私は自他共に認める考えすぎな人間です。何事も考えて納得するまで考え尽くした選択でないと前に進めません。それは他者や環境など外的なせいにして自分の選択を後悔したくないからです。
私は小学生の頃にはじめて死にたいと思いました。それからベースには死にたいという思いがあり、生きることに決して前向きではありません。それでも死にたいという思いは世間から見るとタブーであるため、その思いが顔を出さないようにという、ある意味義務的な理由でいろんな目標を立て自分なりに自分の存在価値や生きる意味を見出そうとしていました。
しかし、先述の通り私の目標は世間の目線を気にしたものであり、義務的である認識を持ちながら立てたものです。そのためボロが出てきたのです。死にたいと思ってるのになぜ良くしていかなければならないのか、目標を立てて頑張る意味はなんなのか、考える日々が始まりました。
これは現時点での考えであり、まだ納得できていないのですが、タイトルにあるように考えすぎで納得するまで考えたい私が一つだけ諦めるとすれば、「死ぬこと」です。自殺に関してたくさん調べてきましたが、確実に死ねる方法などないのです。自殺に失敗した後の人生のほうが苦だと私は思いました。人間図太くて簡単に死ねないんですよ。憎いですね。
ただこうしたリスク把握のもと、死にたいと思ってもいいけど、まずは死ぬことを諦めたほうがいいと思いました。そしてただただ1日を平凡に過ごすということ。死ねずに生きていかなければいけないのならば、少しでも痛みは減らしたいという思いでとにかく1日をやり過ごす。大きな目標も生きる意味もなくていいです。見つけたいなら今はその旅の途中だと理解し、見つけるまでを思うと長く感じるので先はあまり見過ぎないことです。ただただ1日を過ごす。これだけなのかなと思っています、今のところ。
経験談はそれぞれの投稿者の個人的な価値観や感じ方をそのまま掲載しています。一部、リアリティのある描写や強い価値観が含まれるため、読む人にとっては負担等を感じる場合もあります。各自の判断で閲覧してもらえるようにお願いします。
ひとつ諦めるとすれば
感想2
考え抜いた末にあなたが見出した生き方に対して、静かに頷きながら読み終えました。これだけ幼少期から死にたい気持ちに蓋をして、周囲にその気持ちを悟られないよう(生きることを選んでいるかのよう)に生きてきたのですからそこまであなたの考え抜き、気を抜かないように生きざるを得ない経験があったのかなと想像しました。(いくつか想像しましたが、憶測で書かないことにしました)
良く考える人に対して、時々「考えすぎだよ~」って気楽に言う人がいますが、私はそれに違和感を覚えます。私もずっと考えている人だからなのかもしれないけれど…。
話は戻りますが、あなたが立ててきた“世間を意識した目標“が印象に残りました。あなたの中にある世間の目は自分の本質とは離れていて無理をし続けることになったのかなと想像します。考えすぎるもの同士、世間について語ってみたいです。私は「世間」が自分の真ん中にある(周囲の目を気にせずにいられない)経験を経て、少しずつ「自分」が真ん中でもよくなる(周囲の目が徐々にどうでも良くなる)経験をしてきました。あなたは「世間を意識して頑張った結果…何になるの??」と自問自答している時期かなと思います。一方であなたの中で「世間」と「生きる意味」が関係しているような気もしました。私は時々思ってきました。「夢や希望や目標とかキラキラした世界があるけれど、生きる意味って本当になきゃならないのかな…考えてみてもわからないな」って。だからあなたが「大きな目標も生きる意味もなくていい」って書いてあった一文に「うんうん」と頷きました。そう考えるとあなたはこれまでの経験を経て、ひとつ諦めて(ひとつ捨てて?置いておいて?)今のところ静かな心にたどり着いて生きているような気もします。
考えてみると私はその日その日をただ静かに生きたいだけなんだって改めて思いました。あなたの投稿を読んで私がたどり着いたささやかな願いです。
感想1
あなたの投稿を読んで、「諦める」について考えたくなりました。諦めることは欲を手放すことなのかなと思いました。私はこれまで「死にたい」は気持ちに分類していたのですが、もしかすると「死にたい」は欲に分類することもできるのではないかと思いました。
そして、欲だと仮定すると、死にたいを諦めることで、死にたいという執着(執着と表現することが適当なのかはまだ悩み中です)から解放されて、静寂や穏やかな心持になれるのかもしれないと期待してしまいました(期待するあたりが、浅はかか・・・)。
自分の存在価値や生きる意味を考える必要に迫られる環境の中、生きてきた方なのかもしれないと想像しながら読ませていただきました。他者や環境など外的なせいにして自分の選択を後悔したくないという姿勢についても伝わるものがありました。なぜならば、過去を分析したうえで、過去に執着することなく、今を生きている感じがしたからかもしれません。