幼少期から、家族とはコミュニケーションがとれませんでした。
家と学校では全く別人でした。親や兄弟は別に悪い人じゃないんです。外からみたら恵まれてる普通の家族。
でも私だけが、全然家族と話せなかった。
自分の気持ちも、考えも、将来の夢も、日常のことも、やりたいことも何も正直に話せなくて。
家族と話すことが強烈な恥でした。学校で友達と話してる自分とか、外の自分は絶対に見せたくなかったです。今も話せなくて。友達の結婚式や、仲のいい家族をSNSで見るとこんな世界があるんだって驚きます。
本当にやりたいことを、家族や周りに言えないで恥でやらずに来たことへの後悔も、すさまじくあります。
今からでもと始めたこともありますが、早く始めたかったという後悔の声に胸が張り裂けそうになります。
何でこんなふうになってしまったんだろう。
コミュニケーションを取れなかったことについての親への罪悪感もすごいです。
自己肯定感や不安感、見捨てられ不安も強い、いつもびくびくして自分を偽ってます。
他人と本当に心でつながってる感覚を感じたことがないです。
都合が悪くなるとすぐ嘘ついてしまう。
常に人と比較して、自己嫌悪や嫉妬や恥、罪悪感に覆われている感覚です。
そして子どもの頃、容姿のことで突然ブスと言い放たれたり、なぜか自分だけ雑な扱いを受けたり、それがいま自分の外見の自信のなさや、他人にすっぴんを見せられない恐怖心や、他人が自分をどう見てるかを異様に気にしてしまったり。
人生で一度もパートナーができたこともありません。周りには恋愛経験のないことを知られたくなくて、恥ずかしさと怖さで嘘ついたこともあります。
大人になってADHDとASDの傾向があることがわかりこれまでの生きづらさも腑に落ちることがありました。
それなりの企業で働くことができましたが、自分の傾向を職場の人には伝えてないので、なかなか理解されないこともあります。仕事で、何か成果を出さなくては、頑張りを見せなければ、オーナーシップを持たなくては、自分から動かなくては、自分の存在価値を見せなければという焦燥感や焦りもあり、しんどいです。
やりたいこともあるのですが、いまいちそれに向かって努力ができてない自分も。
周りはみんなどんどんやりたいことを叶えてるのに自分だけできてない。置いてかれてる。
周りの人がわたしのやりたいことを聞いてくれてアドバイスをくれても、それに応えられらない自分。
結局わたしは、できない自分に甘えている。継続ができない。
この現状は自分がそういう道を選んでしまってるから、沢山にげてるから。
そんな自分の甘えにも嫌気がさしてます。
死にたいとは思わないですし、死ぬ勇気なんてないので、でも生き地獄だなあって
ふと思います。
自分、本当ぐちゃぐちゃです。
経験談はそれぞれの投稿者の個人的な価値観や感じ方をそのまま掲載しています。一部、リアリティのある描写や強い価値観が含まれるため、読む人にとっては負担等を感じる場合もあります。各自の判断で閲覧してもらえるようにお願いします。
気持ちを吐露
感想2
長い時間を過ごさなくてはいけない家族とコミュニケーションが取れなかったこと、誰とも心で繋がる感覚を得られなかったこと、そうしたことを抱えながら日々を過ごすのはとてもしんどかったろうと感じました。
社会学の一理論によると、人は場面・状況によって要請される役割に応じて、仮面を付け替えるように自己(ペルソナ)を使い分けるものとされていて、その場に相応しくない自己を見せてしまうと、「本来その場で見せるべき自己」と「間違って見せてしまった自己」の印象が相違してしまい、ちょっと気まずくなってしまうらしいです。家で見せる「家庭の一員」としての自分と学校で見せる「一人の生徒」としての自分が全く同じである、という人は案外少ないと思いますが、あなたの場合、家の中で外の自分や、自分の本心を見せることは「ちょっと気まずくなる」では済まず、「強烈な恥」とまでなってしまっていたんだなと思いながら読んでいました。
文章を読んでいると、自己否定感と自責の感情がとても強いように感じられました。それにはコミュニケーションの特性のほか、子供の頃に他人から蔑ろにされた経験も多分に影響しているのかなと想像します。おそらく、このような経験も家族にも、誰にも話せずにずっと一人で抱え込んできたのではないかなと思いました。傷つきの経験を他者に話すこと自体ハードルが高いことと私は感じますが、事態を把握したり言語で表現する能力がまだ成長途中の子ども時代であれば、尚更どうすれば良いか分からず、混乱したのではないかと思います。
あなたが過度に他者評価を気にしたり自他を比較したり、他人軸で生きてきたことは、他人に気持ちを上手く伝えられた経験がなく、その上他人に傷つけられる経験を重ねたあなたの精一杯の生存戦略であったのではないかと感じました。けれども、あなたが傷つけられるいわれは絶対になかったし、ずっとあなたは、社会に勝手に用意された「型」にはまって生きていくよう、困難を自己努力だけで乗り切るよう強要させられているために起きたことではないかという気がしています。
ここに気持ちを吐露しにきてくれたこと、自分の本心を伝えることに怯えているあなたにとっては、もしかして多少なりとも思い切りが要ったのではないかなと思っています。
あなたが「自分を出しても大丈夫だったぞ」と思えることが少しでも増えたらいいなと感じています。その経験を増やすためにも、ぜひこの場を活用してくれたら幸いです。
感想1
感情は否応なしに襲いかかってくるもので、とくに恥の感覚は自分の中にしまい込まれやすい、負担の大きいものではないかと感じています。「強烈な恥」という感覚が家族との会話にあれば、かなり日常的に苦しい時間があったのだろうと思いました。
「家と学校では全く別人」ということは、発達障害……というかニューロマイノリティタイプの人では少なからず聞くことがあります。たとえば場面ごとのモード切り替えをしているようなイメージとすると、別の場所での自分を見せることは、その中の論理やモードを破綻させるようなものとも言えるのかなと思いました。私自身も大人になってから発達障害の診断を受けましたが、子ども時代、家と学校では別の苦労がありました。あなたにとっては、家よりは学校の方が負担の少ない場所だったのでしょうか。ただ、「他人と本当に心でつながってる感覚を感じたことがない」とあったので、学校で比較的うまく自分を運用していたとしても、それがあなた自身の心を安心させるような形では機能していなかったのかもしれないと想像しています。
人と比較することや「他人が自分をどう見てるかを異様に気に」するなどを読んで、あなたは自分がどうであるか、どう合わせたらいいかわかるための指針を必要としていたのかなと思いました。評価の軸や価値観は環境やコミュニティ、シチュエーションによって異なり、合わせるには常に気を張っていないといけない部分もありそうです。会社でも、そこで語られる指針に適応しようと頑張ってきたら、それは過剰適応と言えるほどのものになるかもしれないと思います。そう考えると、その中で自分のやりたいことにいまいちリソースを割ききれないのも無理もないことかもしれないと思いました。
本当であれば、発達障害とか、なんらかの名前がつくかどうかに関わらず、さまざまな個人がいるのだから、それぞれ個人にとって無理なく働きやすい環境調整ができて当たり前なのがいいと思います。でも「特別な配慮」を必要とするか否かみたいな2択を超えないと、環境調整をしてもらえず、自分ひとりで大変さを抱えることが現代社会ではまだとても多いと思います。その中で、さらにSNSなどはさまざまな規範(恋愛すべきとか、お金を稼ぐべきとか、家族と仲良くすべきとか……)に溢れていて、気づけばとても負荷が高い生活になってしまっている感じがします。
これまで気を張ってきたからこそ、そもそもどう力を抜けばいいかわからないところもあるのかなと思いますが、経験談を書いてくれたことは、他では言いにくいことを吐露してくれた要素もあるのかなとも思いました。書いたから解決するものではないかもしれませんが、吐露することが必要なタイミングなどがあれば、書きにきてもらえたらうれしいです。