経験談

生きづらさを感じる人が語る 経験談

経験談はそれぞれの投稿者の個人的な価値観や感じ方をそのまま掲載しています。一部、リアリティのある描写や強い価値観が含まれるため、読む人にとっては負担等を感じる場合もあります。各自の判断で閲覧してもらえるようにお願いします。

生まれてきたことが、運の尽きである。

なぜこの世に生を受けてしまったのか、後悔ばかりが募る。
私は、ごく普通の家庭に生まれ落ちた…はずだった。
幼少期のことはほぼ記憶にないのだが、物心ついた時から私は、父から母へのDVをよく目の当たりにしていた。
父の怒鳴り声や、食器の割れる音、抵抗できない母に、何もできずに怯えていることしかできない自分…
父はよく、意味のわからないことで1人で勝手に怒っていた。
それでよく、母や私に暴力振るうことがあり、「自分は何も悪くない」と思い込み、私たちに謝ることを強要していた。
自分は一切謝らないくせに。
本当に毎回意味のわからないことで怒り出すので、今度はいつ、どんなことで怒り出すのか気が気ではなかった。
おまけに、言うことに一貫性がないので、(いわゆるダブルバインドと言われているもの)話が違う…となることもしばしば。
母が無理やり
追い出された後は、私がターゲットに。
一番古い記憶では、小二の夏休みの宿題で算数の宿題があり、終わったら(なぜか)父親に見せなくてはならなくて、その出来があまりにも悪かったためか、左腕にタバコの火を押し付けられた。
二番目の記憶は、理由は覚えていないのだが、小五の夏だっただろうか。右腕をナイフで切られた。
五針ほど縫う結果になったが、当時はまだ虐待という言葉を知らなかったため、傷口が開いたまま一晩を過ごした。
今思えば感染症とかにならなくてよかったし、何より心残りなのが警察に通報するという方法を知らなかったのが未だに悔やまれる。
今だったら絶対に通報しているのに。もし通報していたならば今よりもマシな人生を歩めていたかもしれないのに。悔やんでも悔やみきれない。
虐待という単語と意味を知ったのは中学二年の頃だった。
私は、この状況を打破すべく、学校の先生やカウンセラー、児童相談所などに話をしたが、まともに取り合ってはくれなかった。
もう今は諦めている。何をしたってどうにもならないのだから。ならばせめて、この辛さをわかってもらおうと、ブログなどで発信をしたが、まぁ、そうそう上手くいくものではない。
ただひたすらに空(くう)に独り言を投げ打つだけで意味などなかった。
ただ、私は認められたかった。「今まで辛かったんだね」と。この世に認められたかった。それは今も変わらない。
しかし、私には才能がない。創作もすべて空回りで、自分のためにやっているはずなのに、認められることばかりが先行して長続きしない。
皆に認められなければ意味がない。皆に認められなければ、私は死んでいるのと同じだ。

…話は変わるが、私は芸能界に憧れがあった。
キラキラしていていいな、皆からちやほやされて羨ましいなと思っていた。
しかしここ最近は、芸能人の相次ぐ自殺報道で、私はただ、「どうして…」としか思えなかった。
もちろん、芸能界もキラキラしたことばかりではないのはわかっているし、その世界でもその世界なりの苦悩があることはわかっている。
しかし、私にはその苦悩がわからない。当たり前だが、本人ではないので自殺した原因もわからない。
正直、芸能界の方が自殺するのであれば、私は「何回死ねばいいのだろう」と思ってしまう。
これはいまだに芸能界に憧れがあるからこう思うのだろう。悩みを他人と比較するのもナンセンスであることはわかっている。
その世界で生きていないから、苦労もわからないのだろうと思う。
しかしそれでも、私は納得がいかなかった。
こんなことを言うのはアレだが、「皆(ではないだろうけど)にちやほやされているのになぜ自殺するんだ?」というのが正直な感想だ。
人の幸せは人それぞれだし、ちやほやされることが生きがいではない人ももちろんいるのはわかっている。
芸能界がそんなに甘い世界ではないことも重々承知している。
でもやはり…と思ってしまう。
…芸能人になりたいというよりかは、私はただ、ちやほやされて認められたいだけなんだと、ここ最近気がついた。
そのうえで自分の好きなことができればラッキーだなと思っていた。
でもそれはもう、無理な話だ。
理想とは程遠い、真逆の世界で私は生きている。ただただ、苦しみに満ちた毎日を。
生きる希望も死ぬ勇気もないまま、私は生きている。
誰かに手を差し伸べられることを望んでいる。でも、いざとなったら怖くてその手を払い除けてしまうだろう。
生半可なことでは実現できないことだから。あなたを巻き込みたくはないから。
私は、誰かを救いたいと思うし、私も救われたいと望む。しかし、現実は…
生まれてきたことが運の尽きだ。私は両親を恨んでいる。愛情のかけらもないくせに、なぜ私を生んだ?生まれてこなければ、こんな思いはしなかったのに…と。

感想1

経験談の投稿、ありがとうございました。

幼少期から目の当たりにしてきたDVによって、家庭では心休まる時間も無く、逆に気を張っていなければいけない時間が長く続いていたと想像し、非常にしんどい時間を過ごしてきたのだろうと想像しました。また、それが両親二人の問題でなく、あなたまで被害に遭い、虐待と言うべきことをされていたというのは、とても許されることではないと感じました。
その時、幼いながらにSOSを出したにも関わらず、周囲の大人がまともに取り合ってくれなかったということにも、怒りすら感じてしまいました。

これでは、あなたが「認められること」を先行してしまうのも、当然だと感じました。
幼いあなたが、学校の先生やカウンセラー、児童相談所といった相談先に自ら相談して行動されていることも、あなたが当時どれだけ苦しんでいたのかが伝わります。
あなたが当時、警察に相談することを知らなかったとしても、あなたの辛さを理解し、せめて寄り添ってくれる人が居たならば、大人が警察に相談するべきだとすら、私は思いました。

その中で、あなたには理想の世界「芸能界」があったのですね。
テレビ越しで見る世界は、確かにとてもキラキラしているように見えるし、世間から多かれ少なかれ認められて、出演しているように見えますよね。
「認められること」を求めているあなたにとっては、その「認められている」世界にいる人なのに、なぜ自殺を…?と思われていると想像しました。
また、あなたの憧れの世界だからこそ、その中で自殺をしたというニュースを見ると、芸能界でも辛さや現実的なしんどさが隠れており、自殺の理由がわからないからこそ、理想と現実が複雑になってしまい、あなたは余計にわからなくなってしまっているのではないかと、私は思いました。

「認められること」と「自分の好きなこと」が出来る世界が、あなたの理想の世界だと解釈しました。
あなたの「自分の好きなこと」ってどんなことなのかなって気になりました。
もしかしたら、「認められること」を諦めているから、「自分の好きなこと」も諦めているのかな?と勝手に想像してしまいました。
今まで、「認められること」がなかったとしても、「自分の好きなこと」を通して、「認められること」があるかもしれないと私は思います。(私の勝手な意見なので、強要している訳ではないです。)

あなたの経験談を読んで、「誰かを救いたいと思うし、私も救われたいと望む」という世の中が、私の理想の世の中でもあると、感じました。
このように考える人が、身近に当たり前のようにいてくれれば、誰かに手を差し伸べられた時にその手を掴もうとすることが出来そうだし、そして、誰かが悩んでいたり、困っているときに、自分も当たり前のように手を差し伸べられるようになれそうだなと私は思いました。

感想2

家庭内で父からの暴力があり、母と自分がそれを受けていた中では、投稿者さんは安全を感じられる機会がとても少なかったのではないかと思います。
虐待という言葉を知ってからは周りの大人や機関に対応を期待して話をして、それでも「まともに取り合ってはくれなかった」となると、助けてくれることを期待することすらむずかしくなりそうだと思いました。
周りの大人にしてもなんらかの事情があったのかもしれませんが、それによって子どもの投稿者さんを守れない状況になってはいけないと強く思います。
父親さんは「自分は何も悪くない」と考えているということでしたので、医療機関やなんらかのプログラムなどに自分から参加することはむずかしい状況だったのだろうと想像していますが、そういう状況で外部の大人や機関が関わり、投稿者さんとの距離を離すなどの対応ができていたら、すこし違ったのかなと思いました。家庭内のことは外から見えづらいことがとても多いので、その中で子どもの言葉が聞き入れられるためにはなにが必要だったのだろうと考えています。
「私はただ、ちやほやされて認められたいだけなんだ」という考えに最近気づいたと書かれていて、芸能界への憧れからそれが自分にとってどんな意味を持つのか考えていく過程には、どんな思いがあったのだろうと思いました。芸能界というものは、投稿者さんが目にするものの中で、一種の象徴的な存在だったのだろうと私は想像しました。
もしかすると、自分の苦しさから逃げ出せない、遠くにいくことができない状態で、そうでない、別の存在になれるイメージが芸能界だったのかなと思います。
「皆からちやほやされる」ということは、大切にされているということでもあるだろうし、自分自身に目を向けられている、ということかもしれません。もちろん、投稿者さん自身が書かれているように「キラキラしたことばかりではない」と私も思いますが、投稿者さんにとって簡単に得ることのできないものを持っている存在として芸能界にいる人たちをみてきたのかなと思いました。「理想とは程遠い、真逆の世界で私は生きている」と書かれていましたが、しんどい状況の中では、遠くにあればあるほど、理想を理想として感じやすいということもありそうだと思いました。
ただその一方の「苦しみに満ちた毎日」が即座に100パーセント変わることはむずかしいこともありそうですが、少しずつでも変化するためには、どんなことが必要なのだろうかと思いました。投稿者さんが苦しみをあまり感じないでいられる瞬間があればいいなと思います。そのために必要なことがどんなことか、一緒に考えてみたいと思いました。

お返事1

・感想1の方について
虐待に気づいてから早10年、わたしもすっかり大人になってしまいました。
できることならば、ずっと子供のままでいたかったのですが…
子供の時に助けてもらえないのならば、大人になったらもっと助けてもらえない。
わたしはもう、きっと救われないのだと思います。せめて、わたしの出来事をこの世に知らしめて死にたかった。
みんなに、わたしの辛さを知ってもらいたかった。
こんなんじゃ、死んでいるのと同じです。

「自分の好きなこと」…ですか。
正直、わたしは何が好きなのかがわからない状況です。わからなくなってしまった、というのが正しいのでしょう。
今のわたしは、喜怒哀楽も、好きも嫌いもわからなくて、感覚がないんです。
「自分」というものが、遠くに行ってしまったような…そんな感じです。
今は正直、誰かを救う余裕はないのですが、余裕ができたら、互いに救い救われる、そんな世界を築いていけたらいいなと思っています。

・感想2の方について
わたしが虐待について一番相談していたのが、中学の担任の先生だったのですが、今思えば、面倒ごとに巻き込まれたくなかったのでしょうね。
一度、「家を出るまで我慢しなさい」とキレ気味に言われたことがあり、そこからあの人は今でも好きではありません。
ものすごく曖昧な記憶なのですが、「学校の生徒がこういった虐待について相談があった場合、学校はそういう機関に通報(相談?)する義務がある」といったものをネットで見た記憶があるので、なぜそういうことをしなかったのか(知らなかっただけかもしれませんが)と、未だにモヤモヤしています。
父は虐待をしている自覚がないし、それを認めることもないと思います。なにせ「やられる方が悪い」といういじめっ子の考えを持っているのですから。
指摘したところで最悪殺されて終わりです。

わたしは、みんなに自分の過去や考え、そして存在を認知され、それが認められてはじめて「わたしは生きている」と胸を張って言えるのです。
逆に言えば、それらが満たされていなければ、わたしは「死んでいる」のと同義だと考えています。
だから、今のわたしは死んでいるのです。生きてはいますが、死んでいるのです。
この世に存在していない、生きる屍です。…ものすごく矛盾はしていますが。
どうして「認められたい」と思うようになったのかは、わたしにもわからないのですが、辛いです。
この先、どれだけ時間と金をかけたとしても、実現できそうにないので、死ぬまで、あるいは死んでも苦しむのかもしれません。
…わたしは、死後の世界など信じてはおりませんが、もしあるとするならば、わたしは死んでもずっとこの思いのせいで苦しむのでしょう。
きっと前世で、相当悪いことをしてきたから、今世でも、あの世でも苦しむのだと思います。来世はわかりませんが、生まれ変わりも信じていませんが、もし生まれ変われるのであれば、今とは真逆の人生を、歩んでいきたいなと思います。

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