経験談

生きづらさを感じる人が語る 経験談

経験談はそれぞれの投稿者の個人的な価値観や感じ方をそのまま掲載しています。一部、リアリティのある描写や強い価値観が含まれるため、読む人にとっては負担等を感じる場合もあります。各自の判断で閲覧してもらえるようにお願いします。

安楽死を導入して欲しい

どれだけ学んでも調べてもやはり生きにくいというよりは私は生きていてはいけない、という根拠しか出てきません。どんな視点だろうと価値観から見てもやはり結論は変わりませんでした。生きていてはいけないというのは物心ついた時からあったのでそこら辺の出来事は割愛し、その疑惑が確信に変わるまでの経緯を書きたいと思います。まず思わないでしょうが“深く洞察、観察されている”という評価は結構です。こんな駄文小学生でも書けますし、小学生未満とよく言われているので気休めを言われても冷めてしまいます。そういう事言うのは例えば褒める場所が思いつかない時にとりあえず“優しい”を挙げるくらいには信憑性が無い言葉だと思っています。なのでそんな無駄な事を思う暇があったら批判でもした方がお互いにとってより建設的だと考えています(それ以上に建設的なのは私の存在が消える事だとは重々承知の上です)。

個人的な話ではなく社会的な話からするとまず人間が自分だけでなく他人、特に弱者を気遣える余裕がある時というのは金がある時です。言い換えると弱者の救済には経済発展が必要不可欠ということです。ですが日本の人口は減り続ける関係上、GDPを維持しようとすると今以上に働く必要(生産性)があることになります。現時点で既にいっぱいいっぱいでこれ以上きつくして楽になれる可能性は皆無なのにSDGsや多様性などが説かれています。これ自体が問題とは思いませんが、そのための基盤が現時点では脆弱と思わざるを得ません。

今の状況は“弱者も救済すべきだ”という目標を掲げたは良いものの、その目標にかかわらず元のパイの大きさは変わらないどころか小さくなる傾向にあります(=つまり取り合いがより加速化する)。これではSDGsの”誰も置き去りにしない”はとても達成出来ないでしょう。現時点での多様性というのはみんな尊重し合い豊かになる、のではなく全員が貧乏になる未来です。マザーテレサだって衣食住を確保してから人助けをしています。衣食足りて礼節を知るとはよく言ったものです。現在向かっているのは多様性ではなく、フラグメント化する世界と形容した方が近いでしょう。実際問題、誰が見ず知らずの人間のために貧乏になってくれ、と言われてなるでしょうか?このご時世ですから誰もが弱者になる可能性はある、とする声もありますがそれも今の流れを止めるには至りません。貧困問題が解消されたとしても時間も余裕もない状況で他人と交流出来る時間はどうしても限られます。その限られた時間の中で他人を理解出来る可能性は少なくなります。勿論世の中の人間全員と分かり合えるとは思っていませんし、それが必要だとも思っていません。しかし理解と共感は別物で理解なくして尊重は有り得ないと思います。他人を理解するための時間を確保するための土台が整うどころか薄くなっている状況で互いを尊重なんて出来るとは思えません。尊重がないのに多様性を語るのはずれていると感じるのはそこまで逸脱した発想とは思いません。

理性的な判断をするのなら私のような弱者は切り捨てるべきです。そうでなければ上述したように全員(或いはほとんどの人間が)が今より不幸せになります。現にそれは今起きているとも言えます。社会的な考えが急には変わりませんから昔と変わらず今でも弱者は虐げられています。セーフティーネットも機能しているとは言い難いのが分かりやすい例でしょう。これがSDGsが無い時代ならば弱者を攻撃しても(少なくとも今ほどは)バッシングは受けなかったでしょう。例えばいじめや体罰などは昭和の時代では今ほど大きくは取り上げられなかったですし、肉体的、精神的な障害への理解も少なかった過去があります。ですが今は中途半端にそういった考えが浸透した結果、弱者を虐げていた強者もまた虐げられる事になりました。ある意味では両方とも被害者であり加害者であると言えます。弱者は変わらず強者から虐げられ、強者は自分の行動が問題を起こさないかピリピリしながら過ごさなければならないからです。だから皆余裕がなくなるのでしょう。だからこそ安楽死を導入して欲しいのです。

元々人類は誰でも生き残れた訳ではありません。ですが医学などの進歩によって多くの人間が生き残れるようになりました。それ自体は良い事かもしれませんが今そのバランスは崩れているような気がしてなりません。悪い言い方をすると“本来ならば死んでいるはずなのに捻じ曲げた”から私のような弱者が生き残ってしまっているのだと思います。世界人口の推移を見れば分かりますが人口が10億人増えるのに掛かった年数は20世紀に入ってから激減しています(つまり爆発的に人口が増えている)。地球上の生物の歴史から見て、絶滅した動物は過去に何らかの理由で爆発的に増えてから絶滅しています。冷静に考えたらこのまま人類が無限に増え続けるという前提がおかしいと思います。ですから私のような無能は始末して人口をコントロールするのが必要な時代になっているのではと思います。

安楽死を導入しようとするといろいろな問題点はある事は知っています。死に関する事を機械的にしてしまう事、同調圧力によって死を誘発してしまう可能性、また医者だっていくら本人が死にたいといっても自分自身が人殺しに好き好んでなりたい人はあまり居ないでしょう。ですが弱者である私自身の言葉で言わせてもらえば“んな事知るか”ですね。私は今辛いから早く楽にしてくれ、なのに国などの都合で導入は先送りなんて馬鹿馬鹿しいったらないです。上述したように強者でさえ基本的には自分の事で手一杯です。そんな状況で他人の事を気にかけられる人間のほうがおかしいのです。そして実際に無能は死ねと望まれ続ける世の中なのですからお互いの自由意志、そして利害関係を鑑みれば安楽死導入はむしろしない方が理屈に合いません。最近であれば自殺したいけど出来ないから死刑になろうとして人を殺めるというのはそう珍しい物ではありませんが、私含め社会的弱者がいつそう変貌するかは分からないのです。失う物が何も無い人間が最後の理性を無くし殺人鬼になる前に最後の救いとして安楽死は必要不可欠だと思います。法律や刑罰による抑止が意味を成しませんから。そう自覚しているなら貴方はその殺人鬼とは違うのでは?と思うかもしれませんがそれは詭弁です。どんな賢者でも圧倒的な絶望、憎悪と狂気の前にはあまりに無力ですから。この文章を読んでお分かりだと思いますが私は賢者ではないどころか真人間未満の出来損ないの無能ですからより危険性は高いと言うべきでしょう。つまり安楽死を導入しないというのは弱者をとりあえず意味も対策もなく生き長らえさせて他の命を危険に晒す行為という事です。こういう言い方をすれば安楽死というのは決して弱者だけの物ではないというのはご理解いただけると思います。

安楽死という本題からは外れますが私には存在価値が無いんです。昔から何をやってもダメですが仮に今後何かが上手くいってもそれは運によるものです。よく何事でもことを成すためには努力、才能、環境の三つが重要と言われます。このうち努力は自分でどうにか出来る物、と言われてきましたが努力出来る遺伝子という物が発見されたのだから一番後天的な物と扱われてきた努力でさえ先天的な部分はあるという事になります。だから今後何か上手くいったとしてもそれは運でしかないと思います。仮にその証拠が未来で否定されたとしても、その“努力”をするための土台を作ったのは自分以外の誰かです。少なくとも私のような無能にとってはやはり運でしかありません。例えば普段私たちが使っている物、パソコンでも何でも良いですが、それには、設計した人、部品を作る人、それを運ぶ人、売る人などが何人も居ないと出来ないですし、またそれを買うためにはお金が必要ですが、それだって需要と供給が成り立つビジネス(つまりそれに関わる人間)がないと成り立ちません。ならその状況下で自分自身の努力の割合、貢献出来る割合なんてたかが知れています。常に自分以外の誰かに生かされているだけなんです。これが真人間なら困ったときはお互い様、という感じになるかもしれませんがそんな人達から“死ねば良いのに”と言われる人間が私です。だから自分なんて要らないと思うのは理にかなっていると思います。自分が他人に役立つ可能性なんて皆無です。なにせ能力があまりに低くて自分の周りの事すら満足に出来ないから自分自身の行動に責任を果たせないのです。根拠もなく生きていてはいけない人間なんて存在しないという詭弁は聞き飽きました。

真人間の方には想像し辛いと思います。また無能でも生きていて良いと保身のために(無意識のうちに)言う人も居ると思います。なので自分の最も大事な人をイメージして下さい。その人が無能によって精神的に追い込まれたり、傷つけられたりもしくは殺されたと想像してください。穏やかでいられますか?過ぎ去った事は仕方ないと理性で納得させられますか?仮にそう思える人が居たとして割り切れる人が大多数だと思いますか?恐らくそうでない人の方が多いでしょう。その証拠に人権派の弁護士が自分の家族が殺された途端に死刑の撤廃に反対したという何とも言えない事例が実際にありました。人間の持てる知識なんてたかが知れてますからどんなに頭の良い人でも専門分野でない所に絞れば無知を晒すでしょうから無知その物を批判する気も、またされるいわれはないと思います。ですが自分が同じ立場になったくらいで前言を翻すなんてお世辞にも思慮深いとは言えませんし、しかも自分の専門分野でそれをやっているなんてお粗末と切り捨てられても致し方ありません。それはただの無知ではなく想像力、状況認識力、共感能力の欠如に加えて自分の発言に責任も持てないと非難されても何も言えないでしょう。無能に対して無責任に“誰でも生きていてよい”と発言する人はこれと同じ匂いがします。限定合理性という概念からも自分が実際に痛い目を見ないと現実をしっかり見据えられないのは仕方がないとして、ならばせめて自分の発言に責任を持つべきではないでしょうか?無能に対してとりあえず生きろにしろ、殺人を犯した人に対してとりあえず死ね、というのも両方無責任に聞こえます。もし大事な人や家族が殺されても同じ事を言えるのなら立派ですがそれが出来ないならこういった発言は控えるべきでしょう。問題なのは方向性(生か死か)ではなく、自分の責任を果たせる範囲外にもかかわらずこういった発言が他の正論を盾にする事によってまかり通ってしまう事ではないでしょうか?悪い言い方をするなら自分の無知を棚に上げて自分のケツを拭く気もないのに発言だけしているように見えます(実際に弁護士のケースは限りなくそれに近いでしょう)。自分の経験から言うならカウンセラーや精神科医もこれに近い匂いを感じます。勿論全員がそうではないとは思いますが、こういった現実的な問題を正面からぶつかり具体的な解決案を出せる人は少数派だと思いますから似た匂いがするのだと思います。これはある程度は当然というか仕方がないとも言えます、何故ならこういう職業の人は心の専門家であって社会的な問題の専門家ではないからです。しかしながらマズローの法則などから分かる通り、人間に必要な一番のニーズである衣食住が将来的に脅かされる状況で社会的な問題を見ずに心の問題を解決するのは何かずれている気もしますが…(ましてやこういう職業の人ですら自分が精神的に苦しんだ過去はあったとしても無能によって追い込まれたり大切な人を傷つけられた経験がある人はそう多くないと思います)

いずれにせよ根拠もなく生きていて良いと発言する人は偽善ですらないと思っています、まずその行為が善とは程遠い無責任な発言だからです。誰でも生きていて良いと発言する人に対してもそうは思わない人に対しても改めて言います。いつ私のような無能が殺人鬼なり犯罪者になるかは分からないのですから即刻安楽死を認めるべきです。全ての人の幸福を考えるのならそれが現時点で取れるまだマシな選択肢だと思います。

感想1

お金をたくさん持っていても気遣いの足りない言動をする人はいるし、お金を少ししか持っていなくても気遣いをしている人もいるように思います。だからお金をどれくらい持っているかが、気遣いができるかどうかに比例するわけではないと考えました。

このままでは生活に必要な資源が全ての人に行き渡らず、貧困に苦しむ人が増えてしまうのではないかと懸念されているのかなと解釈しました。そのような問題意識がどこから出てきたのか(自分や身近な人が貧困に苦しんできた実感なのか、メディア報道の影響なのか、学校教育の影響なのか…)が気になりました。

私は、弱者だから虐げられるのではなく、虐げられている人のことを弱者というのだと思います。今の社会で弱者の存在を否定すると、近い未来の社会ではまた別の人たちが存在を否定されるという連鎖が起きてしまうのではないか、それでは殺伐として誰も幸せになれないだろうと想像しました。

あなたは自分を弱者であるとされているので、社会の中で虐げられてきた実感があるのではないかと想像しました。“死ねば良いのに”というのは実際にあなたを虐げる暴言だと思います。それが理不尽なものであっても、仕方ないと諦めようとしているように映りました。仕方ないと諦めなければ苦痛に耐えがたいほどの酷な扱いをされてきたのだろうかと考えました。

この文章を書かれたあなたは、人が人を苦しませることをするのが悲しい、といった思いを持っているのだろうと想像しました。そして、どうしたら悲しいことを減らして、幸せを増やせるか、といったことを考えてきたのかなと思いました。

この死にトリにはあなたと同じように、自分には存在価値がないから死んだ方がいいという思いを持つ人が、少なからず参加していると思います。同じような思いを持つ人と交流することは、あなたにどのような影響があるのか気になりました。

感想2

これは経験談というよりは投稿者さんの主張のような感じがしました。私にとっては晦渋な内容でしたので、一部分でも理解したい思い、安楽死をどうして導入してもらいたいのか等について、投稿の中を探してみました。

 理由の一つ目は、弱者を支えるには経済発展が必要だが、現実にはそんな余裕もないので、「私のような弱者は切り捨てるべき」なので、安楽死を導入して欲しいということかと思いました。

 二つ目は、医学などの進歩で弱者も生き残れるようになったが、それはバランスが崩れていることなので、「無能は始末して人口をコントロールするのが必要」だからかと思いました。

 三つ目は、安楽死を導入しないと弱者をとりあえず意味も対策もなく生き長らえさせ、他の命を危険に晒してしまうからかと思いました。

 投稿者さんはご自分を「無能」「私は賢者ではないどころか真人間未満の出来損ないの無能」「存在価値が無い」とおっしゃっていて、生きていてはいけないと結論づけられているから、このように主張されているのだとわかってきました。理解が遅くて申し訳ありません。また、取りこぼしてしまっている投稿者さんの大切な思いもあると思います。

 さらに投稿者さんは、いろいろな考え方や反論があることを承知の上で、「根拠もなく生きていて良いと発言する人は偽善ですらないと思っています、まずその行為が善とは程遠い無責任な発言だからです」とおっしゃっています。「根拠もなく生きていてはいけない人間なんて存在しない」と言うのは詭弁で、論理的に破綻や矛盾が生じていることを述べられていると思いました。

 私は、投稿者さんが「自分が他人に役立つ可能性なんて皆無です。なにせ能力があまりに低くて自分の周りの事すら満足に出来ないから自分自身の行動に責任を果たせないのです」と思い至るようになった訳を知りたいなと思いました。

いったい過去にどんな体験があって、このように思わざるを得なくなったのか。そこには地域や社会や制度や何らかの環境の側に再考した方がよいことがなかったのか、いろいろと考えてみたいと思いました。

感想3

掲載にあたっての確認のやり取り

(掲載にあたり、サイトの運営側から以下の確認をしましたので、以下に紹介します)

経験談の寄稿、感想への返信受け取りました。

当サイトの経験談の趣旨としては、投稿した方の了解をもらえたら、経験談と感想、感想への返信含めてサイトに掲載することになっています。私たちとしても、基本的には掲載をしたいと考えているのですが、掲載にあたり、一点だけ確認があるので連絡をしました。

自分自身のような無能は生きてはいけない、死ぬべきであるという考えのもと、「自分のような無能な人間が合法的に死ぬことができる制度」=「安楽死制度」が必要という解釈であっていますか?

経験談、感想への返信を読んでみて、自分自身が死ぬことができる制度を望む強い主張は読み取れたのですが、それが「自分のような」という意味では同じような他者へも波及、応用されるのか?という点がよくわかりませんでした。

この点は公共的な事業として実施している私たちにとって判断として重要です。

能力が劣っている人、例えば、自分自身で自分のことができず人の手を煩わせているような重度の障がいの方や、徘徊をして周囲の人たちがいつも目を離せない、探し回るような認知症のお年寄り、すでに犯罪を犯してしまった人、繰り返し犯してしまう人など、社会にはその人の生産性や社会に対してなせることよりも、周囲に時間もお金も気遣いもつかわせる方がずっと多い人が実際には多くいます。そういった人たちも含めて、無能な人が死ぬことができる制度が必要とお考えでしょうか?

それとも、自分以外の人に関しては考えておらず、とにかく自分自身が合法的に死ねることができればそれでよいということでしょうか?

あなた自身だけの話であると明確であれば、掲載したいと思いますが、他の人にも応用するような主旨であれば、そのまま掲載することは難しいので、確認をさせてもらいたいのです。

具体的に言うと、数年前にあった津久井やまゆり園の事件の犯人が主張したと世間で理解されていることに通じる懸念もあります(実際に犯人に会って話を聞いたわけではないので推測でお伝えすることをお許しください)。ただ、私が読んだ印象ですが、それとは異なるものではないかという感触を持ちました。だから、確認させてもらいたく、連絡をしました。

経験談の最後の方にある「いずれにせよ根拠もなく生きていて良いと発言する人は偽善ですらないと思っています、まずその行為が善とは程遠い無責任な発言だからです。」は前述の津久井やまゆり園の事件後の世間の反応に私が感じたことに似ていると思いました。眉をひそめて「誰にでも生きる権利がある」「尊い命が奪われた」と沈痛な面持ちで伝える人たちや、犯人のことを一方的に「とんでもないやつだ」と責める報道や反応を見て、今の社会では多くの人たちが本当は優生思想や弱者を無自覚で切り捨てているのに、したり顔でそんなことを言うことに強い違和感があったので、あなたの文章を読んで、真っ先にそのことを思い出しました。

もしも、社会全体として、無能であることで自ら死を望む人たちの制度を望むのであれば、自分の意思や希望を自ら主張できない人の扱いについてはどうしたらよいか教えてもらえますか?また、優生思想は異なる点についてもう少し説明をもらえると助かります。

もちろん、優生思想を全面的に支持するということでも、個人的な思想としては問題ないと思っています。ただ、その場合は本サイトには掲載することは控えさせてもらいます。

とりあえず、ご自身に限ったことで安楽死を希望するのであれば、それはそれで、一言添えてもらえたら、誤解がないと思いますので、それで掲載をしたいと思います。

最後に一つだけ反論させてもらいます。

感想2への返信の中に自分の文章を読んだことで私たちの時間を浪費させてしまったことへの言及があり、それが無能の具体例として書かれている点です。文章を読むためにそれだけの時間を使ったことは紛れもない事実ですが、それが浪費かどうかは時間を使った側の問題です。使った時間が浪費なのか、他のことに使う方が有効だったかどうかは、文章を書いた人からは離れて、読んでいるこちら側で決めることだと思っています。

だから、無能かどうかは自分たちが関わっている相手がその人と共有する出来事についてどうとらえるかによって、違ってくるので何をもって「無能」というのかはとても難しい問題だと思っています。

ただし、自分自身を無能だということは誰にも否定する権利がありませんし、あなた自身が安楽死したいことも否定や反論はないです。

私たちとしては、それが、他の人にも波及、応用する主張かどうかだけ教えてもらいたいと思います。

あなたの主張を感想との対話を含めて、私としては、掲載したい気持ちがあります。

上記、もしよろしければ、回答や補足説明をお願いします。その内容によって掲載するかどうか判断したいと思います。

お返事1

1の感想を書いた人へ:

感想文をありがとうございます。確かに金持ちでも気遣いの足りない人は居るし反対に貧乏でも気遣いが出来る人は存在すると思います。しかしそれは個として見た場合であり集団で見ても同じとは限らないと思います。お金とだけ書くと想像し辛いと思うので別の切り口で考えてみます。まず優しさや気遣いというのは心に余裕が無ければ表に出すのは難しいでしょう。例えば四六時中死と隣り合わせの最前線の兵士が常に穏やかで冷静さを保てるでしょうか?平然としていられる人間の方が少ないのではないでしょうか。その証拠に過去の戦争で兵士の士気を上げるため、そして恐怖心を和らげるために麻薬が使用されたという事実があります。心に余裕を持てるなら麻薬などに頼る必要はないのではないでしょうか。戦争がもし極端な例だと言うのなら毒親はどうでしょうか。一般論として毒親に育てられた子供は毒親になりやすいと言われています。そうなる原因は色々考えられますが、代表的な主張は親からの愛情を受け取れなかった人が他人に愛情を配れるはずがない、というものです。常に他者からの悪意に晒されて育ってきた人間が心に余裕を持てる方が珍しい、と考えられているからです。勿論全ての人がそうであるとは限りませんね、因果と相関は別ですから、そういう意味では貴方の指摘は間違っていないと思います。しかしながら割合として見れば何かしらの悪意や圧力に晒されて生きてきた人間は心に余裕がなくなる傾向があるのもまた事実ではないでしょうか。ですから気遣いが出来なくてもしょうがないと思います。

ではお金の話に戻ります。物の豊かさの象徴であるお金が不足すると欲しい物も買いにくくなりますし、飲み会などにも出かけにくくなるでしょう。つまり物欲を満たす事も人間関係も広げづらくなる可能性があります。それを繰り返していくとただ生きるために必要な事にしかお金を使えなくなり楽しさや快適さのためにお金を使える機会は減っていっても何もおかしくはありません。生きていて楽しい事があればそれを糧に頑張れる人は居ると思いますがその機会が減れば心が荒むのも想像出来るかと思います。もっと酷くなれば長期的に見れば衣食住が最悪確保出来なくなる可能性に晒される人だって中にはいます。そんな状況になれば他人の事まで気が回らず自分の事で精一杯になる人だっていると思います。繰り返しになりますが仮にホームレスのような人でも心に余裕がある人は中にはいるかもしれません。しかし適当に100人くらいお金に困っている人を連れてきたら心に余裕が無い人の方が多いと思うのはそこまでおかしい考えではないと思います。

現在の社会構造や人口などの問題からこれからどんどん貧乏になっていくのが見えているのにこのご時世に弱者を救済出来るだけ心の余裕がある人がどれだけ居るのでしょうか。勿論ゼロではないでしょうが「必ずしもお金と心の余裕が比例しない」、だから今後も今と大して変わらない、と仮定するのは少々行き過ぎた楽観主義ではないのでしょうか。勿論ただ金を増やせば良いと言うつもりは全くありませんがお金が無いと衣食住を確保出来ない危険性が生じる構造を変えない限り全体像として見たらお金が無いと心が荒む傾向というのを排除するのは難しいと思います。そういう意味でこれから貧乏になる未来が見えているのだから気遣いが出来る人はより少なくなるだろう、という意味です(だから無能を救える余裕がないなら最初から取っ払ってしまえば良い、という意味です)。それが本文にも書いたあのマザーテレサだって自分自身の衣食住を確保してから人助けをしていました、という事です。彼女ですら何も食べず服も着ないで寝る所も確保していない状態から人助けをするのは恐らく難しいと思います。

貧困に関する問題意識がどこから生まれたのかは正直覚えていませんが、幼少の頃から除け者にされ、世に溢れている一般論に対して矛盾を感じていましたのでそんな所から考え始めたのではないかと思います。

否定される連鎖が起きてしまう危険性に関して言及されていました。その点に関しては同感です。パレードの法則から見てもそれは充分あり得ると思います。ですが私は仕方ないと諦めている訳ではないです。その証拠に今でも自分が生きていて良い理由を調べたりなんとか食っていけるように、そして少しでもマシな人間になるために勉強や行動は私なりにはしているからです。しかし残念ながらその努力が実った事はなく、生きていて良い理由も見つけては論理的な欠陥を見つけてしまう、の繰り返しです。カウンセラーや精神科医と話してもまず彼らが話す内容その物に矛盾があると感じそこを指摘すると黙ってしまう、という事を何度も経験しているので現状無能は生きていて良い根拠は見つかっていません。ですから死ねば良いのにと言われるのは虐待でも暴言でもなく事実だと思います。そう呼ばれるに足りるくらい無能だからそれが理不尽だと感じたことはありません。現実を認めなければ進歩は無いのだからその上で今でも諦めずあがいていますがかなりうんざりしているのも事実です。だから安楽死を切望しています。

人が人を苦しませるのが悲しいと感じているのでは、と書かれていましたが私は他人を気遣える程出来た人間ではないので自分の事をそうだとは思った事は無いですね。本文にも書いた通り私のような無能がいつ犯罪者に変貌するのか分からないのです。それは明らかに無責任な行動であり、他人の自由を奪う行為であり断じて許される物ではないと思っています。その可能性に常に晒される事は少なくとも私にとっては致命的なストレスに感じます。ですからこれ以上この社会で煩わせる存在になる前に楽に死なせて、と思っています。

お返事2

2の感想を書いた人へ:

まずは読んで頂いた事に対して謝罪と感謝を述べたいと思います。私に文才が無いせいであまりにも読みにくい文章となってしまった事を心よりお詫び申しあげます。同時に読みにくいとはっきり言って頂き嬉しくもあります。別の所だとこんなゴミ文章でも「読みやすい」とか「よく考えられている」とお世辞、もしくは嫌味を言われた経験があるので正直にまず仰ってくれた時点で貴方の誠実さを感じました。

私の発言を3つに纏めておられました。いくつか省かれていますが概ね合っています。その上で3つ目に足したい事があります。それは無能は実際に他人の迷惑になる、しかし社会には「誰でも生きていてよい」という一般論が蔓延している。そう発言している大抵の人は無能や弱者から実際に傷つけられた経験が薄い人、言い換えれば痛い目を見た事が無い人が言っているのでは?という事です。その実際の例が本文にも書いた弁護士です。

自分自身の行動に責任を果たせないと思うようになった訳を知りたいと書かれていたのでつまらないのを承知で書かせていただきます。ですがその前に個人的な経験談を省いた理由を書きたいと思います。

本文に経験談を省いたのは、それを書いた所で安っぽい同情で終わる事が圧倒的に多いからです。今まで何十人というカウンセラーや精神科医に話をしても真剣に取り合わず、上っ面の感情論でしか話をしないだけならまだしも、生きづらい、苦しいと話して「それは何故ですか」と聞かれ例えば他人からこう言われた、と話しても「それはあなたの思い込み」としか言われないからです。例を挙げるなら無能は生きていてはいけない、と言ったら「それは貴方の思い込み」と言われる訳です。ですがそう言えるのは無能によって痛い目を見た事が無い人間が言える事では?つまりそれは私の思い込みではなくそういう社会構造だからであり私個人の思い込みだけとは言い切れない部分もあるのでは?と話すともう何も返せなくなる、という事ばかり経験しています。もしくは彼らが話した事は棚に上げ「要は貴方がどうしたいかです」と論点をずらすケースもありました。何をしても満たされず何も出来ないんだから安楽死したいですと言うとそれだけは止めようとしてくるんです。また「心を病む人の大半の悩みは思い込みから生まれる」という一般論からも感情面を表に出した経験談を話しても生きづらさを理解して頂けるとは思えなかったので私の経験談というよりは生きていくうちに見つけた世に溢れている矛盾が示す「無能は生きていてはいけない根拠」を書こうと思いました。それが私の生きづらさに関連しているとも思いこういう書き方になりましたがそれが分かりにくく一方的な主張と映ったのなら慙愧に堪えません、猛省します。

自分自身の行動に責任を果たせないと思うようになった訳を知りたいと書かれていましたが残念ながらそんな特殊な経験をしてきたわけではありません、どこにでもいる普通の人間より大分出来が悪い事を除けばありふれた人間の一人だと思います。人並みに生まれ、人並みに10年以上いじめられ、人並みに人格も存在自体も否定され(先生などの大人も勿論含みます)、人並みの環境で育ちましたが何一つ人並みに出来る事がないカスのような人間です。自分自身の行動に責任を果たせない例を挙げましょう。例えば今回の事を例に出しましょう。私が無能なせいでとても読みづらい経験談を送ってしまいました。そのせいで貴方は恐らく普段より時間を割く必要が出てきました。当たり前の事ですが時間というのは巻き戻せません。どれだけ後悔しても時を遡る事は少なくとも現状は不可能です。つまり私のせいで貴方の大事な時間を浪費させてしまった、と言える訳です。この場合どうやって責任を取るのでしょう?分かりやすい例ならお金、つまり賠償金ですが金で全てを解決出来るとは限りません。勿論解決できる事柄もあるでしょうが命や時間はお金で戻せる物ではありません。そもそも無能な私はお金を稼げないから余裕がないですしそれ以外の方法で償いをするにしても何一つ人並みに出来ない人が一体どう償うと言うのでしょうか。つまり今回失った「貴方の貴重な時間」はどうやっても返せない訳です。当たり前ですが私がもし有能だったら、もしくはせめて平均的な能力を持っているなら恐らく今回のような事態は起こらなかったでしょう。

もっと悪いのは自分の身の回りの事すら出来ないという事です。イメージしやすいように例えるなら私の事は自分では起き上がる事も出来ない高齢の人が身の程を弁えず行動したら他人に迷惑をかけた、と想像して頂けると近いと思います。例えば料理をしようとキッチンに向かえば向かう途中に物を落としたり、着いたら皿などを割ってしまい、無能だから後始末、掃除もできない(=自分自身の行動に責任を果たせない)ので何もしないか存在しない方が良い扱いをされるのは至極当たり前の話だと思います。他人の仕事を無駄に増やすだけですから。別の言い方をすれば私のような無能というのは他人の自由と時間を奪う存在な訳です。だから「自分自身の行動に責任を果たせない」事に関しては地域や社会や制度など何かしらの環境のせいでは無いと理解しています。故に私自身は生きていてはいけない存在なので安楽死が妥当な落とし所だと思っています。

お返事3

確認事項への返信

自分の思考を巡らせながら書いていたら大変長くなってしまったので最初に結論から言わせていただきます。まず確認ですが「私のような無能には安楽死が必要」という主張に際して他の人にも波及、応用する主張かどうか確認したい、という事だと受け取りました。(間違っていたらすみません)。他の人に応用する主張ではありません。理由は色々ありますが代表的なのは私が今まで見てきた人達の中で私個人が他人に対して生きている資格がない、と思った人が一人も居ないからです。そうなると「では何故本文で『私のような』という言い回しをしたのか」と気になるかもしれないと思ったのでまた長くなって申し訳ないのですが説明させて頂きたいと思います。 

まず一番最初の問いについてですが「自分自身のような無能は生きてはいけないから安楽死が必要」というのはその通りです。では「自分のような」というのは誰に対して応用されるのかについてですが、まず貴方が例に出した人達(重度の障がいの方、認知症のお年寄り、犯罪者など)に私のこの考えは適用されないですし、する気もありません(紛らわしい書き方をしてしまい申し訳ありません)。その理由ですが主に2点あります。一つは私と似たレベル(何をもって同レベルか、私より低いかはいくらでも議論出来そうなのでここではあくまで便宜上です)の無能を見た事も聞いた事もないからです(つまり「私のような無能」は実質存在しないと考えている)。貴方の返信でも述べられていた通り何を持って「無能」と呼ぶのか曖昧な所があるからです。私は「無能」と人から呼ばれている人、そう自分で思っている人、もしくは無能な人に関する経験談(知り合いや医者など)を通じて私以外の「無能」の事を聞いた事がありますが私にはその人が無能とは思えなかったのです。恐らくなんですが私が言う「無能」と他の人が仰る「無能」は物凄いギャップがあるのだと思います。同じ言葉を使っていても言葉の持つ意味が違うのかと思います。ですから「自分のような無能」という言い回しをしていますが私のような無能は他には居ないと考えているのでそういう意味では他者へ波及、応用はされません。第二に、仮に私と同レベル、もしくは下の人が居たとしてもその人に対して「お前無能だから生きてる資格ないから今すぐ死ね」と言うつもりは一ミリもありません。何故ならそれは所謂目に見えている物(時間、生産性など数値化出来る物)だけしか見ておらず心/感情とその人(無能と呼ばれている人)の意志を無視しているからです。例えば先ほどの例のような周りに時間とお金を使わせる方が多い人についてですが、その人だって必ずしも周りの人間全員から疎まれているとは限らないでしょう。むしろ生きていているだけで嬉しい、と周りの人間が思っているケースもあると思います。そういった際に目に見えている物だけを基準に判断する事は少々短絡的に見えます。また、仮に周りに疎まれているような人でもその人が死にたいと思っていないのならむりやり安楽死も認めさすのも何か違う気がします。これは貴方も述べられていましたが、例の事件の犯人に対して一方的な報道をされていて憤りを感じたのと経緯は違えど似ていると思います。実際あの報道に関しては私も概ね似たような心境です。なので例の事件の犯人に対しては確かにやった事は決して認められないし、遺族の方を思えば罵声を上げたくなる心境は察する事は出来なくもないですが、それでも安易に犯人に対して死ねだとか罵倒するのは個人的に納得出来ません。

では「私のような無能」は誰を想像して書いていたのかと言うと「自分で自分の命を終わらせるのが最もマシ」だと思っている人に対してです。「それは優生思想なのでは?(劣っている人は生きていない方が良い)」と思うかもしれませんが、私は違うと思っています。まず私の考えとして自殺したい人は(私の感覚で言えば)無能とは限らないし、実際に無能だったとしても死ぬべし、とは思わないからです。つまり無能なので生きる資格が無いのではなく、死にたがっているなら下手に否定、抑制するくらいなら彼らの意志を尊重する意味でも一つの選択肢として自殺があっても良いのではないか(特にサポート出来る見込みが薄いなら)、実際にそれをしなかった結果が今の社会に事件や抑圧として表れている部分があるのでは?という意味で本文を送りました。世に溢れている矛盾はある種のダブルバインドと化し、より人を苦しめているように見えるのでそれならどんな思想でも方向性でも構わないからもうちょっと一貫した方向性を持たせても良いのでは、と思います(また、私は優生思想が正しいとは思っていません)。

ニュースで報じられるような内容は極端な物が多いと思いますので安易に一般化する気はありませんが、例えば高齢の方が不治の病に冒され、治る見込みが無く毎日が苦しいのに安楽死が認められなかった事例があったり、自殺に失敗し大きな後遺症が残り今後が生き地獄になる事がほぼ確定している…などそういう人達に対して(医者や他の人が「生きろ」と言いたい気持ちは理解出来ますが)安易に生きろと言っても良いのか、私には分かりません。治る見込みがあり、退院後も社会復帰が出来そうなら医者がよく言う「可能性を捨ててはいけません」というのもまだ説得力が出ますが、現状の技術でこれ以上手の施しようがない状況では納得出来ません。これが本文に書いた「無能に対してとりあえず生きろにしろ、殺人を犯した人に対してとりあえず死ね、というのも両方無責任に聞こえます」という事です。だから私の事は死ぬべきだと考えていますが、他の人(無能と呼ばれている人含む)に対して死ぬべきだとは考えていません(でも死にたい気持ち自体は察するし、安易に否定するのも違う気がするので安楽死があっても良いのでは、とも思います)。個人的なエゴを言わせて貰えるなら「自殺するべき」と感じる人は少ない方が良いに決まってると考えています。もっと言えばこんな苦しみは他の人には味わって欲しくないと(烏滸がましいですが)感じています。感情論になり過ぎないように客観性を持たせるように書いた結果、他の人にも応用されるのでは、という懸念を抱かせてしまい心苦しいです。

自分の意志や希望を自ら主張出来ないケース…難しいですね。私の本文と返信を読んで分かると思いますが私は社会問題の専門家では無いですしまともな学だって無い人間です。そんな私が誰かに何かを教えられる事は何も無いと思います。そういった事は専門の方に聞くかサポートする側の人間に聞いた方がより建設的だと思いますので私がそういう人達をどう扱えば良いかを語るのは出過ぎた真似だと思いますがその上で私個人の考え(というよりは願いに近いですが)を述べさせて頂けるなら自分の意志や希望を自ら主張出来るようにサポート出来る体制を作るのが良いのではないかと思います、例えば今以上により質の良いカウンセリングを簡単に気軽に受けられるようなシステムを作るとか。しかしこういった問題をカウンセラー等にほとんど投げ捨てるのも何か違うような気もしています。自分の意志や希望を自ら主張出来ないのは(一概には言えませんが)それだけ他者との交流に疲れてしまったなどの背景により自分自身を抑制しているから発生する部分もあるように見えます。では何故他者との交流に疲れるのかはそれこそ千差万別だとは思いますが、一つ言えるのは様々な状況下で「競争」を通じて比較せざるを得ない社会だから、つまりその環境下でのランキングで様々な事が決まってしまう部分があると思っています。それによって休息を取りたくても充分に取れるとは言い難い構造になっているような気もします、特に生産性や効率が求められるなら尚更だと思います。疲れた時に休む(肉体的にも、精神的にも)のはどんな病気にも効く手法だとは思いますがそれがしにくい背景があると思うのでそこをどうにかしないと根本的な解決に繋がらないような気がします(勿論競争その物が悪いとは言いませんし、安易に競争その物を無くしてしまえば様々な弊害は発生するとは思います。酷ければ弊害が発生したのに心の問題も解決しないというどっちつかずの結果も有り得るかと思います)。なので社会全体としてどう扱うべきか、というのは「今以上にサポート出来るような体制を作る」「競争という物が生み出す弊害を認識しつつ本当にそれで良いのかを一人一人が考えるようにする」「休息を取りやすいようにする」といったような物が思いつきますが所詮は素人が考えた物なので話半分に聞いていただけたらと思います。

なお、現状で個人が出来る範囲で自分の意志や希望を自ら主張出来ない人をどう扱えば良いか、と聞かれたら昨今の価値観で考えれば「する」も「しない」も自分自身しか選べない事、なので出来ないであろうと「しない」ならその人の責任…という自己責任論が出てきそうですが私個人はあまりこの考えに共感出来ません。確かに言っている事は間違っていないとは思いますが、それはその前に「出来ない」を「出来る」ようにサポートしてから、の話だと思っています。勿論自己主張が出来ない人が全員自己主張出来るようになりたいと思っているかは別問題ですし、現実的に考えればどうやってその人が本当は自己主張したいと理解するのか、なんて言うのは分かりません。それでもやはり「出来ない」と「しない」は別物であり、一緒くたにして考えるべきではないと思っています。先ほどの自己責任論だと「出来ない」人も「しない」と同じように扱われるのでは結果的にある種の切り捨てのように感じます。これこそ優生思想と紙一重な気もします。

反論についても読ませていただきました。仰る通り関わる相手によって無能という判断基準は変わるかもしれませんね。私の場合は今まで関わった人は例外なく私の事を無能だと仰っておられましたので幅広い判断基準で無能と言うことになります。一般論として失った物は二度と戻ってこないと言いますね、代表的なのは時間と命でしょうか。私が普通の人間なら貴方の言う通りかもしれませんが、ありとあらゆる人にゴミ扱いされたでくのぼうな私が他人に対して有益な時間を提供出来るとはとても思えません。感想2を書いた人が実際にどう受け取ったかは書いてありませんので分かりませんが万が一、時間を浪費したと感じていないならその人は桁外れの優しさ、或いは忍耐力を持った人なのだと思います。私は今までそういう人を実際に見た事も聞いた事も無いので本当に実在するのか分かりませんがもしそうならその人に対して最大限の賛辞と感謝を送りたいです。

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