急に白黒思考に陥ることが増えた。元からの双極性障害による心理傾向だという面もある。あとは気質。曖昧な折衷案だって、それはその瞬間で何かを決めているのだから、白黒どちらかはつけているわけで…
死にたい、消えたい。他責するでも自責するでもどちらだって、防衛機制。自己受容が生きるテクニックなら、死にたい消えたいも気持ちをありのまま受け止めることはできる。では、その気持ちをありのまま実行してはどうなのか?と思うこともある。それも自己受容の一つの形なんじゃないのか?と。
仕事、家庭、叶わない何か、忘れてしまった夢、無駄に抱いて打ち砕かれる期待。
子供の頃の自分が描いていた希望も忘れてしまった。
逃げ出したい、肩の荷を下ろしたい。そう思っても、頑張ってきた自分、過去に勇気を持って決断した自分。応援してくれた誰かのあの時の言葉を大切にしたいと願う自分。
そんな自分も裏切るのかと。認めてくれ、今の自分はこうなんだと。なんとも情けない。
そして、では自己受容したとて、何者になれるというのだろう。ありのままの自分とは。果たして、自分とはなんなのか。
自分は自分を必要としているか。
こんなことならば、生きたいと願う誰かに。大切だと思っていた誰かに。ペットや動物、草木や様々な自然にも。ただ息をして生きる自分の寿命があと幾許あるかわからないが、分けてあげたい。その分、他の命が昇華してくれるかもしれない。これが逃げ口上で現実逃避なのも分かっている。
死ぬ勇気はない。覚悟もない。結局、何か言い訳をして腹を括れない。たとえば結婚を祝って、喜んでくれた両親。生活を支えてくれていた年の離れた姉。少なからずは慕ってくれた後輩。生を全うしていた過去の自分。
だから、叶うことならば。
この世に最初から、自分などと言う存在はいなかった。
誰の記憶にも、何の記録にも、細胞の一粒さえ、この世にはなかった。幻だった。
そうか。やっぱり。自分なんか自分自身がいらないんだ。そんなことを思うと、すっきりした気持ちは生まれる。
同時に、叶わない望みだからこそ、苦しく、ああ、こんなことも。せめて死ぬこともしてあげられないのか。ともやもやと鳩尾の真ん中辺りで、粘ついた思いがゆっくり喉まで上がってくる。
きっかけの出来事に、自分自身でもたかがそんなこと。
視線を変えれば、いいんだ。
…なんて気持ちになれることはあるけれど、それまでには葛藤も苦しみも絶望もある。
毎度繰り返して、毎度消えてしまえば、このループから解放されるのに。と願って止まない。
感想1
文章全体から自分の思考を言葉にすることで自分自身の傷を手当てしているような印象を持ちました。考え直したり、逆算したり、視点を変えたり、納得したり、立ちつくしたり…なんというか、あなたの投稿文を読ませてもらって、生きることは葛藤や矛盾を抱えながら日々を送ることなのだと私の中で妙に納得しました。(あなたからいやいや、一人で納得されても困ると突っ込まれそうですが…)何よりもこれだけ思考する力こそがあなたがあなたである、生きている力なのかなと私は感じます。
生きていると理想や期待を抱くのは自然なことでそれに比例した時は喜びがあるでしょうけれど、反比例した時は絶望や諦めがあるのだと私は考えています。そしてそれに対してその時々どのように折り合いをつけられるかが生きる力でもあると思うのですが、まさにその力があなたから感じられるのです。
とは言えこれだけ自分の存在をテーマに葛藤されているので、きっとここには書かれていないしんどい思いをしてきた経験(もしくはしている経験)があるのだろうと私は想像しました。
生きることとは、いつか必ず訪れる死に向かって歩く道程だと、私は改めて感じたところです。その道程は難しくしんどいものだと私は思うのですが、あなたは思考のスパイラルを繰り返しながら自己受容をしようとしています。あなたの生きる姿を私は静かに応援したい気持ちになりました。
投稿ありがとうございました。