経験談はそれぞれの投稿者の個人的な価値観や感じ方をそのまま掲載しています。一部、リアリティのある描写や強い価値観が含まれるため、読む人にとっては負担等を感じる場合もあります。各自の判断で閲覧してもらえるようにお願いします。
最近、世界の本質のようなものに気がついた。
最近、世界の本質のようなものに気がついた。
それは、「生きることそのものは、本来とても苦しい」という事実だ。
野生の動物たちは、常に厳しい自然環境に身を置いている。
雨風をしのぎ、糧を探し、天敵から逃れながら、ただ生き延びることに全力を注ぐ。
彼らにとって「生きること」自体が目的であり、それ以外の行為はすべて生存のための手段に過ぎない。
人間も本質的には同じだ。むしろ、身体能力だけで見れば他の動物より脆弱な存在といえる。
しかし人間は、前頭葉を異常に発達させたことで「知能」を武器にし、生存戦略を劇的に変えることに成功した。
集団による分業や社会制度を確立し、かつては生存に直結していた行為を「仕事」という形に置き換えたのだ。
その結果、現代の私たちは「生存を直接の目的にしなくても、生きていける」ようになった。
しかし、生存のための手段(仕事や勉強)が高度に複雑化したことで、私たちは別の形の過酷さに直面している。
さらに発達した前頭葉は、皮肉にも「生きることは本質的に苦しい」という事実に気づかせてしまった。
人間が「信仰」を生み出したのは、この根源的な苦痛から目を逸らすためではないだろうか。
「仕事を頑張れば報われる」「富を築けば救われる」といった通念も、一種の現代的な信仰だといえる。
本来は生存のための手段だったはずのものが、いつしか生きる目的そのものへとすり替わってしまったのだ。
だが、これらはあくまで「生の本質的な苦しさ」を覆い隠すための、仮初めの目的に過ぎない。
現実には仕事を頑張った挙げ句に心身を壊し、富を手に入れたはずの人が自ら命を絶つこともある。
これは、後付けの幸せを絶対的な正解として信じ込んでしまったゆえの悲劇ではないだろうか。
そう考えると、私たちが信じている価値観の多くは後付けの意味に過ぎず、「生きること」そのもの以外に本質的な意味などないのかもしれない。
では、私たちが感じる喜びや感動に価値はないのだろうか。
結論を言えば、客観的な「意味」はやはり存在しないのだと思う。
幸せや感動さえも、生物学的にはセロトニンやオキシトシン、ドーパミンといった脳内物質がもたらす「仮想的な報酬」に過ぎない。
しかし、視点を変えれば、「自分の意思でこれらの物質を分泌させられるなら、それは幸福と呼んで差し支えない」とも言えるはずだ。
自分にとってどんな行為が脳内物質をもたらすのかを理解し、その機会を増やしていく。
依存性の高いドーパミンの扱いには注意が必要だが、他者との繋がりや静かな充足を促す物質を上手くコントロールできれば、穏やかな幸福を自ら作り出すことができる。
客観的な意味がない世界だからこそ、自分を心地よくさせる「自分だけの信仰」を育てていく。それが、現代を賢く生き抜くための、一つの現実的な回答なのではないだろうか。
では、この生存戦略を日本の労働環境に当てはめるとどうなるだろうか。
日本の社会では、しばしば仕事に「やりがい」や「自己実現」といった過剰な意味付けが求められる。
社会が求める「正解」と、自分の内なる「生存本能」が衝突する時、人は自己矛盾に陥り、疲弊する。
しかし、仕事の本質が「生存活動の代替」に過ぎないのなら、そこに過度な精神的価値を見出す必要はない。
自分なりのペースで穏やかに生きていれば、それだけで十分なのだ。
だからこそ、最も高度な「自分だけの信仰」とは、「世間が押し付けてくる意味付けを拒絶し、自分の脳内物質を自力で管理する」という”覚悟”に集約される。
つまりは労働を「生存の代替行動の作業」と淡々と再定義し、発生する感情の起伏さえも客観的なデータとして処理できるようになれば、その矛盾は消えていくはずだ。
そして、自分にとってどんな行為が脳内物質をもたらすのか、これに視点を集中させるのだ。
「生きることは本質的に苦しい」という絶望を受け入れた者だけが、皮肉にも、誰にも邪魔されない「自分だけの穏やかな幸福」を設計できるのである。
さて、ここで一つ話がある。
私は去年から無職で、今日もまた、面接に落ちたことだ。
不採用の通知を見るたびに死にたいし消えてなくなりたいと思った。
しかし、「面接に落ちたら死ななければいけない」と、「何か大きなもの」に思い込まされているのではないだろうか。
ここまで気がつければもう大丈夫だ。正面から死にたいという気持ちを受け止め、なぜ死にたいと思ったのかを徹底的に整理し、自分を追い詰めている「何か大きなもの」を跳ね除けるのだ。
そして今日もまた自分の幸せになれる瞬間を探求する。これが私なりの生きるということだ。
感想1
私自身「なぜこんなにも苦しいのに、それでもなお私は存在しているのか」と考えてきた中で考えてきたことと重なる部分も多く何度も頷く思いでした。あなたの経験談を読みながら、これまで考えてきたことや読んできた本のことなどを思い出したので、思いつくまま書いてみます。
まずあなたの「生きることそのものは、本来とても苦しい」を前提にすえる考え方を読み、私は仏教の「一切皆苦」の思想を思い出しました。生命は「『生きること』自体が目的」でそれが人間も例外でないということについても私も同意します。西洋哲学が長年「本質」を探してきた中で「実存は本質に先立つ」と言った哲学者がいますが、私は「本質」というもの自体が人間の幻想だと感じていて、「先立つ」というよりも、強いて本質を定めるなら、実存そのもの、生きることそのものが本質なのだろうと思っています。
私は宇宙などを含む「世界」と地球上のさまざまな人間コミュニティである「社会」とを混同せず、その上で、社会の規範を疑い捉え直すことはとても大事だと個人的に思っています。不採用=死などの観念も資本主義や能力主義などさまざまな価値観が私たちにたくさん降りかかってきた結果、確信となってしまう瞬間があるのだと思います。それらは普遍的な真理でも本質でもなく、この社会の最近の流行りでしかないのに、ひと時を生きるだけの私たち一人一人は、普遍性のあるものだと思い込んでしまうことがとても多いように感じます。文化人類学は「文化相対主義」に基づき社会を捉え直すことで、私たちのあり方を問い直してきましたが、そのような試みはさまざまなレベルや範囲で必要なことのように感じます。「人権」も人間の歴史が発明した概念で、私はそれが現状完璧だとは思わないまでも、社会を見直し、社会の一部である自分を見直すための思考には必要なものだと思います。
私も現在もさまざまな価値観に無自覚なまま生きていて、それを死ぬまでにすべて解くこともできないでしょう。どうしても、気づかずに他者を踏みにじってしまっていることもあると思います。だからこそ、私は問い続けたいと思います。「自分を追い詰めている「何か大きなもの」を跳ね除ける」ことは、そうたやすいものでもないと思うのですが、あなたのように思考を言葉にする人がいることや過去の人々が考えたことが本として残ってきたこと、また議論や対話を重ねることで、すこしずつでも紐解いていき、抵抗することができると私は信じています。それは自分のみならず、他者を追い詰めているものをもどかしていく力になりうると思います。
「『世間が押し付けてくる意味付けを拒絶し、自分の脳内物質を自力で管理する』という”覚悟”」という表現になるほどと思いました。私自身、脳内物質に左右されまくりな自分にいつも困りつつ、面白くも感じつつ、生きています。
私は世界を美しいものだとなぜだか確信していて、世界に偏在するさまざまなものは世界のあらわれとして私の心を震わせるのだと感じることがあります。私はそれに多大な幸福を感じ(あなたの整理で言えば、何らかの脳内物質が発生していることだろうと思います)、これ自体が私の信仰だと捉えています。 (あなたがあなた自身の幸福の瞬間を見出そうとしているのを読み、私自身の信仰の話をしてみたくなったので、すこし書いてみました。)あなたの世界認識と信仰を教えてくれてありがとうございました。よかったらまたあなたの話を聞かせてください。
感想2
何かふと良さげなコラムや論考を見つけたときのように、とても興味深く読ませてもらいました。私は社会的に追い詰められるほど、実利的な行動ではなく頭の回路が高速で空回りして色んなことを考えるようになるのですが、最終的には必ずと言っていいほど生きることそのものに対して思考が向きます。今までもたくさん生の意味について考えてきたのですが、他の人の考えを覗けてなんだか嬉しい気分でした。
生命の灯というのは、どんな生物種のものであっても、ほんの少しでも行動を違えればあっけなく消えてしまう危うく儚いものだと思います。毎日この惑星では、人間が感知するか否かに関わらず、新しい個体が生まれ、またある個体が消えていきます。毎日どこかで新しい生物種が生まれ、またある生物種は絶えます。その繰り返しです。ゆえに、生物は生きること自体を目的をしているというよりは、たまたまその環境で生存できるものが生存しているだけにすぎない、と私は考えています。そして、生存は非常に難易度の高いことで、生物種レベルで見ても個体レベルで見ても、多分に偶然性に支配されるものだと思います。
この偶然性を減少させることに四苦八苦して、概ね成功を重ねていったのが人間だと思っています。それができたのは脳をはじめとする身体全体の発達があったからこそで、その進化も運命的な必然ではなく生存に適した個体たちが環境に負けずに命を繋いでいけたという偶然あってのことではなかろうかと感じます。自然科学には全く明るくないので、全然間違っている説だと思いますが、自然淘汰説ってこんな感じじゃなかったかなと非常にアバウトに解釈して用いています…。
生きていること・あるいは生きている中で経験できることを快いと感じることができ、個体の生命を脅かすものを苦痛と感じて、脅威に対して闘争or逃走することのできる脳を持つ個体が増えたことが、人間という種が地球上に繁栄した一因だと仮定することはそんなに無理がないはず、と勝手に考えています。
それゆえ、あなたの考えるように、人間はその賢くなった脳を用いて、できるだけ生存における不快=苦痛を避け、快楽を得るための装置を色々と考え出したのでしょう。その結果の集団形成、その集団内と集団同士の分業体制、あらゆる信仰や通念という集団を維持するための共同幻想の創出だと私も思います。そしてこれらは「生の本質的な苦しさ」を覆い隠し、これらを取りあえず盲信することで何とか人間たちは生存していくことができるようになっているのだと思います。
しかし、これらはあくまで人工物。万能でも絶対でも本質でもないので、時たまボロが出てエラーを吐き出すこともあり、集団内の環境に適応できない個体も一定数出現してしまうと思います。それは現代においてもそうで、というより現代においてこそ、集団維持のための論理と個人のより良い生存との間の矛盾が、よりいっそう明らかなものになってきているのではないかと個人的には感じています。資本主義社会の強制する競争原理や市場や労働への参加、消費・収奪・搾取の応酬は、とてもすべての人間が適応できる論理ではないと思います。少なくとも私は適応できずに疲れ果てています。
社会規範に自分自身が壊されてしまう前に、自分にとっての幸福を見つめ直し、それを獲得する術を確立することは、とても有効なことだと私も思います。私も社会に押し付けられる「正解」に惑わされず、これからも自分にとっての生・幸福を追求していこうと思いました。
しかし、現在の社会の中で生きづらさを抱える人の多さを考慮してみると、個々人の努力にのみに頼るのは限界があると言えますし、耐え難い苦しみによって自身の生に向き合うことができる、というのはかなりリスキーだなと感じました。この状態を放置していては、集団全体の幸せを増加させることにはつながらず、集団維持という観点からも決して良くないと思うのです。願わくば、社会に潜み、各個人を追い詰めている「何か大きなもの」がなくなってほしいと感じました。
感想1
私自身「なぜこんなにも苦しいのに、それでもなお私は存在しているのか」と考えてきた中で考えてきたことと重なる部分も多く何度も頷く思いでした。あなたの経験談を読みながら、これまで考えてきたことや読んできた本のことなどを思い出したので、思いつくまま書いてみます。
まずあなたの「生きることそのものは、本来とても苦しい」を前提にすえる考え方を読み、私は仏教の「一切皆苦」の思想を思い出しました。生命は「『生きること』自体が目的」でそれが人間も例外でないということについても私も同意します。西洋哲学が長年「本質」を探してきた中で「実存は本質に先立つ」と言った哲学者がいますが、私は「本質」というもの自体が人間の幻想だと感じていて、「先立つ」というよりも、強いて本質を定めるなら、実存そのもの、生きることそのものが本質なのだろうと思っています。
私は宇宙などを含む「世界」と地球上のさまざまな人間コミュニティである「社会」とを混同せず、その上で、社会の規範を疑い捉え直すことはとても大事だと個人的に思っています。不採用=死などの観念も資本主義や能力主義などさまざまな価値観が私たちにたくさん降りかかってきた結果、確信となってしまう瞬間があるのだと思います。それらは普遍的な真理でも本質でもなく、この社会の最近の流行りでしかないのに、ひと時を生きるだけの私たち一人一人は、普遍性のあるものだと思い込んでしまうことがとても多いように感じます。文化人類学は「文化相対主義」に基づき社会を捉え直すことで、私たちのあり方を問い直してきましたが、そのような試みはさまざまなレベルや範囲で必要なことのように感じます。「人権」も人間の歴史が発明した概念で、私はそれが現状完璧だとは思わないまでも、社会を見直し、社会の一部である自分を見直すための思考には必要なものだと思います。
私も現在もさまざまな価値観に無自覚なまま生きていて、それを死ぬまでにすべて解くこともできないでしょう。どうしても、気づかずに他者を踏みにじってしまっていることもあると思います。だからこそ、私は問い続けたいと思います。「自分を追い詰めている「何か大きなもの」を跳ね除ける」ことは、そうたやすいものでもないと思うのですが、あなたのように思考を言葉にする人がいることや過去の人々が考えたことが本として残ってきたこと、また議論や対話を重ねることで、すこしずつでも紐解いていき、抵抗することができると私は信じています。それは自分のみならず、他者を追い詰めているものをもどかしていく力になりうると思います。
「『世間が押し付けてくる意味付けを拒絶し、自分の脳内物質を自力で管理する』という”覚悟”」という表現になるほどと思いました。私自身、脳内物質に左右されまくりな自分にいつも困りつつ、面白くも感じつつ、生きています。
私は世界を美しいものだとなぜだか確信していて、世界に偏在するさまざまなものは世界のあらわれとして私の心を震わせるのだと感じることがあります。私はそれに多大な幸福を感じ(あなたの整理で言えば、何らかの脳内物質が発生していることだろうと思います)、これ自体が私の信仰だと捉えています。 (あなたがあなた自身の幸福の瞬間を見出そうとしているのを読み、私自身の信仰の話をしてみたくなったので、すこし書いてみました。)あなたの世界認識と信仰を教えてくれてありがとうございました。よかったらまたあなたの話を聞かせてください。