたくさんのことを教わって、介護の道を進み始めていた。ゆっくりだったと思う。もっともっと効率的にそつなくこなせる人もたくさんいると思う。でも私は、もっと続けたいと思っていた。わからないけど。休職した時点で復職できるとしてもあの職場に戻れるのかって考えたら怖かったから。扱いにくそうにしてるのは伝わってきていた。そうだよね、男性ばっかりの環境に女性が突然入ってくるわけだから。上長とパートさんしか女性がいなかった環境にいきなり未経験で全く関係ない大学を卒業した新卒の女性が入ってきたんだから。
「大卒なのになんで介護?」
そう言われることばかりだった。配属課の先輩からも聞かれたし、大学の同期とかからも聞かれた。
「頭いいのに何でうちなんて来たんだろうねって皆で話してたんだ」
4月の時点で先輩にそう言われた。
「頭いいからわかるよね?」「頭いいからわかると思うけど」
そんなこと言われたって困る。配属課には大卒がほぼいない環境だったから、地方といえども県内ではそれなりに名の知れた国立大卒が入ってきたらそりゃそうなるのかもしれない。多分扱い方がわからなかったんだと思う。もしかしたら「頭いい」は褒め言葉だったのかもしれない。もしくは皮肉だったのか。でも私は別に頭がいいわけでもなければ、そんなに全てを1回とか説明されたくらいで、先輩の動きを見たくらいで、理解はできない。
戻れなかったのかもね。戻っていいよって許可が下りたとしても戻れなかったのかもしれない。介護、面白かったのにな。面白いっていうのが不謹慎だのふさわしくないだのって言う人もいると思う。でもね、私はとても面白い分野だと思う。
「できなくなることが増えていく世界で人はどのように生きていくのか / どうしたらその人が生きたいように生きることができるのか / その人がその人らしく生きるためにできるサポートは何か」
それを考えるのが介護の仕事だと私は教わったし、実際本当にそうなんだと思う。理想論?そりゃそうだ。現場はいつだって余裕なんてなくて、きっとたくさんたくさん利用者さんにも我慢をさせてしまっていたし常に最良の選択ができたとは思えない。でも、それでも、ほんの小さなことだったとしてもその人の好みや要望に合わせて行動できた時に利用者さんが見せてくれる笑顔がすごく嬉しかったし、特にパートさんたちは利用者さんの好みを把握して動いていてかっこよかった。
…未練なんてないと思っていたのになんだ、未練たらたらだ。
そんな私は今、リハビリ職を目指して専門学校に通っている。新しく掴んだ目標、生き直しをかけた道、どうしてもどうしても叶えたい夢。なのにさ、今度は病気が見つかった。大腸にポリープがたくさんできる病気。しかも放っておくとどこか時点でほぼ100%がんになるらしい。何だって今なんだ。
ついこの間、1回目の切除だった。全身麻酔で3時間、大腸内視鏡だから別に切開もなければ痛みが出ることもほぼないしある意味すごく安全な手術。手術とも言わないかもしれない。今回取ったポリープの数は600個。次回は12月か1月。3日目は来年の夏前、その後も定期的に検査と切除が必要。600ってとんでもない数字だよなって思う。取る医師もすごいけど、そもそもそれだけできるのも驚き。たかが3時間弱でそれだけの数を取れる医師はやっぱりプロなんだと思うし、技術や経験に裏打ちされた強さなんだと思う。そんな先生に診てもらえてよかったと思う。がんになる前に早期発見できてよかったとも思う。
…でもさ、考えてしまう。それがなければ私は今回だけでも切除のために4泊5日、それ以外にも診察で数日、学校を休まなくてもいいんだよなとか、病気さえなければこの出費はなくても済むんだよなとか。遺伝性の病気で親がそうなら子に50%の確率で遺伝するのはわかってるし、私が生まれる時点では病気は何も見つかってなかったんだから誰も責められないのはわかってる。今だって親がそうだと確定したわけじゃないし、何なら親よりも私の方が症状がわかりやすく現れてるんだからなおさら、親を責めるわけにはいかないし責めるつもりもない。誰を責めるわけでもないけど、考えてしまう。もしも病気じゃなかったらって。…病気って言ったってポリープができやすいだけで日常生活に何か支障があるわけじゃないから何も言わなかったらどう見ても健康なんだけどさ。だからなおさら、本当に一生定期的な検査や切除が必要なのかがわからないのかもしれない。実感がわかないのかもしれない。
最近考えるんだ。受容って何なんだろうって。リハビリ職を目指す上でも出てくる「受容」をまさか自分が身をもって経験するとはって思ってるけど、そうじゃないのかもしれない。私はきっと何一つ受容なんてしていない。できていない。トラウマとなった出来事だってトラウマ反応が出ている以上自分にとっては大きな出来事だったって頭ではわかってるつもりだけど未だにあれは大したことなかったって思ってる。病気だってちっとも自分事と思えないし受け入れてなんていないんだと思う。受容って何なんだろう。受け入れて前を向いて進めるほどに強くない。
言う人はいるかもね。自分が患者側の視点を知ることで医療職として患者さんに対した時に患者さんの気持ちがわかるとか、説得力がとかなんとか。でもさ、そんな風に美化できるかって。誰が好きでトラウマを抱えるのか。誰が好き好んで精神科に入院するのか。誰が望んでせっかく就職した職場、続けたいと思った仕事を辞めるのか。誰が病気になる事を、それも一生付き合っていかなきゃいけない病気を抱えることを望むのか。誰も望みやしないだろう。誰だって病気になんてなりたくないしトラウマだって抱えたくないしつらいことなく生きていきたいと思うだろう。
もしも神様がいるのなら、もしも神様がこのくらいは乗り越えられるだろうと考えて試練を与えるなら、聞いてみたい。何でこのちっぽけで何もできない無力な人間にそれだけの事を抱えさせるのか。
…知ってるさ、私よりもとんでもない目に遭ってる人はたくさんいるし、もっともっと理不尽なことだってきっとたくさんある。皆何かしら苦労や困難を抱えていて、傷つきながらも生きている。でもさ、全部この2年弱の間に凝縮しなくてもよくないかって思ってしまう。トラウマも就職も入院も病気も、全部この2年弱の出来事。さすがにそれはさ、ひどいんじゃないかと思う。ちょっと厳しすぎると思う。もう諦めたいと思う時なんてたくさんある。何度も何度も諦めようと思った。できなかったけど。できてたらなぁって思うことは正直ある。あのとき終わらせてたらその後のこの痛みを知ることはなかったんだなぁとか。どうしろというんだ。乗り越えられると思っての出来事ならさ、ちょっとスパルタすぎると思うんだ。生きていかなきゃいけないのなんてわかってるけどさ、でも、諦めたいとも思ってしまう。いつから生きるのってこんなに難しくなったんだろう。もう許してくれないかなって、思ってしまう。

感想1

神様の存在を思わず考えてしまうぐらい、あなたが直面している現実を受け止めることが難しいのだろうと思いながら読みました。
経験談を読んで、あなたは明確な目標を持ち、描いた夢を達成していく人なのだろうと感じました。明確な夢や目標を考えると、この2年あまりで起こった出来事は試練の連続なのだろうと思います。その葛藤を感じさせるのは「受容」「乗り越える」などのキーワードなのかなと思います。人は見方によっては様々な可能性を秘めた存在だと思います。努力ややる気で目標を達成したり、何かを成し遂げたりすることができます。しかし、同時に人はとても無力でちっぽけな存在でもあります。自分の力ではどうにもならないことが本当にたくさんあります。誰に何が起こるのかはわかりません。
例えば、私には重度の障がいをもつ子どもがいます。生まれたときには障がいはわからず、少し成長してから先天性の障がいがあると分かりました。周囲には同じように我が子に障がいがある親の仲間がいます。多くの仲間たちは、自分の子どもに障がいがあると分かったときに、ショックを受け、その際に「受容」「乗り越える」という言葉が出てきます。それこそ神様の話題が出ることがありました。神様がこの親なら育てられると思って、親を選んで、子どもを授けたというような話題です。私自身は自分の子どもの障がいについて、ショックを受けることはなく、「そうなのか」とすんなり理解しました。確かに子育ては大変な側面もありましたし、子どもが大人になった今でも介護が続いている実際の負担もありますが、神様の存在がちらつくことはありませんでした。頑張って受容したり、乗り越えた感覚もありません。障がいを持つ子どもの親にも「障がい受容」という言葉が当てはめられ、支援者があの親は子どもの障がいを受容できていないというようなこと言うこともあります。私はたまたまショックを受けないタイプだったため、あたかも子どもの障がいを受容している立派な親だと評価されることもありました。でも、私にとってはとても違和感でした。受容しても、受容できなくても、どちらも同じように自然な感情であり、どちらがいいとか悪いとかではなく、どちらでもいいのではないかと思うのです。しかし、多くの場合はなぜか受容することはいいことで、受容できないのはよくないと言われます。私は、何かに直面したときにそれを嫌だと思ったり、受け入れがたかったり、ショックを受けたりするのは、普段あまり自覚することのない自分の内面と出会っているプロセスの一つなのかなと思います。自分ってこんな側面があったのか、そして、この内面はいったいどこから来たのかなということ考える機会にもなります。
人は社会的な生き物なので、単独で価値観や内面を形成することはないと思います。いろいろな人たちからのしつけや教育を受け、多くの人たちのふるまいや評価、意見やメッセージから、何がいいのか悪いのか、何が幸せで何が不幸なのかという基準を内面化していきます。あなたは病気や障がい、トラウマになるような出来事、仕事を中断しなければならないことを「誰も望みはしないだろう」と書いていました。確かに自ら望む人はいないかもしれません。そうは言っても、それらは誰にでも起こりうることでもあります。それを試練と呼ぶのか、不幸と呼ぶのかは一人ひとり違うでしょう。正解はないし、正しさも間違っていることもないと思います。
ただ、自分自身に起こったときにどう感じるのか、また、自分以外の人に起こったときにどう思うのかは、私たちが暮らす社会をどのような社会にしていくかとつながっているように思っています。介護の世界に惹かれるあなたが、受容と何か問い直し、何を乗り越え、その先に何を見ようとしているのか、あなただけの物語ではなく、私たちにもつながっていると私は感じました。

感想2

あなたが自分のことや周りのこと、学んできたこと、そして感じたことを照らし合わせながら、内省し逡巡しながらそこにいることを感じていました。それから、あなたのこれまでの人生は動き続けることで成り立つような部分があったのかなと想像しました。その中で3ヶ月の入院はすこしの猶予だったのかなとも思うけれど、それで落ち着けるようなその後があったわけでもなく、この2年は自分の現在と未来のイメージが目まぐるしく書き換わり混乱することも多い日々だったのかなと思います。

「できなくなることが増えていく世界で人はどのように生きていくのか / どうしたらその人が生きたいように生きることができるのか / その人がその人らしく生きるためにできるサポートは何か」この問いと実践の往復は、たしかに介護や支援の現場の前提となることだと思いました。でも私は、本当はそれが「支援される側」(とされる一部のだれか)についてだけ考えるべきことではなく、世の中全体が、そのためのきめ細やかなネットにならねばならないようにも感じています。私たちは有限の存在で、肉体的にも時間的にも、ほんのわずかなそれぞれにできることの中で生きています。それはどんなに高給取りだろうと権力があろうと同じで、むしろそういう人ほど気づかないまま支えてもらっているというだけだと思っています。だからこそ、あなたが書いていたような「その人の好みや要望に合わせて行動できた時に利用者さんが見せてくれる笑顔がすごく嬉しかった」という仕事のひとこまが、介護という枠組みで当たり前に可能になるだけでなく、もっとさまざまな状況下でだれにでも(あなたにも)可能になってほしいと思うのでした。

私自身も精神疾患含めて体がままならない状況の中で「なぜ」と幾度も問うてきたこともあり、あなたの「受容」についての考えを読んで、私もまた「受容って何なんだろう」と考えています。個人的には「受容」をすべきものだと押しつけられる(押しつける)ことにはかなり抵抗感があります。それは、多くの場合すでにままならない状況にいる人の主体性をさらに蔑ろにするメッセージとなってしまう気がしているからです。
先日、柞刈湯葉という小説家の「東京都交通安全責任課」というSF短編を読んだのですが、その中に「昔は、責任をとるっていうのは神様の仕事だったんだよ」「日照りになればお天道様のせい、洪水になれば龍のせい。昔の人は、自然界のどうしようもない理不尽を精神的にやり過ごすために、自然現象を擬人化した神様を用意して、責任の所在を明確にしていたのさ」というセリフがあり印象に残っています。物語は科学技術が発展し神が信じられなくなった世の中で、責任を取る係だけを人間がやっている……というようなすこし皮肉めいた内容なのですが、私たちの現実にも、だれになにを問うていいのかわからない理不尽は無数に存在し続けているように思います。それが簡単に他責すらできない出来事であることもすくなくないと思います。ただそれでも、それが個人の中で(あるいは家族など「身内」の中で)解消すべき問題のように扱われるのは自己責任論的すぎて、そうでない考え方はないものかと思うことがあり「受容」という言葉が使われるときに警戒してしまう気持ちがあるのでした。……思考を巡らせている間に、だいぶ脱線してしまったかもしれません。すみません。

でも一方では、私自身も「なにをどのように自分のこととして受け入れるか(受け入れないか)」という問いへの応答を人生のかなり中心部分に置いているようにも感じています。嫌だから拒否しますと言って拒否できるようなものではないたくさんの否応なしの出来事、あなたにとってのトラウマとなる出来事やPTSD、ポリープができる病気のこと、そういうことが立て続けに現れる中で、疲れてしまうのは無理からぬことだと思います。だれに向けていいかわからない抗議を、憤りを言葉にするのは、とても真っ当なことだとも思いました。あなたはあなた自身のことをわかろうと、自分の人生に触れようとし続けているのかなとも感じています。

私は今も痛みや苦痛の中で死にたいとかこれ以上考えることを諦めたいとか思うこともありつつ、なんだかんだ、なぜだか、何年も、もしかしたら何十年もそんなふうに生きています。許しも諦めも、うまいことだれかが与えてくれるものではないのかもしれないけれど、神様がいてもいなくても、あなたになにがしかの穏やかな時間が訪れたらいいなと願っています。

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