子どもの頃は良くも悪くも鈍感で、自分に向けられた人の善意や悪意に対しても、どこか他人事のように受け取ってきました。
しかし、学生時代、些細な人間関係のトラブルで学校に行くことができなくなり、一緒に暮らしている家族に嘘をついて学校をサボっていました。一度学校に行かないと、それから通学路が近づくと落ち着かなくなり、最寄り駅から離れた駅に降りてただ街中を歩き続け、学校が終わる時間になってから帰宅するという日々を過ごしました。その結果、適応障害と診断され、家族や友人、学校の先生やカウンセラーの方に支えられて何とか回復しました。
ですが、その後の就活で再びつまづき、今度は双極性障害と診断されて、結局非正規の仕事に着きました。その職場でも先輩方の考え方や社内方針が合わず、メンタルが不安定になって退職、今では身内が勧めてくれた職場で働いています。
これまでの人生を振り返ると、自分がどれだけの人に支えられて生きていたのかということを改めて理解したと同時に、人生の転機という場面で私自身の力では何も行動を起こせていないという事実が情けなくて恥ずかしいです。
思えば自分は本当に自分勝手に生きていたのだな、と。自分のことしか考えないで生きてきたそのツケが今になって回ってきたのでしょう。
もういい年になるのに非正規雇用、生まれてから人生のパートナーとなる人ができたこともありません。私の同級生は既に家族を持っている人もおり、独身でも自立して生活している友人も身近にいます。対する私は今でも家族の庇護下で実家暮らしです。家族は優しいです。しかし、私が身内だなんて、家族に申し訳ないです。
私はきっと、家族がいなければ生活できないでしょう。貯金はほとんどありません。目先の欲望に捕らわれて散財してしまいます。散財するとストレスが減った気がします。一種の買い物依存症かもしれません。最近になって家計簿をつけ始めましたが、今の貯金では一人暮らしはまず無理です。
今の職場で働き出してから数年経ちますが、未だに忙しくなると一人で勝手にパニックになってしまいます。職場の人たちも親切ですが、「年数経ってこの程度か」と思われているのではないか、と不安に襲われます。些細なミスや苛立ちが頭に引っ掛かり、たまに職場でこっそり泣いています。もういい大人なのに泣く自分が恥ずかしくて情けないです。
私は家族の中の穀潰し、職場のお荷物、友人もお情けで私と繋がってくれている。そんな考えが頭の片隅にずっとあります。彼らと過ごす時間は楽しいですが、ふと一人になった時に「私がいない方が彼らにとって幸せなんじゃないか」という考えに納得してしまいます。だってそうですよね。私がいなくなればその分家族が使えるお金は増えるし、職場もより良い人材を確保できて給料泥棒を追い出せるし、友人もやっとこんな人間から解放されます。私の存在なんてそんな者です。私が死んだって世界はたいして変わりません。
こんな人間になってしまった、家族には申し訳ない気持ちでいっぱいです。私は子どもの頃に大病を患いましたが、その時に死んでしまえば良かったんじゃないか、と最近になって考えます。私が成長して余計なお金も使わずに済んだし、たまに思い出してもらって家族内の話に上ることができたらそれで良かったんじゃないかって。
兄弟がいますが、私とは似ても似つかない優秀な人です。私がその人の立場だったらきっと、私みたいな人間が兄弟だなんて恥ずかしくて堪らないでしょう。私とその人の顔が似てなくて良かったです。兄弟に間違われることはまずないからです。その人には、私なんかよりずっと幸せになってほしいです。
今日、「三十になる前に潔く死にたい」と神社にお参りしてきました。これ以上生き恥をさらすつもりなら、さっさと死んでしまった方が周りの人たちのためになると考えた結果です。もし、最期の瞬間に何か良いことができたら、家族は私を誇りに思ってくれるでしょうか。明日も有名な縁切り神社に行って、この世との縁を切ってしまいたい。
経験談はそれぞれの投稿者の個人的な価値観や感じ方をそのまま掲載しています。一部、リアリティのある描写や強い価値観が含まれるため、読む人にとっては負担等を感じる場合もあります。各自の判断で閲覧してもらえるようにお願いします。
なんとなく希死念慮が頭から離れません
感想2
全体を読んで、自分に対してかなり厳しい人なのかなと感じています。これまでの人生の転機で、自分では何も行動を起こせなかったと書かれていましたが、本当にそうなのかなと私は思ってしまいます。学校に行けなくなった時に、サボったことも当時の自分なりに限界を感じて、自分を守ろうとしていたことだったのではないでしょうか。就職先も、たとえ誰かに勧められたとしても、そこで働くと決めたのはあなた自身ですし、今泣いてしまう日がありながらも仕事を続けていることは、簡単にできることではないと思います。
家族や友人、周りの人たちがあなたを支えてきたことを、すべて「自分は人に頼ってばかりだった」と受け取っているように感じました。でも、人に支えてもらうことと、自分の力で何もしてこなかったことは、同じではないような気がしています。むしろ、今までいろんな人があなたの周りに残っていることを考えると、あなた自身も人と関わりながら過ごしてきたのだろうなと、勝手ながら想像しました。
一方で、職場の人や家族が本当はどう思っているのか分からないのに、悪いほうへ悪いほうへ考えてしまう気持ちには、私も少し身に覚えがあります。自分のことになると、できなかったことばかり拾って、迷惑をかけた、損をさせた、いないほうがいい、とどんどん話が大きくなってしまう。実際のところ、相手の本当の気持ちは分からないのに、それがいつの間にか事実のようになってしまう、そんなことも理解できるような気がしました。でも、今も家族や友人がいて、仕事でも人と関わっていることは現実にあることとすれば、あなたが誰かに支えてもらったように、もしかしたらあなたがそこにいることで助けられたり、一緒に過ごすことを嬉しく思っている人もいるのかもしれないなと思ってしまいます。兄弟や家族の幸せを願って、自分はその邪魔をしているのではないかと考えてしまうところにも、あなたの優しさがあるのかなと感じました。ただ、その優しさが全部自分に向いてしまうと、こんなにも自分を責めることになるのかと難しさも感じます。
神社にお参りしたことや、明日この世との縁を切ろうと考えていることまで書いてくれたことから、今どれほど苦しいのかが伝わってきました。今すぐ何か答えを出せなくてもいいから、ここまで苦しくなっている自分のことまで責めないでほしいなと、私は思いました。
感想1
自分のことをこれほど恥ずかしい存在だと強く思うのはなぜなのかなと考えました。穀潰し、お荷物、優秀などという言葉が出てくるので、人間の価値を能力で評価する傾向が強いのだろうと感じました。自分に対して、能力がないこと、何かができないことを理由に価値がない、死んだ方がいいと思っているようですが、例えば自分以外の人で仕事ができない人がいたとして、同じように価値がない、死んだ方がいいと思うのかな?と疑問に思いました。きっと、あなたは自分を否定するのと同じように自分以外の人を否定することはしないような気がします。自分は価値がないけれど、自分以外の人は違う、いいところもあるし、存在する価値もあると感じそうだと思います(違っていたらすみません)。
他の人にはそう思わないけれど、自分に対してだけ、強く否定の気持ちがあるとしたら、きっとその理由があるのだろうと思います。自分にだけ向けられる厳しい評価や否定感情が勝手に出てくるわけはないと思うのです。自分への否定はどこか自分を守ろうとする働きにも私は思えます。周囲の人たちは優しいし、理解もしてくれるとのことで、周囲の人たちもおそらく一定の能力で評価するのではなく、あなたの姿を近くで見てきて、理解をしているのだろうと思います。ただ、あなたにとって周囲が優しく理解があることも、逆に申し訳なさにつながり、つらいのかもしれません。
振り返って、自分勝手に生きていたことを悔いる内容が書かれていました。同時に周囲にたくさん支えられてきたことも痛感していました。周囲の支えに感謝する気持ちに気づいている人は自分勝手ではないだろうと私は突っ込みを入れたくなりました。あなたの経験談を読んだ限り、あなたに自分勝手という印象はなく、傷ついたり、苦しんだりしながらも、周囲に気を遣い、わが身を顧みる謙虚で真摯な人という印象しかありません。
タイトルにも希死念慮が頭から離れませんとありました。今のあなたはあなた自身が何かを感じているのではなく、希死念慮という存在に半分乗っ取られているように私は感じました。希死念慮はすぐにいなくなるようなものでもなく、厄介でありながらも、おそらくあなたがあなたであるために必要だからこそ今のそこにいるのではないかと感じています。これまで抱えてきた苦しさから逃れるにはこの世と縁を切れることが最善の道だと思ってしまうほど、今のあなたが苦しみを抱えていることは伝わってきました。
私は経験談を読み、ただ、その強い否定がどこから生じて、どこに向かっているのかあなたの希死念慮に聞いてみたいと思っています。