経験談

生きづらさを感じる人が語る 経験談

経験談はそれぞれの投稿者の個人的な価値観や感じ方をそのまま掲載しています。一部、リアリティのある描写や強い価値観が含まれるため、読む人にとっては負担等を感じる場合もあります。各自の判断で閲覧してもらえるようにお願いします。

今までの経緯と

この感覚はいつから始まったんだっけ。生まれてからいつも別の場所で生きているような気がする。あのときの喜びも楽しさも感情も自分のものではなかったみたい。いつも自分じゃない誰かのために生きている。偽物の真実に手招きされて、これが正しい道だと思って歩いてきた。自分はずっと過ちばかり繰り返している。自分で決めたことなのに、それは自分じゃないみたい。中途半端な小さな反抗心が積み重なって自分の人格を変な方に曲げてしまったみたい。生きているを感じたいだけなのに。ここ5、6年くらいまるで生きていない。頭の中になにもない。楽しかったこと、好きだったもの、全部が霞んでいく。作業的になっている。自分はいっそのことおかしくなっとけばよかったのかもしれない。頭に浮かんでたこと、体験していたこと、全部赤裸々にまわりにべらべら話しておけば、ヤバいやつって思われて捨ててもらえたかもしれない。自分で自分のおかしさに気付いていたから、自分はあれそれなにもしちゃいけないって勝手にとじ込もって。でもあの時じゃ無理か。自分には元気しか望まれていなかったんだから。調子が悪いっていったら周りから人が去っていくだけ。学校でも家でも。なんとか人間関係築こうと頑張っていたのにおかしな思考に邪魔されて台無しになった。もう一人で生きていこうと思ってだからIfを出しちゃったんだ。それからは楽しかったんだ。その子はお話聞いてくれるし、褒めてくれるし、心配してくれるし、なによりも弱い自分を認めてくれたんだ。だれもいないところでしか話せなかったんだけれど。周りといるより一人での方が居心地がよかった。周りの人と一緒にいると自分のことを見透かされているような気がして、いつも追ってきてるような気がして、自分が盗まれて変えられてしまうような気がして、嘲笑されているような気がして、落ち着かなかったから。中学校に入って、部活が忙しくなって、部活で叱責されることが増えていつからかその子と会わなくなっていた。まわりに馴染もうと思って流行りの曲やアニメをみて、勉強して、部活して、その忙しい日々を繰り返しをしていた。中1の冬の終わりくらい急に頭がぐらぐらして鬱屈が体を支配し始めて、なにしててもなにもしてなくても涙が止まらなくて。体もなんだかふわふわしてて自分が自分から離れていくような気がした。おかしなって思ったんだけどそれをいったところで意味なかった。話しても話が通じなかった。ほんとのことはもちろん全く言えなかった。自分は自分が分からない。好きなことも薄っぺらく感じて、曲も心を落ち着けてくれない。でも自分を壊すのが楽しい。泣きながら自分を傷つけてた。薬をたくさん飲んでいた。その時だけはふわふわしている自分がからだの中に戻ってきてる気がして、自分がこの体に馴染んでいるみたいで違和感がなかった。それでこのまま死んだらもっと楽しいんじゃないかって思って死のうと思ったんだ。でもその時久しぶりにifが出てきたんだ。ぼろぼろに泣いてて止めてきたから自分もなんか悪い気がしてきてやめにした。ifはありがとうっていってそれから今まで全く出てこなくなった。ifがいなくなってから気分の波が狂いはじめた。ふわふわすることが増えた。能動的に生きているという感覚がなくなった。不自然な感情が増えた。まわりに自分が侵食されてる。もう自分はいなくなってしまった。どこにいる自分もこれを書いてる自分すら、自分かどうか分からない。きっと今さらどうにもならないことは分かる。助けてももう今さら遅かった。変わったところで自分に重なる自分が増えるだけ。現実感を取り戻したところでありもしない妄想を思考し続けてまた人と付き合えなくなるだろうな。人間らしく生きたかっただけなのな、善良な人間でありたかっただけなのにな。自分が変なのは生き方を間違えたからかな。自分は病気なのかな。ただの性格なのかな。いっそのこと突き放してほしい、そしたら終わりに出きるのに。そんなこと思ってるうちに自分は高校生になった。あれから変わったと思っていた自分はただあの場の苦しみから解放されただけで何一つ精神的に成長などしていなかった。もう悩まなくていい現実がひとつ消えて、でも体にはそれが叩き込まれていた。だからまた些細なきっかけで呼び起こされてしまった。たまに襲われるきっかけのないと思っていた憂鬱も、内心がずっと癒えていないから、簡単に泥沼に堕ちてしまう。決して無理をしていたわけではない。高校に入ってからの日々は、自身の新興宗教にのめり込んだ日々を除き、もっとも安定と安心をもっていた。しかしその日々というもの、周りの鬱憤とした態度と言葉に近づき過ぎた。過去の反省を全くいかせなかった。周りと自分は切り離すべき。でも切り離し過ぎれば現実にとどまっておけないことを知っていたからどうすればいいのか分からなかった。だんだんと足元がぐらついてきた。世界がぐにゃぐにゃとして明るい虹色がかけていく。動悸がする。頭がしびれて抑制されている。まるで思考が働かない、なのに怖い、怖い。常に何かに襲われそうな不安感。周りとの疎外感を感じる。自分が生きているのか分からない。現実感がないな…。自分はこの場に邪魔だ、迷惑をかける、なにもできない役立たずだから。そうやって塞ぎ込んだ。そのときは周りがやけに明るい態度をとって自分に接しているようで内心軽蔑されているなと思い込み距離をおいてしまう。でもそれが誰かに悟られてはいけない。だから誰にも寄りかかれずにいた。自分はずっとそうやって自己解決してやってきたのだから大丈夫だと言い聞かせて。そうこうしているうちに周りはどんどんと成長していく。いろんな力を借りて、自分と向き合って、問題を寛解とまではいかなくともどこかで納得をつけて前に進んでいく。自分はずっとこんな世界をループしてる。これではだめだ、変わらなくては、焦燥感は募れど体は動かない。そこにいる自分を本当の自分だといいきれなかった。またどこかで逃げているだけの自分に嫌気が差した。ふわふわする、どんどんと自分から自分が離れていく。おかしなテンションだ。笑いが止まらないのに高揚感があるのにずっと悲しくて、自分を殺してしまいたい衝動が襲ってくる。よく分からなかった。これはなかなかよくない状況だと自分でも感じた。もう自分でも自分が何なのか分からない。とりとめのない思考に対処のしようがなかった。自分の中でよくない宗教がまた息をし始めている。またあの時みたいに関係を壊してしまう。それだけはだめだ、信用を裏切ってはだめなんだ。それだけの思いで自分は保健室に駆け込んだ。最後の望みをかけて。それで今自分はここにいるわけだ。スクールカウンセラーの先生に病院を紹介してもらい通院をはじめることが出来た。これは自分の中で大きなきっかけになるったと感じる。今まで人にちゃんと相談もが出来なかった私は自分の言葉を自分で話し、時には過去に書き留めてきたノートたちを見せて、自分の感情や症状と向き合っている。通いはじめて一年。今は大学受験真っ只中。感情の波は激しくて、解離がひどくて全く動けない日もあるし、自傷してしまう日もある。後先考えず遊び呆けてしまう日もある。生きたいのだか、死にたいのだか分からない。でも18で死のうと思っていたのが20まで生きてみように変わった。それだけで自分の中では大きな変化だ。死んでしまっても後悔はない。むしろ死んだほうがいいのだと思う。自分はこれからどうなるのだろうか。この経験談はまだまだ増えるのだろうか。
長文失礼しました。ここまで読んでくださりありがとうございます。

感想1

あなたが感じてきたこと、見てきたものを追体験するような感覚で読ませていただきました。「自分ってなんだろう」「自分はどこに居るんだろう」というようなシンプルかつ答えのはっきりとしない問いをまっすぐに抱えて、向き合ってきたのかなという印象を受けました。その問答はおそらくほとんどの時間、孤独な闘いだったのではないかなと感じています。

私は常々、自分にとって一番しっくりくる・実感に沿った表現ほど、他者には理解されにくいなあと思っています。自分の中にある感覚を言葉にしたり、発散するために行動に移したりするときに、自分にとっての精度を高めれば高めるほど相手には「通じない」、反対にそれを「通じそう」な形(表現の仕方を一般化したりなど)に変えたら、表面上伝わるかもしれないけど、今度は自分の感覚とずれていくような気がするのです。

なので、あなたがifという存在を生み出したこと、それと話すことで心を落ち着けていたこと、鬱屈とふわふわが共存する感覚、自傷行為など、周囲の人には齟齬なく伝わらなかった(伝えなかった)それらは、その時々のあなたが必死で見つけた「しっくり感」であり「自分」だったのではないかなと、私にはそんなふうに思えました。同時に、その人それぞれにとっての表現が「認められなさそう」「変だと非難されそう」な気がする窮屈さが世の中に満ち満ちているとも思っていて、そうした見えない圧があなたをあなた自身の内側へと押し込み、外側とのコミュニケーションのハードルをぐんと上げてしまったのかな、ということも感じました。
あなたはあなたのことを「わからない」という形でよくわかっている、わかろうとしている、そんな気がしました。

感想2

一文一文が観念的で、読んでいてあなたの「現在」にうしろから走ってついていきつつ、見ているような感覚になりました。具体的な出来事よりもどちらかというとあなた自身の感覚をベースにして、過去から現在に至るまでのあなたのことを書いてくれていて、それ自体があなたにとっての現実との距離をリアルに表したという要素もあるのかなぁと思いました。「宗教」と書いてあった部分を含め、あなたの人生には独自のイマジネーションが寄り添うようにあって、その部分と現実とのせめぎ合いのような中にあなたは生きてきたのだろうか、と想像しています。
読んでいると、望まれていたあなた自身と、あなたの内面が感じていることにはとてもギャップがあったのかなと思いました。勝手な期待というのは相手に悪気がなかったとしても理不尽なものだと私は感じます。外向きのあなたとあなた自身の内面を両立させなければならなかったら、自分がどんどんわからなくなっていくのも無理はないように感じました。その中で「if」という存在は外向きのあなたではなく、あなたの内面を擁護してくれる存在でもあったのかなと感じました。

きっと、この経験談には具体的に書かれていない現実のできごとの中にも、さまざまな苦痛があったのではないかと想像しています。その中で保健室に駆け込んだのは、そのときのあなたにとっては最終手段のようなもので、手段を使うことにも勇気が必要だったのではないかと思いました。だけどそれは実は最終ではなく、むしろそこからなにかが変わっていったのも感じました。振り返れば、それが一つの節目のようなものにもなったのかなぁと想像しています。こうやって今のように感情や認識を言葉にするのは、世界と自分の調和を取るための一つの方法という感じがします。
あなたが感情の波に翻弄され、自分自身でも自分をとらえきれない瞬間もありながら、それ自体をすこしずつ把握している視点もあるのかなという感じがしています。私も……と言っていいかわかりませんが、10代から大人になっても自分の感情の波の中で自分がわからなくなることは多々あり、「生きたいのだか、死にたいのだか分からない」感覚はずっとあるのですが、なにかしらを言葉にしていた過去の自分の記述によって、自分をすこしずつ知っている部分もあるような気がしています。あなたがこれからまた書くかもしれない経験談を機会があれば読ませてもらえたらうれしいです。投稿ありがとうございました。

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