元々何かと器用でやってみたら案外できる。成績も残せるような感じでした。小四までは母が女手1つで私と妹を育ててくれていました。器用な私の特性を生かせるように習い事などもさせてくれました。それが嬉しくて、私は期待に答えることが生きがいになりました。しかし、小五で父親ができ、父親からのプレッシャーも相まって、中学受験を選択したり、元々長く続ける予定でもなかった習い事をそのまま強豪校で続けることになりました。中三まで強豪校の中で部活を続け、高校に上がる頃でした。急にプツンと何かが切れたようにやる気が起きなくなってしまったんです。部活内でもトップ選手になれたわけでもありませんでした。期待に応えきれていないという思いから私は本当は何がしたかったのかわからなくて、とりあえずまた他のところで期待して貰えるように新しいことを初めてみて、上手くいかなくて親のお金を使ってしまっただけ。この流れが続き私は自分自身がわからなくなってしまいました。今現在、一人暮らしをしていますがそこで少々警察沙汰を起こしてしまい、逮捕には至らなかったものの、人生に傷をつけてしまい、親の顔にとうとう泥を塗ってしまうところまで堕ちて、妹やその他親戚、被害者にも多大なる迷惑をかけてしまいました。輝かしい人生から一変、こんなにも堕落した人間になってしまったのです。今は消えたくて消えたくて仕方ありません。
経験談はそれぞれの投稿者の個人的な価値観や感じ方をそのまま掲載しています。一部、リアリティのある描写や強い価値観が含まれるため、読む人にとっては負担等を感じる場合もあります。各自の判断で閲覧してもらえるようにお願いします。
転落人生
感想2
母親さんに自分の特性を理解し、受け止めてもらえた喜びが伝わってきたのと同時に、それがあなたにとって、更に更にと休むことなく期待に応え続けなければいけないものへ形を変えていってしまった様子も感じました。軸に”誰か”がいる生き甲斐は、時と場合によって良い時もあれば、苦しくなってしまう時もある気がします。(私はですが…。)相手がどう思うかをベースにするあまり、自分自身の心の中の何か一部を見失ってしまうような、そんな感覚が私にはあったのかもしれません。あなたも似た瞬間があったかなぁと、勝手ながら考えています。高校に上がる頃までもきっと、様々な無理をしてきたのかなと想像しました。父親さんからのプレッシャーが重なった部分もあるかもしれませんが、正直私は強豪校でなくとも部活自体がなかなかしんどかった思い出があるので、「強豪校だから」というプレッシャーもまた、あなたにとって日々とても重くのしかかっていたのではないだろうかと思いました。どんな形でも常に期待に応え続けなければと、親に言われた事でもなく、自分で「これで期待に応えられるかもしれない」というものを、必死に探し続けていたあなたがいたのかなと思います。それはもしかしたら今もで、自分を責めながら、それでも手探りに何かを掴もうと苦しんでいるんじゃないだろうかと、私の中のイメージですが、浮かんできた気がしています。人生に傷、泥、堕落という言葉から、「こうあらねばならない」と何かの強い観念を抱えているのではということを感じつつ、でもそれも、そうせざるを得ない環境にいた背景があることを思いました。そんな風に言う私には強い観念があるので、なんとなく共感というか、共鳴なのでしょうか…うまく言葉に出来ないのですが、とても勝手にそんな感覚になっています。もしここであなたの気持ちや現状を書き出せるのであれば、また利用してみてほしいです。投稿ありがとうございます。
感想1
タイトルや「輝かしい人生から一変」との表現から、言葉ではある日を境に何もかも突然失ったように書かれていますが、そこに至るまでも多くの傷を負いながらあなたが無理を効かせていたのかなと想像しながら読んでいました。
「不器用」を自覚している私としては、「どんなこともある程度の水準でそつなくできてしまう」という「器用」という感覚もわりと認識しやすいんだろうなと想像しています。幼い頃のあなたもそんな感じで「自分の器用さ」を認識したのだろうかと思いながら、まだ興味や関心に率直であると思われる年齢において、幅広くいろんなことを経験させてもらえる機会の多い日々が嬉しいと感じていたことには、同じくあなたの率直な気持ちがあったのだと思います。
ですが、もしかしたらそこには単純な興味・関心以外に「母が女手1つで私と妹を育ててくれていました」ともあるように、自分たちに対して忙しい中でも眼差しを向けてくれることへの期待に応えなきゃと義務感のように思っていた部分もあるのかなと私には思えました。それはそれであなたの本当の気持ちであったのでしょうが、父親からのプレッシャーも増えてからは「一人歩きした器用」という他者からの印象が、あなたを縛るものとして成立してしまい、「器用だからできるだろう」と過度な期待を向けられることに繋がったのかなと私には感じられました。
もちろん期待されることそれ自体が悪いことだとも思いません。それは「自分を信じて願いを込めてくれている」と言えることも考えると、モチベーションにも繋がる気がしますし、挑戦して研鑽する過程は自分にとって有意義になったり、成長になることも多い気がします。しかし、「期待に応えること」それ自体が目的になってしまうと、積み上げたものに目を向けられなくなり、行動したことによる像そのものがぼやけてしまうように(私の経験としても)思えます。
警察沙汰になってしまったことがどんなことだったのかは私にはわからないのですが、それはもしかしたら「期待に応え続けること」「なんでも器用にこなして見せる」ことに対してあなた自身が感じている葛藤やその反動、SOS的な行動でもあったのかなと思わず感じてしまった私がいます。生きることの厳しさを考えた時、「器用である」や「期待に応えられる」というのは少なからずアドバンテージになりえるのかもしれません。しかしながら、あなたの人生を生きるのも形作るのも他ならぬあなたであることを考えると、その期待はあくまで、他の誰でもない“あなたのため”であってほしいなとということを勝手ながらに思いました。